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32話-闇の魔塔内紛-

帰還の合図となる鐘が——鳴らない。

 魔塔の前庭に降り立った瞬間、セインは耳の奥が“詰まる”感覚に眉をひそめた。風が旗をはためかせても、靴が石畳を打っても、音がない。塔全体が、巨大なガラスの鐘に閉じ込められたみたいに。


「……嫌な静けさだ」トーマが盾を握り直す。金属の擦過音すら生まれない。


 正門は開いていた。中は薄闇。転移陣の光だけが床に網目を描く。崩れた椅子、落ちた本、焦げ跡。受付机には震える手で書かれた血文字——《医療層》。


 四人は頷き合い、走る。

 静けさは、ただの静けさではなかった。ミリアの小さな詠唱が、喉の奥で霧散する。エリシアの風刃は、空気ごと鉛に変わったように鈍る。


「禁唱領域——詠唱も、音導も殺されてる」ミリアが青ざめる。


 曲がり角の先で、影が“立った”。音のない刃が飛ぶ。セインは反射的に腰を落とし、黒い糸の線を見た。

 糸は壁と壁を縫い、光さえ吸い取っている。


 トーマが盾を床に「叩いた」。音は生まれない。なのに四人の足裏には、確かな微振動が伝わる——“合図”。

 エリシアは空間に細い弧を描く。風が見える線になり、その線だけ空気が軽くなる。セインは視界の端で、廊下に縫い込まれた“縫い目”を見た。無音結界の継ぎ目だ。


 影の群れが床から立ち上がる。黒い紐、無音の煙。

 無呼の刃——塔の裏噂にだけ棲む暗殺団の名が、セインの脳裏に浮かぶ。


 短い乱戦。

 トーマの盾が見えない刃を受け、火花も音もなく軌跡だけが散る。エリシアは風の“レーン”を切り出し、曲がり角ごとに張られた罠糸を正確に断つ。セインは縫い目に短剣を差し込み、空間を一瞬だけ“狭く”して横合いの影を押し戻した。


 医療層の扉が見えた瞬間、廊下の灯が一斉に消える。

 暗闇の中、ただ一人の気配が近づく。仮面は艶なし、顎から胸元へ黒紐が幾筋も垂れ、指先で無音の鈴を弾く仕草——しかし鈴は鳴らない。


挿絵(By みてみん)


「副長、黒紐のエルン……」と、誰かが口の形だけで呟く。

 エルンは煙を一つ撒いた。煙ですら音を奪われ、視界を黒く塗る。ただ、紐の先に結ばれた小瓶が揺れ、光を反射した。


 ミリアが一歩前に出る。息を吸い、歌の始まりの音を紡ごうとして——喉が凍る。音が消える世界で、歌は生まれない。

 焦りに指が震えた。肺が焼ける。誰も傷つけさせない、その想いだけが胸で暴れるのに。


 セインが振り向いた。

 無音の世界のさらに奥——空間の“拍”が、かすかに震えた気がした。風門で小神と交わした返歌。あの時、四番目の拍だけが、風の奥から返ってきた。


(四つ目の拍……音が殺されても、“息”はまだ、通せる)

