33話「王都の影印(かげじるし)」—密やかな接触
王都アルカディアは、夕焼けをも飲み込むほど背の高い尖塔と石造の屋根が連なり、鐘の余韻が風に砕けていた。セインたちは旅装を隠す地味な外套に身を包み、人混みに紛れて城下の目抜き通りを抜ける。目的は二つ。黒封蝋の出所を洗い、強欲派が狙う“最後の鍵”の行方を掴むことだ。
「視線、上」トーマが小声で告げる。
視界の端、屋根と屋根のあいだを渡るかすかな影。影は足音すら残さず、夕焼けに細い線を引くように移った。セインは振り返らない。呼吸をひとつ落とすだけで返答に替える。
(……見ている。だが敵意はない)
四人は目立たぬ宿で身形を整えると、夜会服へと衣装を変えた。エリシアは濃紺のドレスに剣帯の意匠を忍ばせ、ミリアは淡い銀青のケープで儚げな気配を纏う。トーマは飾りの少ない礼服、セインは黒の燕尾に細い刃を隠す。向かうのはとある貴族サロン——今夜の主賓は富と情報を取り扱う商会頭・アルベリク。強欲派の表の顔だ。
サロンは香り高い葡萄酒と笑い声に満ちていた。壁の至る所に王印の拓本が飾られ、机上には古印章の蒐集品が並ぶ。セインはさりげなく視線を滑らせ、黒い蝋封の紋と導線のように伸びる銀糸——魔導導線を見つけた瞬間、内心の弦が鳴った。
(起動儀式……ここで?)
アルベリクが仕立ての良い笑みを浮かべ、卓上の小箱に手をかける。「王国の未来を封じる新たな印章のお披露目です」
冗談交じりの拍手。次の瞬間——箱の中から立ち上ったのは、人の背丈ほどもある自動人形。琥珀色の瞳に王印が刻まれた《印章衛士》が、蝋封に触れた指先からカチリと音を立てる。
サロンの空気が氷る。導線が壁沿いに光を走り、二体目、三体目の衛士が目を開いた。
「下がって!」セインの声とともに、トーマが即座に前へ出て《響盾》を展開。音波の膜が広間の衝撃を吸収し、ミリアの短い和声が傷を負った客の呼吸を整える。エリシアはドレスの裾を裂き、細剣を一閃。衛士の関節に“風の線刻”を描いて動きを鈍らせた。
だが導線は床の下へと続いている。元を断てなければ無限に起動が連鎖する——その時だった。梁の陰から、きらりと細い糸刃が走る。導線の“音”だけを見抜いて、寸分違わぬ角度で切断。光の奔流はそこでぷつりと途切れ、起動の連鎖が止まった。
セインがわずかに目を上げる。梁の上に、仮面の影。
エルン——昨日の敵であり、殺めずに剣を収めた“影”。彼は合図も残さず、風に溶けるように消えた。
混乱収拾の間隙を縫って、アルベリクは裏口へ。四人は目配せひとつで追う。王都の古い地下水路は、石畳の下で幾世紀もの水音を運び続けている。湿り気の匂いが頬にまとわりつく。足音を立てぬよう進むほどに、耳の奥で別の“音”が立ち上がった。
「封蝋の拍子が濁っている。逃がせない」セインが囁く。
角を曲がった先で、私兵の一団と正面衝突した。狭い通路に火花が散る。トーマの《響盾》が通路の風圧を整え、ミリアの《明滅のコーラス》が敵陣の視覚と平衡感覚を乱す。エリシアが空隙を抜けて二の腕を、膝裏を、関節だけを断つ。殺さずに戦線を崩す連携は、もう板についていた。
頭上の格子から、音のない影が落ちる。
エルンだ。指揮官の手首を針のような刃で貫き、落ちた指令笛を踏み砕く。「——ここで終わりだ」声は低く、抑制されている。
アルベリクが取り出した黒封蝋を掲げる間もなく、セインが短発動《紅蓮静謐》で蝋封の“導きの糸”だけを断った。爆ぜない。誰も死なない。水滴の音だけが戻ってきた。
しばしの静寂。壁面に背を預けながら、エルンが仮面を指先で持ち上げる。素顔は薄暗がりに沈み、瞳だけがまっすぐだった。
「条件付きの協力だ」
「聞こう」セインが短く答える。
「運び屋を殺さずに捕えろ。兄に繋がる線だ。そして——兄と相まみえる時、救出の機会を最優先してくれ」
ミリアが目を瞬かせ、そっと手を握りしめる。「救えるなら、救いたい」
トーマが頷いた。「盾は、誰かの明日を通すためにある」
エリシアは目を細め、わざと棘を残す。「条件は飲む。ただし——裏切ったら、次は落とす」
エルンの口元に、微かに笑いの影が走った。「裏切らない。俺の刃は“元の兄”を取り戻すためだけにある」
アルベリクの鞄からは、王印の未完成原版、搬送指示書“A—13”——鳴砂の回廊、そして古い拓本が見つかった。塩の王印の変形パターン。エリシアは拓本を見た瞬間、心臓が小さく跳ねる。
(……家の古紋に、似ている)
彼女はすぐに視線を外し、胸の奥のざわめきを奥底に押し込めた。
エルンは巻物を差し出す。「鳴砂の回廊への裏道図だ。明晩——黒月朔。搬送の受け渡しが行われる。さらに合唱鍵は二分割され、一方は王都側、もう一方は“歌う遺構”に置かれている」
四人はその場で短い作戦会議を行った。
表の陽動と民の保護をトーマとミリアが担い、セインとエリシアは裏道から回廊へ先行。エルンは高所と側道を使い、狙撃と連絡遮断。撃破は非致死、搬送の線を断ち、運び屋を生け捕る。
決まりは早かった。胸の内のざらつきだけが、誰の中にも残っていた。
宿に戻る道、夜気は冷え、王都の石畳は昼の喧噪を忘れて硬い光を宿している。セインは歩きながら、指先で空気を“弾いた”。微弱な震え。
「……聴こえるか?」
誰もが足を止める。地の底から、ゆっくりと立ち上がる低い和音があった。呼吸と同じくらい古く、炎のように温かいのに——静謐な拍。
エルンは耳朶に指を添え、囁く。「朱の拍子だ。イフリートの系譜。——鳴砂の下で、“歌う遺構”が起動し始めている」
ミリアの肩がわずかに震え、エリシアは無意識に剣帯に触れた。トーマは盾を背に固く結わえる。
セインは夜空を見上げる。黒月が欠ける夜——黒い天蓋の、さらに奥から響いてくるような和音が、胸骨の内側に小さな火をともした。
「行こう」
短い言葉に、三人と一人の影が頷く。
王都の下に眠る“歌”は、敵の罠か、鍵の誘いか。それでも、選ぶ道はひとつだ。誰も死なせない。奪わせない。奪い返す。
影と盾と歌と風——四つと一つの気配が、同じ方角へ歩き出した。
そして黒月朔の夜、石の都は、まだ知らぬ“砂の合唱”の始まりを待っている。




