40話「黄金市ベールサラム」
ベールサラムは、夕陽を受けて本当に黄金に見えた。砂漠の粉が薄く街に積もり、丸屋根の塔やアーチ橋が一斉にきらめく。香辛料と油の匂い、鍛冶の槌音、掛け声。生の熱気が、胸の奥まで押し寄せてくる。
「……騒がしいね。いい意味で」
ミリアが短く息を吐く。目のふちにはまだ泣き腫らしの赤みが残っていた。
「うるせえくらいが丁度いいさ」セインは笑ってみせた。「静かだと、余計いろいろ考えるだろ」
隣でエリシアが肩をすくめる。「なら、今日は騒ぎに飛び込む側ってわけね。依頼は“黒封蝋と合唱鍵の半片”の行方。——嫉妬派が動いてる」
「黒封蝋には塩の王印。見つけたら、俺が押さえる」トーマが盾のベルトを締め直す。
少し離れて、エルンは無言で通りを眺めていた。風に揺れる前髪の下、目の奥は眠っていない。
「……兄貴が最後に残した言葉、あれは俺に向けてだった。だから、生きて返す。手がかりは全部、拾う」
彼の声は掠れていたが、芯は折れていない。セインはうなずいた。
◆
喧噪の市場で、四人と一人は散開した。
セインとエリシアは金細工の露店の影から通りを見張り、ミリアとトーマは人混みに紛れて耳を澄ます。エルンは屋台のひさしを伝って、屋根の上へ。砂の上でも音を立てない足取りは、やはり只者ではない。
「……見つけた。黒い封蝋の小箱、塩の印つき」屋根上から、エルンの低い声が降ってくる。
「持ってるのは青いターバンの商人。護衛が二人。裏路地へ向かってる」
「追う」セインが身体を起こす。と、その瞬間、ふいに横合いから小柄な影がぶつかってきた。軽い。匂いは干し肉と砂。
——スッ。腰のポーチが軽くなる。
「っと、やられた」
セインが振り返ると、少年が砂を蹴って走り出していた。ポーチの口から、黒い硬貨がちらりと見えた。塩の王印。
「セイン、行くよ!」
エリシアが短い踏み切りで庇の上へ飛ぶ。セインも露店の柱を蹴って追う。頭上からはエルンが屋根を斜めに滑り降り、進路を切るように飛び降りた。
「待て!」
トーマが通りの端で盾を傾け、斜面にした面で少年の足元の砂をすくい上げる。少年の足がもつれて転ぶ——と思った瞬間、少年は砂の上に指を突っ込み、身体ごと回転して立ち上がった。身のこなしは街の猫。
「上手いね」エリシアの眼が笑う。風がきゅっと収束し、少年の前に冷たい空気の壁を作る。「そこ、行き止まり」
少年は壁に鼻をぶつけて尻もちをついた。セインが手を差し出す。「大丈夫か。……それ、返してくれる?」
少年は一瞬、反抗的に顎を上げる。けれど、取り巻く空気——エルンの無言、トーマの盾、エリシアの風、ミリアの柔らかな視線——すべてが“逃げ場はないけど襲わない”と告げていて、やがて観念したように黒い硬貨とポーチを差し出した。
「……それ、入場札なんだ」少年が小声で言う。「夜に“塩夜”が開く。『砂金回廊』の奥。王印の硬貨がないと入れない」
「塩夜?」ミリアが首をかしげる。
「知らないの? 金持ちと、悪い人が、こっそり物を競る夜市。黒い封蝋が山ほど動くよ。最近は“歌う欠片”も売りに出るって噂」少年は口を尖らせ、セインの顔色をうかがった。「……それ、返したし、もう行っていい?」
「行っていい。ただ、腹は減ってるだろ」セインは干し果物を差しだす。少年が目を丸くした。
「優しいね」エリシアがひそひそと笑う。「セイン、最近ちょっと柔らかくなった?」
「俺、元から優しいだろ」
「自分で言う?」
そんな軽口の向こうで、エルンが硬貨を月にかざす。浮かぶ塩の紋章。
「合言葉は?」と、彼が少年に問う。
少年は迷い、やがて決めた。「……『塩風が鳴く夜』。門でそう言えば、案内人が出る」
「助かった」セインが礼を言うと、少年はそそくさと人混みに消えた。
◆
夕暮れが落ち、ベールサラムの黄金が琥珀へ変わる。屋根の上に灯がともり、細い路地に影が濃くなる時間。
