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第389話「根へ降りる階段」


 黒い扉は、叩かなくても開いた。

 中は静かだった。けれど静けさの底に、微かに「カチ、カチ」と鳴る音が混ざっている。心臓の鼓動を他人に握られているような、嫌な音だ。


「入るよ」

 セインが短く告げ、扉を押し払う。


 先は、下へ下へと続く螺旋階段。

 ただの階段じゃない。踏むたびに空気の手触りが変わり、足場の“時間”が半拍ずつ遅れたり、逆に半拍だけ先に進んだりする。踏み外してないのに、落ちる。立っているのに、身体が前へ滑る。


「テンポは九十二。乱れたら落ちるよ」

 ミリアが指先で小さく音を刻む。人差し指が空をノックするたび、見えないクリックが耳裏に貼り付いた。


「了解」

 セインは音に合わせ、“無音の一歩”を置く。足指から踵へ、床に触れた瞬間をゼロ拍に潰す。判定そのものをやり過ごす踏み方だ。


「札の綴じ糸、甘いのう」

 セリスティアが杖で壁を撫でる。古い紙の匂いがした。

「この螺旋、札で貼り合わせてある。継ぎ目、我が切り開くぞい」


「なら最短で行こう。落ちたら救う。けれど落ちないで」

 セインの声は短く低い。殺気ではない。それでも、背筋が伸びる。


 エリシアは左手で鞘、右手で柄。歩幅は一定。視線だけが忙しく、壁と段の境目を撫でる。

「……ここ」

 指で紙の背を軽く裂く。布を切ったような小さな音。螺旋が一段、二段、薄くめくれて一直線の渡り廊下が現れた。


「ほらね」

「助かる」

「褒めは帰ってから聞くわ」


 三人は、同じテンポで駆けた。九十二。乱れなし。

 最下段、黒い踊り場を抜けた先に、鏡の回廊が口を開く。



 鏡だらけの回廊は、冷たい。

 歩くより先に、鏡の中の自分が動く。未来が先に映る。セインが右へ切れば、鏡の中のセインはすでに右へ切っている。鏡と実体の間に、半拍のズレ。


「嫌な仕掛けね……」

 エリシアが眉を寄せる。


「書かれた通り、動いてもらおうか」

 紙の擦れる音。回廊の中央に、痩せた男が立っていた。墨の匂い。黒い帳面を抱え、筆を走らせる。

「帳面師ヤコウ。記すは“次の行”。君は右、君は躓く、君は遅れる」


 次の瞬間、セインのブーツが床に吸われた。躓く前に「躓く」が帳面に走り書きされ、体がそれに従う。鏡の中が先に答え、現実が後から追う。


「未来視を“書かれる側”にされたね」

 ミリアが小声で笑う。笑うけれど目が笑っていない。

「流れは“鏡→帳面→身体”……媒介は文字列。“行”だよ」


 筆が走る。「セインは右」。壁の針が右へ伸びる。

 セインは息を一つ止め、自分の足元に“空白の一歩”を置いた。ゼロ拍の足運びを、連続で。


「空白も、選べる」

 セインは帳面の“行間”を崩す。書式がズレ、針の射出が半拍だけ空を掴んだ。


「神術、反呪の奔流」

 ミリアの指がはじける。帳面のインクがじわりとにじむ。文字が読めない。文意が壊れる。

 エリシアは一拍だけ息を止め、足で鏡の縁を測り――鞘の角を、簿冊の背にコツンと当てた。製本糸がほどける。


「本は背から壊れるの」

 解けた背からページが雪のように散った。ヤコウの表情が初めて動く。


「……上へ、報告だ」

 鈴が一つ、鳴った。ヤコウは紙片のように薄くなり、鏡面の裏に消えた。


「行く」

 セインが顎で前を示す。三人は奥へ。鏡の温度が少し上がり、やがて音だけが濃くなった。

 ――ゴウン。ゴウン。

