38話 — 余燼(よじん)と誓い
祠は、戦いの名残をゆっくりと手放していた。
黒く光った壁はすすけ、床の硝子はひびの中に冷たい空気を溜めている。熱が引く音——ぱき、ぱき、と透明な殻が縮む微かな音だけが響いた。
「……兄貴を、探す」
誰の許しもいらない声で、エルンが言った。
誰も止めなかった。トーマは黙って頷き、エリシアは鞘を握り直す。ミリアは袖口を結び直し、セインは胸の鼓動を意識して落ち着かせる。
崩れかけた回廊の奥、煤にまみれた小部屋があった。石床には人の形に割れた硝子の痕——そこに、仰向けのまま、男がひとり。
レブだった。
半身は焦げ、半身は人の皮膚に戻っている。胸も腕も、ところどころ黒曜の鱗片が残り、それが乾いた葉のように風もないのに剥がれては、ぱらぱらと砕けていく。呼吸は浅く、けれど目は、昔の兄の色だった。
「兄貴」
エルンが膝をついた。膝が硝子を鳴らす。伸ばした手が宙で止まる——触れれば、崩れてしまいそうで。
レブの口角が、すこしだけ上がった。「……相変わらずだな。迷わず来る」
「当たり前だろ。ずっと、追いかけてた」
その声に合わせるように、ミリアが二音だけ、喉の奥で震わせた。祈りでも魔法でもない、調律の音。崩れゆくものに、わずかな“形”を与えるための音。
レブの息が、少しだけ整う。
「エルン」
「……ここにいる」
「よく……やった。俺は、やり過ぎた。怒りを、燃やせば燃やすほど、人の形を忘れるみたいでな」
乾いた笑い。ぼろり、と鎧のような何かが剥がれ、指先が人間の色に戻る。
エルンは、そっとその指を取った。触れたところから、さらさらと砂のように崩れていくのに、離さなかった。
「俺、もっと強くなって、半分こだって言えたらよかったのに。子どものころみたいに」
レブの目尻が柔らかくなる。
「半分こ、ね。お前はいつも、いい方を俺に寄越した」
「兄貴に似合うと思ったからだよ」
「……なら、最後も分けてくれ。強さと、優しさを。お前が持っていってくれ」
息が掠れる。ミリアの二音がそっと支える。
トーマは視線を落とし、エリシアは唇を噛み、セインはただ、そこに立っていた。何を言えばいいのかわからなかった。言葉は、どれも軽い。
レブは天井を見上げる。ひび割れた硝子の細い星が並び、そこに何かを見ているようだった。
「俺は……間違えた。義のために刃を取ったつもりが、怒りと取引をした。許すな、とは言わない。繋ぐな。怒りの輪を」
エルンの喉が軋む。「兄貴、俺——」
「泣いていい。けど、泣きながら進め。お前は、細い道を渡れる」
崩壊は速くなっていた。肩から胸へ、砂が溶けるように落ちていく。
エルンは必死に言葉を探す。「兄貴、俺、必ず——」
レブの指が、エルンの額に軽く触れた。かつての癖のまま、少年の頃にしてくれたみたいに。
「よし」
それきり、胸の中央が崩れ、炉心のような光が一瞬だけ漏れた。
ミリアが小さく息を呑み、二音を終えた。音が消えると同時に、レブの身体は静かに——ほんとうに静かに——崩れていった。
砂と硝子片と、焦げた布。掌に残ったのは、家紋の半片だけ。黒く焦げても、模様がわかる。
エルンは声にならない声で泣いた。嗚咽が床の硝子を震わせる。
トーマは胸当ての留め金を握りしめ、エリシアは背を向けて目頭を押さえ、ミリアはそっとエルンの肩に触れて、ただそこにいた。
セインは——拳を握り締めた。怒りはある。悔しさもある。けれど今、それを燃やすことは、レブの最後の言葉に背を向けることになる。
どれほど時間が過ぎただろう。泣き声が細くなり、やがて静かになった。
エルンは家紋の半片を布に包み、胸元に収めた。涙で濡れた顔を拭うこともせず、立ち上がる。
「……終わりじゃない。始める。俺が止める。元凶を斬る。カルトも、魔神の手先も」
トーマが低く、確かな声で言う。「一緒にやる。盾は、重いほど燃える」
エリシアは短く、よく通る声で。「借りは、返す。剣は、そのためにある」
ミリアは微笑んだ。「あなたが戻れるように、歌がある。だから進める」
セインは、仲間の顔を見渡した。エルンの目の赤さも、ミリアの指の火傷も、トーマの焦げた盾も、エリシアの白い指の震えも——全部、ここにある現実だ。
「……行こう。悲劇を繰り返させないために」
そのときだった。
セインの胸元で、古いペンダントが微かに鳴った。金具が擦れる以上の音——呼吸のような。
彼が無意識に手を当てた瞬間、床に残っていた赤黒い燐粉がふわりと浮かび、風もないのに、糸のように伸びてペンダントへ吸い込まれていく。
「……セイン?」ミリアが目を見開く。
「ん、なんだこれは」
止めようとしたが、止まらない。ペンダントの内部に熱が灯り、指先に微かな脈打ちが伝わる。
イフリートの残穢——燃えきらずに漂っていた、怒りの温度の欠片。
それはペンダントに封じられるように収まり、音はすっと止んだ。燃焼の匂いだけが、わずかに残る。
エリシアが警戒の目を向ける。「大丈夫?」
セインは正直に首を振る。「わからない。でも、燃えてはいない。ただ、温い(ぬくい)」
ミリアがペンダントに手をかざし、耳を澄ますように目を閉じる。「……今は静か。借りられていない。ただ、留まっている。セイン、無理に触ろうとしないで」
トーマが壁の方へ顔を向ける。「長居はできない。外、崩れてきてる」
祠の天井から小さな石が落ち、硝子がまた小さく鳴る。エルンは一度だけ振り返り、崩れた床に手を当ててから、皆のほうへ向き直った。
外に出ると、夕陽が砂丘の稜線に引っかかっていた。風は灰の匂いを運び、遠くには褐色の壁のような砂嵐が立ち上がり始めている。
セインはペンダントを服の内に収め、右手でその輪郭を確かめた。熱は、まだそこにある。だが、それを煽るのは自分だ。燃やすか、温めて持つか——選ぶのは、こちらだ。
「向こうは、来る」エリシアが低く言う。「強欲は、必ず嗅ぎつける」
トーマが盾を背に回し、肩を回す。「なら、売らないって答えを、何度でも出すだけだ」
ミリアが微笑む。「それって、ちょっと素敵」
エルンは家紋の半片を指先でなぞり、砂嵐の方角を見据えた。「行こう。回収屋だろうと幹部だろうと、片っ端から。兄貴の“よし”が、胸でまだ響いてるうちに」
セインは一歩、砂を踏んだ。足元で砂が鳴る。
「……輪にしない。怒りを。俺たちのやり方で」
四人は、砂嵐の前に細い影を並べた。
光は低く、風は乾いている。新しい戦いの気配が、はっきりとそこにあった——次の冒険への決意は、もう口に出すまでもないほど、全員の歩幅に宿っていた。




