37話-炉心にて、紅を鎮める
炎冠が閉じ、祠が一息に炉心へ変貌した。
壁は黒く光り、床は熱で硝子化し、空気は鈍い唸りを孕む。
引き剝がされた炎が黒紅の核へ収束し——人ならざる王の躯へ弾ける。
イフリート。レブの面影は一片もない。
玄武岩の板甲が層をなし、その継ぎ目を溶岩の血が脈打って走る。頭には黒曜の四本角、額で赤熱の炎冠が輪を描く。胸は格子に割れ、覗くのは燃え盛る炉心。指先の鉤爪を軽く払うだけで、壁が焼き鈍され形を失った。踏みしだかれた床は瞬時に黒硝子となってひび割れる。
「——怒りは器だ。捨てるか、燃やすか、選べ」
咆哮に応じ、足元から怒りの儀域が立ち上がる。被弾するほど火力が積み上がるが、同時に衝動が昂ぶる——燃える罠だ。
「陣、組み直す!」トーマが〈斜面盾〉を構え、熱流の角度を測った。
「切れ目、作るわ」エリシアが剣を逆手に、風を捻る。「〈風閃・逆巻〉」——熱層に冷たい筋が一本走る。
ミリアは胸に手を当て、静かに響かせる。「〈鎮火の旋律〉……共鳴を下げる」
エルンは一歩も退かず、炎王の向こうへと視線を凝らす。「兄貴……」
イフリートが大地を叩く。地脈から炎腕が生え、連鎖的に叩きつけられる。
トーマの斜面盾が最前線で受け流し、熱と衝撃を斜め上へ逃がす。盾の縁が赤く焼け、膝が沈む。
「まだ立つ! 重さは俺が持つ!」
エリシアの風が縫い、一瞬だけ熱の壁に切れ目。ミリアの音が揺らぎを殺す。
セインはそこに、一点の静まりを見た——世界のノイズが欠ける、“刺さる一点(静点)”。
(今だ)
ヴァルターの残滓が背骨に冷たく這い、セインの刃が空間の薄皮を裂く。
跳ぶ、刺さる、抉る——一閃で炎腕の根を断ち、二閃で胸甲の継ぎ目を割る。
儀域の熱が血に逆流し、視界が紅に染まる。鼓動は太鼓、骨が弓のように鳴る。
(もっと燃やせ——)
内側から、低い声が囁いた。ヴァルターの声ではない、怒りそのものの囁き。
「セイン、戻れ!」トーマの怒鳴りが、遠い。
柄頭がこめかみを叩く。エリシアの柄打ちだ。痛覚が一瞬、紅を薄めた——が、すぐに戻る。
イフリートの炉心が開き、圧縮炎が襲う。セインはそのまま紅眼のまま踏み込み、炎を裂き、裂きながら笑った。
「セイン!」ミリアの声が、焦げる空気を震わせる。
セインの刃が風路を逸れた——味方の列へ。それを読んで、トーマが身を投げ出し盾を立てる。衝撃が盾ごとトーマを押し滑らせ、黒硝子に擦過痕が白く残る。
「大丈夫……まだ、届く」エリシアは風を再構築した。
だが、セインの足取りは獣。彼自身の影が燃え、刃筋は怒りの軌道を描き始める。
——このままじゃ、戻れない。
ミリアは一歩、いや二歩、炎王とセインのただ中に躍った。熱で肌が焼ける。喉がからっからに干上がる。
「セイン!」
刃が彼女の頬先を掠め、赤い線が走る。ミリアは逃げない。震える腕でセインの前腕を抱き留める。
「あなたは燃やすために生まれてない! 守るために剣を持ったんでしょう!」
セインの紅い視界に、水色が差す。ミリアの瞳だ。
彼女は息を合わせ、二音を紡いだ——いつもの鎮火の序。
続けて、血で濡れた指先で自らの胸元に小さな円を描く。痛みと共鳴で音が**三和**に育つ。
「戻ってきて。私の名前を、呼んで」
(……ミリア)
ヴァルターの冷たい囁きが重なる——借りるだけにしておけ。
紅が、すっと退く。
セインは、深く呼吸した。熱ではなく、温度として炎を掴む感覚が戻る。
「トーマ!」
「いる!」斜面盾で炎腕を楔に変え、動きを止める。
「エリシア!」
「風路、最短で!」熱層に冷筋を三本重ね、一直線の走路を切る。
「ミリア!」
「共鳴ゼロ——!」祈るでも祈祷でもない、調律。炎歌の根音を外し、イフリートの音階を崩す。
合図、一拍。
セインは冷たい筋を走る。空間の薄皮が刃の前だけ柔らかくなる。
跳ぶ。炎冠の下、胸の炉心——そこに王の紋が微かに刻まれているのを見た。
「調律断ち・焦心穿ち(しょうしんうがち)!」
刃が炉心へ縦貫する。
同時にミリアの旋律が音を奪い、エリシアの風が熱を裂き、トーマの盾が噴き出す炎圧を斜め上へ流す。
四つが重なり、怒りの儀域がひと時、静まった。
イフリートの身体に亀裂が走る。玄武岩の板甲が黒曜の破片となって剥落した。
「器は——」低音が揺らぐ。「器は不要……のはずだ」
炉心が明滅し、炎冠が不規則に脈打つ。
セインは刃を押し込み、囁く。「器でも怒りでもない。お前は終いだ」
轟音。
炉心が内爆し、赤が一瞬だけ白へ振り切れた。
トーマの盾が悲鳴を上げるほど熱を受け、エリシアの風が焦げ、ミリアの声が掠れる。
イフリートの躯は内側から崩れ、黒硝子の床へ膝をついた。
四本角が割れ、炎冠が消える。胸の炉心は、炭のように崩れ落ち——中心に黒紅の種が残る。
それでも炎王は、最後の炎腕を伸ばしセインの喉へ。
「させるかァ!」トーマが盾を叩きつけ、軌道を逸らす。
エリシアが低く滑り込み、腱の継ぎ目を風で断ち切る。「——終幕」
イフリートは支えを失い、巨躯ごと倒れた。落下の衝撃で黒硝子が星形に割れる。
その裂け目から熱風が抜け——祠に静けさが戻る。
完全顕現の炎王は、滅んだ。
残ったのは、掌大の黒紅の種。触れれば焼けるほど熱い。
セインが手を伸ばし、躊躇した。その指を、ミリアの手が包む。火傷で皮膚は赤いのに、彼女は微笑んだ。
「借りるだけ、でしょう?」
「……ああ」
セインは意志で摘み上げる。黒紅の種は抵抗のように唸り、だがミリアの旋律に従うように静まっていく。
種は細い燐光となってセインの剣と右腕に吸い込まれ、赤い紋が一瞬浮かび、消えた。
胸の奥に、熱だけが小さく残る——炎ではない、温度だ。
「兄貴は……?」




