41話「塩夜の仮面」
黄金市の地下深く、塩柱と塩湖が灯りを反射する円形のホール――闇市〈塩夜〉。黒布の壇上に並ぶのは、封蝋で束ねられた書簡や、見慣れぬ銀色の印章。客は皆、仮面だ。
「目当ては“黒封蝋の束”と“塩の王印”。焦らず拾うよ」
エルンが低く囁く。いつもの無表情、でも瞳だけがよく動く。兄の名は出さない。その代わり、手は仕事で忙しくしている。
合図もなく拍手が起こり、拍子木が鳴った。司会の女は、半面の仮面に緑の羽根を飾っている。声は鈴のように軽い。
「最初の品は――王印の古文書。出所は“海底の書庫”。目利きの方なら価値はおわかりね?」
胸元で、セインのペンダントが微かに熱を帯びた。イフリートの残穢が、何かに共鳴している。嫌な予感が首筋を撫でる。
「入札は任せて。攪乱は私が」
エリシアが仮面の奥で笑って、風を細く編む。囁くような風路が競り人の耳をくすぐり、値を釣り上げさせてすぐ失速させる。
「トーマ、正面の通路、やや左。弩が四基」
「見えてる」
トーマは席に座ったまま肩で“壁”を作る。盾はまだ出さない。動けば目立つ。けれど彼の体がずれていくたび、射線が一本ずつ死んでいった。
二品目、三品目。場の熱が上がったところで、半面の女が扇を立てる。
「今夜の目玉。――“黒封蝋の束”。王印で封じられた古い往復書簡。特別に、開封の実演を――」
ぱきん、と女が蝋に刃を入れた瞬間、空気が反転した。
鏡の膜みたいなものが、客席の上に何枚も滑り込む。顔、声、足音――全部がわずかにずれる。
「〈嫉心の鏡〉……!」
ミリアの指先が強張る。歌の気配を読み取るのが彼女は誰より早い。
「落ち着け。俺たち、互いを“見失う”ぞ」
セインはペンダントを胸の下で握り、視線を斜めに落とす。鏡は面――なら、面と面の“継ぎ目”がある。ヴァルターの残穢が教えてくれた、世界の“薄皮”。
「切れ目、作る」
エリシアの細剣が空を払う。〈風閃・逆巻〉。熱でも光でもない、層を裂くためだけの風が走って、鏡膜に白い傷が入った。
「ミリア、共鳴を沈めろ」「うん」
彼女の声が一段低くなる。〈鎮火の旋律〉を少し変形させた“澄心”。心拍を整え、耳に入るノイズから本物の音を拾いやすくする。
「エルン、出番だ」
「承知」
エルンは椅子の影から影へ。糸のように細い針が、舞台袖の機構へ飛び、くいと絡まる。滑車が鳴き、遮蔽幕がずり落ちた。半面の女の後ろ、黒封蝋の束が山になっているのが見える。
「……王印だ」
エリシアの指が、束の一つに触れて一瞬止まった。家の紋章に似ている。彼女はすぐに目を伏せる。「後で、確認する」
その刹那、鏡膜がこちらに“顔”を向けた。
トーマの隣に、セインの“偽物”が立つ。噛み合わない笑い方で、エリシアへ刃を向けた。
「下がれ!」トーマが椅子ごと押し倒して盾を掲げる。ようやく本物の鋼が現れ、偽物の刃を弾いた。
(……セインは、こっちだ)
トーマは視線の端で本物のセインとエリシアの“息”が合っていくのを見て、拳を握る。すぐに力を抜いて、ふっと鼻で笑った――自分でも気づかれないくらい、ほんのわずかに。
「派手ね。王印の客たち」
半面の女が、こちらだけに聞こえる声で言った。
「血の匂いがする。――妬けるわ、少し」
扇が返り、鏡が増殖する。足元まで“虚像の床”だ。
「面倒だ。まとめて割る」
セインは一歩、踏み込み、薄皮の継ぎ目を見切る。刃先だけがひどく冷たくなり、縫い目を滑るように裂いた。
ばりん、と音もなく、鏡たちが剥がれ落ちる。虚像の床が消え、仮面の客が何人か悲鳴を上げて尻もちをついた。
「今!」
エリシアが風で通路を作り、トーマが盾で弩をまとめて受け、ミリアが拍を刻む。
エルンはすでに舞台の端にいて、黒封蝋の束を二つ抱え上げる。
半面の女は肩を竦めた。「あら、意外と速いのね」
「置いてけ」
セインが低く言う。女の仮面の奥、片目が笑った。
「置いていくのは、こちらよ」
床――正確には塩で固められた通路――が、鏡面化してひっくり返る。女の足元だけが“下へ”伸び、彼女は扇をひらめかせて沈んだ。
残ったのは、粉々に砕けた半面と、銀色の印章一つ。
「追う?」
トーマが問う。セインは首を振った。ペンダントの熱が引いていく。追い鏡はもう閉じた。
「収穫を優先。撤収」
短く決めて、彼らは夜流の路地を戻った。
◇
人気のない倉庫。塩と香辛料の匂いが混じる。
灯りの下で、黒封蝋の束を解く。古い羊皮紙に、塩で押された王印――波と王冠の意匠。そこに見覚えがあるのは、エリシアだけだ。
彼女は指を一瞬だけ震わせ、息を整えて口を開く。
「記録は……“嫉派”の出納。〈合唱鍵〉の片割れが“氷峡の市”へ。もう一つは“沈降神殿”――私たちが見た場所と一致する」
「つまり、鍵は二つ。氷海側にもう一つ」
トーマが地図を思い描く顔になる。
「もう一つ、見て」
エルンが差し出した書簡には、〈塩の王印〉と“輸送経路”が図で記されている。護送の印に紛れて、カルトの合図。
「護送の中継に“鏡宿”という暗号……今夜の女の工房ね」
セインの胸元で、ペンダントがまた微熱を返す。イフリートの火は、まだ生きている――けれど、それは怒りではなく、温度だ。
「焦らないで進もう」
ミリアが柔らかく言う。視線をそっと皆に配って、最後にセインで止めた。
その一拍を、エリシアは横目で見て、ほんの少しだけ唇を噛む。
そしてトーマは、いつも通り明るい声色でまとめた。
「決まりだな。まずは“鏡宿”を押さえる。氷峡行きの鍵は、その次でいい」
「……ああ」
セインは苦笑を足す。「ベールサラムの夜は、長いからな」
外では、黄金の都の鐘がひとつだけ鳴った。
〈塩夜〉は終わった。けれど、薄い鏡の向こうにいる“誰か”は、こちらを見て笑っている気がする。
それでも、進む。嫉妬の匂いごと、切り払う




