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42話「鏡宿の断章」—ベールサラム地下・嫉妬の罠

旧市街のさらに下、地図が白紙の層を抜けると、世界は一色になった。壁も床も天井も、磨き上げた鏡。息を吸う音さえ幾重にも返ってくる。


セインの胸元で、黒紅のペンダントが鼓動に合わせて熱を打つ。拍は早い。ここが“起点”だと身体の芯が告げていた。


「……気圧、変わった。耳が詰まる」トーマが顎をさすり、盾を少し傾ける。「鏡、割れたら反射が暴れる。注意」


エリシアは視線だけで周囲を掃き取った。「風、通りにくい。層がある。切れ目を作れば通れる」


ミリアは胸に手を当て、喉をそっと撫でる。「響きが濁ってる……整えられると思う」


エルンはふとセインのペンダントに目を落とした。「また熱が上がってる。やっぱり鍵はそれだ」


鏡の広間の中央、ひときわ大きな“姿見”に近づくと、鏡面が水のようにさざめいた。波紋の向こうから、ひとつ、またひとつ人影が這い出てくる。顔は細かい鏡片の仮面、関節は金糸で縫い止めたような、無表情の兵士。


「来るぞ」トーマが一歩前に出た瞬間、鏡の拳が盾を叩いた。甲高い音とともに天井にヒビが走る。


エリシアが指先で風路をつまみ、刃先に細い風の筋を巻く。「まとめて裂く」


ミリアの短い和音が空気の歪みを整え、反響が和らぐ。


セインの目には、鏡兵の関節の継ぎ目が光って見えた。そこだけ世界のノイズが薄い。“刺さる一点”——踏み込んで斜めに一閃。鏡兵は砂のように崩れた。二体、三体、連なる手順で落としていくと、やがて広間は静けさを取り戻す。


ただ一枚、中央の特大鏡だけが無傷でこちらを映していた。映り込みがゆっくり暗くなり、黒い湖面に変わる。水面を押し分けるようにして、一人の男が現れた。


黒髪を撫でつけ、薄い緑の瞳。灰のロングコートは片側だけ鏡片で縁取られ、指には細いリングが幾つも光る。笑うと口角だけが上がる、人を測る笑い方だった。


「ここまで来るとはね。歓迎はしないけど」


セインは剣先を下げずに言った。「主はお前か」


「ベールサラム支部、嫉妬の幹部——ヴァイス。覚えなくていいよ。ここで全部終わらせるつもりだから」


トーマが盾を持ち直す。「物騒だな。だが、止める側の覚悟はできてる」


ヴァイスの視線が、すっとミリアの喉元へ落ちた。ほんの一拍、瞳の色が濃くなる。


「その喉、いい響きだ。“器”としては上等。——試させて?」


ミリアは一歩も退かずに首を振った。「私は誰の道具にもならない。歌は自分と皆のために歌う」


「へえ。なら、真価を確かめるだけだ」


ヴァイスが指先を軽く鳴らした。四方の鏡が“キィン”と鳴き、映像が歪む。鏡面から半身だけ現れたのは、どこか“整いすぎた”自分たちだった。足は少し長く、姿勢は完璧、動きは無駄がない。視線が触れるだけで、胸の奥がざわつく。


「比べ始めたら、足をすくわれる」トーマが低く言い、視線を落とす。「顔を上げるな。前だけ見ろ」


エリシアは苦笑した。「厄介。『隣の方が上だよ』って囁いて、膝を削るタイプ」


エルンが舌打ちした。「外でやれ。ここは命の取り合いだ」


セインの胸のペンダントがさらに熱を上げた。鼓動と同期して、鏡の世界が薄くなる感覚が喉奥にまとわりつく。断章と残穢が共鳴している——嫌な手応えだ。


ヴァイスはコートの裾を払って、鏡の縁から一歩も動かない。「“断章”は持っている。だからここは開いた。なら、今ここで潰すのが最短だ。逃がさない」


鏡の床をつま先でコツ、と叩く。円形の床がわずかに沈み、舞台みたいな段差が立ち上がった。視界の高さが強制的に揃えられる。比較の罠だ。


トーマが短く号令を飛ばす。「前は俺が受ける。炎や熱が来たら、盾を斜めにして流す」


エリシアは呼吸を整え、風路の位置を指で示した。「熱層に三本、冷たい筋を入れる。そこ、突っ込んで」


ミリアは頷き、低音から響かせる。「反響、私が抑える。心拍、三拍で合わせて」


エルンがワイヤーを指に絡める。「足止めは任せろ。鏡の縁に噛ませる」


セインは一人ひとりの目を見て、短く息を吐いた。「行ける。折れない。折るのは俺たちだ」


ヴァイスは薄く笑って、細い指を持ち上げる。「嫉妬は静かに骨を砕く。比べる者から折れる。——開幕だ」


三、二、一——ミリアの拍に合わせて、四人の靴底が同時に黒い鏡を蹴った。風の筋が走り、盾が角度を取り、響きが整列する。セインは冷たい筋の先に“刺さる一点”を見た。


対岸でヴァイスの指が、ゆっくりと下りかける——。

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