 広間だ。正面に、巨大な鐘。磨かれた青黒い金属。うっすらと笑う顔の浮彫り。打つたびに“笑顔で眠る”周波が街へ流れるのだと、皮膚が理解した。


「壊したら、反動がでかい」

 セインが言う。

「止めるべきは、鐘じゃなくて“呪いの帯域”」


「帯域をミュート、音は生かす。分かったのじゃ」

 セリスティアが頷く。

「共鳴を拾う“響体”は中央の叉。そこだけ叩き潰せば、鐘は残せる」


「やるよ」

 ミリアの息が、静かに深くなる。

「――神術、和音封」

 空気の中から“黒い線”だけを指でつまむように、ミリアは帯域を探し当てた。指先が見えない弦を押さえる。音は鳴る。だが呪いの音だけが、消える。


「等時のひと縫い」

 セインは封の“時間”を針で留めた。封の窓が安定する。上から叩かれても横からひねられても、ここだけは揺れない。


「鞘でいく」

 エリシアは抜かない。踏んで、滑らせ、一歩で距離を詰め――鞘の口を、響体にストンと落とした。

 乾いた音。音叉の芯にひびが走り、共鳴がほどける。鐘そのものは、静かに残った。


 ——巡礼鐘、沈黙。

 広間の床に黒い路線図が浮かび、一本の線が北を指して点滅する。供養塔。次の“根”。


「……成功」

 ミリアが小さく胸を撫で下ろす。安堵は一秒だけ。

 次の瞬間、鈴が逆拍で鳴った。

 広間の影から、人の形が立ち上がる。兵士。母親。犬。先生。見覚えのある輪郭が、墨のように滲んで歩いてくる。夢影だ。


「殺さない。影は影に戻す」

 セインが一歩出る。未来視が数秒先のほどけ目を示した。

 エリシアは息を極小に刻む。足、鞘、刃。三拍で一体を落とす。刃は当てない。関節の“継ぎ目”だけを撫で、動きを眠りに返す。


「薄膜、三層」

 ミリアが掌を開く。薄いガラスのような膜が夢影の触手だけを剥がしていく。

 セインは見えない紐を掴むように、夢影の“結び目”へ剣先を通し、音もなく解いた。


 数は多い。けれど流れは崩せる。

 十、二十、三十。影は次々、持ち主の足元に戻っていく。眠りは続き、苦痛はない。


「ここは終わり。次の根へ」

「了解。供養塔、最初に斬るのは“導香管”じゃな。匂いで縛っとる」

「テンポは据え置き。九十二ね」


 三人が広間を離れようとした時、通路の壁に六弁の鍵紋が一瞬だけ浮かんだ。

 低い声が、耳の後ろに刺さる。


『寝台で会おう』


 名乗らない。名乗らないのに、嫌な体温だけが残る。

 セインは肩を一度だけ回し、わざと大きく吐いた。悪い想像に、形を与えないためだ。


「行こう」

 足音が揃う。九十二。

 供養塔へ続く路線は一瞬、一拍遅れて点滅した。

 それでも、三人の歩幅は乱れない。乱さない。



 供養塔へ向かう通路は、作りが古かった。石も木も、手で削った跡が残る。不意に、エリシアが足を止めた。


「ミリア」

「なに?」

「さっきの“和音封”、ありがと。あれがなかったら、鐘に刃を当ててた。……助かった」

 エリシアの声は短い。だけど体温があった。


「いいってば。私だって、エリシアの“鞘”がなかったら震えてたし。ね、セイン」

「二人とも、上出来。次はもっと良くやる」

 セインはそれしか言わない。言葉は少ない。でも、歩幅が半歩分だけ三人に寄った。


「……ふふん」

 エリシアは鼻を鳴らし、鞘口を撫でた。「じゃ、行きましょ。次の継ぎ目へ」


 鈴の音が、今度は遠い。

 眠りの街はまだ静かだ。

 目覚ましの時間は、こちらが決める。


 供養塔へ。

 “根”へ降りる階段は、まだ続いている。

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