36話 — 炎影の名乗り
王都はずれの小祠〈灰祠〉は、夜なのに冬の冷えを寄せつけなかった。割れた祭壇の隙間から、呼吸のように熱が上がっている。
そこに立つのは、エルンの兄レブ。右半身は人の肌、左半身は赤黒い亀裂から灼光が滲み、脈を打っていた。声は二つの響きが重なって聞こえる。
「……来たのか、エルン」
「兄さん。帰ろう。重いなら、半分こで背負えばいい」
エルンが一歩踏み出す。セインは半歩引き、空気の“薄い面”を探る。トーマは盾を前へ。エリシアは風を刃に纏い、ミリアは胸の奥で息を整えた——歌うための前準備。
「半分こ、か」レブの右目がやわらぐ。左目は炉心の色に膨らみ、別の響きが割り込んだ。「割れる芯が、残ると思うか」
「残す。俺の手で」
「なら、見せてみろ」
床から熱の鞭が跳ねた。トーマの盾が甲高く鳴り、表面が白く曇る。
「視界、切る!」エリシアの風輪が陽炎を裂いた。
「息、戻すね」ミリアが短い和音で肺に涼を送り込む。
レブの影が滲み、殺気が近づく。右手の短剣は昔通りに正確、左の拳は熱の塊だ。同時に来る。
セインは床の“節”を踏んで半歩外し、右の刃を受けて跳ね上げる。熱は斜めに逃がす。
「兄さん、やめ——」エルンの呼びかけに、レブの右目が一瞬だけ揺れた。
そのためらいを押し潰すように、左半身の亀裂が開く。胸の黒封蝋にひびが走り、祭壇の熱が吸い込まれた。肩から角めいた灼光が噴き、左腕は黒曜の甲冑のように固まる。半身半魔。
「名を、聞け」
灼ける声が石を震わせる。
「憤怒の神が配下、炎界の王——イフリート」
名乗りと同時に、熱が重さを持った。レブの左拳が落ち、床石が波打って砕ける。
「受ける!」トーマが盾を沈めて角度で流す。
「裂く!」エリシアが熱層に風路を通す。
「繋ぐ!」ミリアの和声が焼けた感覚を一枚はがし、呼吸を整える。
セインは刃先で空間の薄皮をなぞった。ヴァルターの残穢が骨に冷たい軋みを残す。(飲まれるな。借りるだけだ)
半魔のレブは、人の精密さと炎の直線を重ねて攻めてくる。右の軌道には暗殺者の勘、左は圧で押す王の手。セインは一合、二合と「節」に刃を置き、人のリズムを掴む。
「トーマ、前!」
「おう!」
盾が楔になる。
「エリシア、左から!」
「通す!」
熱層が裂け、ミリアの下降音が灼光の共鳴を消す。
「今だ、兄さん——!」エルンが右手首を絡め取り、刃の角度を逸らす。
手応えが出る。レブの膝が沈み、半魔の肩が落ちる。セインの剣先が黒封蝋のひびへ滑り込み、結び目をとらえ——。
祠が吠えた。
割れ目から炎柱が噴き、空間が膨張する。イフリートの笑いが熱の形で骨に沁みる。
「良い。整った」
レブの胸の漆黒の印が冠のように燃え上がる。亀裂の奥から、炎だけでできた巨腕がのたうち、天井を押し広げた。
「下がれ!」トーマが体当たりで押し、灰の雨から仲間を弾く。
「路、開ける!」エリシアの風が逆流を刻み、奔流を三筋に割く。
「大丈夫、息して……」ミリアが二音で鼓動を包み、喉の焼けを洗う。
セインは斬らない。刃先を“結び目”に置き、炎腕の関節を一拍遅らせる。
それでも止まらない。
空が赤に脈打ち、祠の外の闇まで熱が染まる。レブの右目に痛み、左目に歓喜。
「やめろ、やめ——」
「王が出る」
イフリートの声が低く沈む。祭壇の下から第二の冠が立ち上がる。火舌が円環を成し、レブの左半身から灼光が注ぎ込まれる。完全顕現の手前。炎だけの王が、この世に座を持とうとする縁だ。
「切り離す!」セインが踏み込み、
「通す!」エリシアが冠の縁を風で削り、
トーマが熱を斜め上へ跳ね上げる。
ミリアの声は一瞬だけ嘆きの色を帯び、レブの右半身に涼やかな膜を張る。エルンがそこへ腕を差し入れ、兄の右肩を抱え込んだ。
「兄さん、聞こえる!? エルンだ! 半分こ、覚えてるよな!」
レブの右手が弱く握り返す。
「……覚えてる。パンも、稽古も、叱られたのも」
「じゃあ痛みも——今だけ俺に半分くれ!」
エルンが黒封蝋の“人側”に手を重ねる。ミリアの和声が痛みを裂き、二人の感覚を繋ぐ。セインは最後の一打で結び目を抑え、炎腕の動きをひと拍だけ遅らせた。
——押し返せている。だが、止まらない。
炎の冠は輪郭を固め、祠の空が赤い瞳孔のように狭まる。イフリートが愉悦に震え、名を刻む。
「記せ。貴様らの魂に。。次の瞬きで、王に完全に“成る”」
熱が音を奪った。トーマの歯軋りも、エリシアの靴音も、ミリアの息も遠い。
セインは柄を握り直す。ヴァルターの冷たい鍵を閉める。暴れ始めた力を手の内に押し戻す。(まだだ。ここで飲まれたら終わる)
仲間を見る。トーマが頷き、エリシアが顎を上げ、ミリアが「大丈夫」と唇で言い、エルンが兄の手を強く握った。
「次で、引きずり下ろす」セインが低く言う。
炎冠はついに完全な円となり、天井を穿つ。
完全顕現の寸前、世界が赤に反転して——
夜が、明ける直前のように震えた。
物語は燃え上がる“次の瞬き”へ落ちていく。