「段取りを詰める」トーマが地図を広げる。「門はここ。裏口は……この水路に面した扉だ」
「私とセインで正面から」エリシアが手を挙げる。「“護衛つきの売り手”の顔で行く。王印の硬貨はある」
「俺とミリアで裏口の見張りを眠らせる」エルンが低く言う。「持続は短いけど、静かに落とすやり方ならわかる」
「じゃあ、俺は——」トーマが二人を見る。「……搬入口の押さえをやる。逃げ道を塞がないと、合図した時に獲物がこぼれる」
セインが皆の顔を順に見る。「今回は“持ち出し”が目的だ。黒封蝋の束と、合唱鍵の半片。戦うより、抜く。いいね?」
「了解」
「りょーかい」
「了解だ」
「……わかった」
短い返事。エルンの声だけが少し遅れた。セインはその横顔を盗み見る。血の気が引いているのに、目は前だけを見ている。
「無理はしない」セインが言う。「誰かが飛び出しそうになったら、止める」
「止めるの、私の仕事でもあるよ」ミリアが笑って、セインの袖の焦げ跡にそっと触れた。「熱……まだ残ってる」
「ああ。……でも、前ほど燃えない。ミリアの声、効くみたいだ」
セインが本当のことを言うと、ミリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線をそらした。「——うん。役に立てるなら、よかった」
それを、エリシアが横目で見ていた。彼女の笑みはいつも通り軽いのに、言葉は少しだけ刺さる。
「役に立つ以上のこと、私はしたいけどね」
「勝手に張り合うな」トーマが咳払いで会話を切る。唇の端に、わずかな陰。だが飲み込んで、地図に視線を落とした。「時間だ。行こう」
◆
「塩風が鳴く夜」
門番に合言葉を告げると、黒布の男がランプを掲げて現れた。案内されたのは、黄金の回廊のさらに奥——人払いされたガラスの吹き抜けだ。床は砂金を練り込んだ黒石。天井からは白い帷が波のように垂れている。
広間の中央に、黒いテーブル。そこに積み上がる黒封蝋の束。封蝋の一つ一つに塩の王印が押されていた。
「本日の目玉はこちら」
拍手に紛れて、拍子木の音が鳴る。帷の向こうから運ばれてきたのは、薄いガラスの匣。その中に、銀青色の欠片が浮かんでいる——耳を澄ますまでもなく、三和が鳴っていた。
ミリアの瞳が、揺れる。「……“鍵”の、音」
「合唱鍵の半片だな」セインが呟く。胸の奥、ペンダントの紅が微かに疼く。イフリートの残穢が、熱源に反応しているのか。それとも——
「——顔を上げろ、塔の犬ども」
低く冷たい声が帷の向こうから落ちてきた。視線が一斉に向く。帷が左右に割れ、青白い仮面の女が歩み出る。肩には塩の紋章。嫉妬派の使徒。
「“塩夜”へようこそ。入場の礼に、ひとつだけ聞かせてもらう。おまえたちは、嫉妬を持っているか?」
空気が重くなる。セインは、わずかに息を整えた。
——持ってるさ。誰だって。けど、それをどう使うかは、俺たちが決める。
エリシアが笑う。「人並みには。高く買ってくれる?」
トーマは肩を揺らし、黙っている。
エルンは仮面の女の足運びを見て、殺気の向きを測っている。
ミリアは匣の音に耳をすまし、声の調律をそっと下げる。
「では、取引を始めよう」仮面の女が扇を広げた。「黒封蝋は束で三。合唱鍵の半片は——命で払ってもらう」
ざわめきが走る。帷の上から、砂のように細かな監視の目(小型の魔導虫)が降ってきた。逃げ道は封じられたらしい。
セインは、仲間の手を握るふりをして、それぞれの指に軽く合図を送る。
——“抜き”に切り替え。予定より早く。
トーマの親指が二回。エリシアは人差し指で空を切り、風路の角度を示す。エルンは視線だけで裏口の影を指す。ミリアは胸に手を当て、心拍を一拍落とした。
黄金市は、音を呑み込む。
夜が、鳴り始めた。