 セインはミリアの肩に手を置き、唇だけで言った。《“声”じゃなく、“息”で》——


 ミリアは目を閉じ、恐怖の震えを押し込めた。

 喉を使わず、胸の奥の空気を、緩やかに押し出す。息の流れが、指先の先であやとりの糸のように絡み、透明な旋律を作る。


 ひとひらの風が、ミリアの頬を撫でた。

 ゼピュリア——名を呼ばずとも、あの軽やかな気配が応える。彼女の周囲に、淡い翠の光が寄り集まり、糸のような**“音路”**が一本、廊下へ伸びた。


 世界が、そこだけ“鳴った”。

 トーマが即座に盾をその線へ合わせる。鉄面が微かに共鳴し、音路が太る。セインは縫い目を縫い留め、音路が結界に飲まれないよう“刺繍”する。

 エリシアが滑り込む。「その壺、割る!」唇の形だけで伝え、剣が音路を走る。刃が空気を震わせ、無音壺が亀裂を孕み——粉砕。


 無音の膜が一部はがれ、廊下に“音”が帰る。

「今!」トーマの声——生まれた声が、皆の心臓を撃った。


 エルンの影渡りが鈍る。黒紐が唸り、床下の影から抜け出ようとする。その進路を、セインの短剣が空間ごと縫い止める。

 エリシアの剣舞《空断ち・カデンツァ》が仮面を横に裂いた。黒い無表情の下、冷たい瞳が初めて細くなる。


 エルンは短い舌打ちを、無音の動きで形作った。煙管を床に叩きつけ、黒煙が爆ぜる。

 去り際、唇が紡いだ言葉だけが、ミリアの音路に拾われる。


「黒封蝋は王都から来る。塔の喉元は、もう縫い終えた」


 影は溶け、匂いだけが残った。


     ◇


 医療層の扉を破ると、香草と薬品の匂い。ベッドが倒れ、布が散らばる奥、アウリスが簡易結界の内に横たわっていた。胸は浅く、しかし律動はある。そばにいた塔医が、親指を立てる。助かった。


 応急の処置が終わると、アウリスは薄く目を開け、四人を見回した。ミリアの肩に降りている風光を見て、わずかに目を細める。

「——無事でよかった。塔は……内側から刺された。資材の搬入口が“開けられて”いた」


 押収品の確認が始まる。

 黒い封蝋の欠片、鍵符の紙片、そして帳簿の一部。封蝋の割面には王都書記局の水印が薄く重ねられている。帳簿の欄外には寄進銘——いくつかの貴族家の名。そのうち一つの筆致に、エリシアはかすかに指を止めた。


「この筆の運び……家紋の刻印に使う、あの職人の癖に似てる」

 彼女は言葉を切り、顔を上げる。「王都の、内側からだよ」


 アウリスはゆっくりと上半身を起こし、ミリアに視線を戻した。

「君の“声”は、ここではまだ名を持たないほうがいい」

 ミリアは戸惑いに瞳を揺らす。「わたし、ただ……息をしただけ」


「それで十分だ」アウリスは微笑む。「だからこそ狙われる。名を貼られた瞬間、形は縛られる。今は、伏せておきなさい」


 短い作戦会議。

 資材管理のラインに内通者がいる。黒封蝋は王都経由。無呼の刃の気配は、塔ではなく“下”——王都地下水路へ流れている。


「すぐに動く。表の使節団は塔の修復に残す。潜入は少数で」

 アウリスが指を折る。「セイン、トーマ、ミリア、エリシア——内偵班に任命する。現地の橋渡しは手配済みだ。雲上の伝から来た若いグリフォン騎士が、門前で待つはず」


 四人は頷いた。疲労で体は重いのに、心は冴えている。

 医療層を出ると、窓辺に夜風がしのび込んでいた。音は——まだ薄い。けれど先ほどの一本の音路が、胸のどこかに残っている。


「ミリア」セインが並ぶ。「さっきの……ありがとう」

「ううん。みんなが……道を、繋いでくれたから」


 エリシアが口角を上げる。「王都、嫌いだけど——切る相手がはっきりしてるなら話は早い」

 トーマは盾の縁を撫で、短く息を吐いた。「守るものが多いほど、盾は重くなる。……それでいい」


 階段を上がるたび、遠くの旗が視界に入る。

 塔の頂で揺れる標は、縫い合わせた布の黒い継ぎ目に、ほんの少しだけ脈動を見せた。王都へと伸びる見えない糸が、確かに引かれている。


 次の目的地は決まった。

 音を殺す者たちの巣へ、音を取り戻しに行く。

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