31話-天空への航路-
白銀の雲海が裂け、塔のようにそびえる石柱が数珠つなぎに浮かんでいた。各柱の頂には風見のような結晶と、円形の舞台。ここがファザリア浮遊大陸の玄関《風門》だという。
「地上の旅人よ、ようこそ雲上へ」
青緑の羽飾りを持つ壮年の男が降り立つ。肩にはグリフォン。翼長ライザル。視線は厳しいが、礼は正しい。
「協力を求めるなら、われらの空で証明してもらう。試合だ。落ちるか、降参するまで。空の掟は簡潔だ」
セインは喉の奥で息を整え、雲を透かす風の振動を聞いた。三十話の裂け目で掴んだ“拍子”が、ここにもある。空には空の節がある。
「やるしかないな」トーマが盾の縁を叩く。「落ちても拾う。誰も落とさない」
エリシアは口の端を上げた。「空を斬るなんて、燃えるじゃない」
ミリアは小声で祈る。「みんなの息と鼓動を、風の拍に合わせる……」
試合場は直径百歩ほどの空闘リング。縁を巡る流線は可視化された気流で、リズムに合わせて強弱が変わる。相手はライザルと若手ライダー二騎。こちらは徒歩三人+足場なし。明らかな不利に見えて、ライザルは肩をすくめる。
「地上の者ほど、風を信じない。だから落ちる。さあ、始めよう」
◆
号砲のかわりに、雲柱が鳴いた。次の瞬間、三羽のグリフォンが斜め下から抉り上げる。
「来る!」
トーマの盾が淡光を吐いた。盾紋から広がる面が、空気の流れを“整流”して固まり、透明な足場へと変わる。《空盾足場》。セインとエリシアがそこに踏み込む。
「いいね、その板——いや風の床、切り出せる!」
エリシアは跳ぶ。両足を風のレーンに重ね、身体をスピン。魔剣の刃が風圧を拾って伸びる。「《空断ち・カデンツァ》!」
螺旋の刃がグリフォンの翼走にかすり、気流がほどける。ライザルは舵を切って回避、しかし若手一騎が姿勢を崩し、場外へ滑りかけた。
「掴まれ!」
トーマの盾が二枚目の足場を生み、滑落の軌跡に渡す。敵であろうと落とさない——その采配にライザルの目が細くなる。
「空で情けを? いや、掟を知っている……敬意だな」
刹那、リングの外縁がざわついた。風が“絡まる”。セインの皮膚に粟立ちが走る。これは自然の乱流じゃない、どこかで嗅いだ匂い——虚界の繊維のような、きしむ糸の手触り。
「風が縫い替えられてる。誰かが糸を入れてる!」
セインは呼吸のテンポを落とし、空の拍を一拍飛び越す。《拍越え》の応用だ。見えない継ぎ目——節と節の狭間に指を差し入れるイメージで、空間の皺をつまむ。
「《風縫いステッチ》!」
細剣の穂先で空を一刺し。見えない縫い針が乱流の端を拾い、トーマの《空盾足場》と結合する。トーマが頷き、盾面を押し出して“縫い目”を固定。場が安定し、エリシアの軌道に再び拍が戻る。
「助かった、なら——もっと高く!」
エリシアが二段、三段と風の拍を踏む。落ちるはずの空に、踏める場所がある。刃が走り、若手の騎槍を折る。しかしその直後、空の裏側から黒い針金のような風糸が滑り込んだ。リングが逆回転する。
「まずい、上下がひっくり」
「させない!」
ミリアの声が風に混じる。彼女の歌はいつもと違った。水底で響いた“治癒の和声”に、今は軽やかな三音が加わる。
「〽︎—サラサ、サラサ、風よ、息を整えて——」
音が気流の“呼吸”を整え、乱れた上下に基準線を引いた。セインはその線に縫い目を合わせ、トーマが板を継ぎ足す。場が戻る。ライザルの口元が驚きから微笑に変わった。
「風に畏敬を持つ歌……悪くない」
最後は正面勝負になった。ライザルが高度を取り、逆落としの一矢——突風の槍が落ちる。セインは半歩だけ拍をずらし、槍の“間”に割り込ませた縫い目にエリシアを送り込む。
「——いけ!」
風が裂けた。エリシアの《空断ち・カデンツァ》が真上から弧を描き、ライザルの騎槍の柄を切断する。ライザルは自ら手を離して体勢を崩し、グリフォンの背で翼を畳む——降参の合図だ。
「見事。地上の四人、勝者」
雲海が拍手のように鳴った。
◆
試合後、《風門》の祠で小さな儀が催された。青い鈴蘭のような風花が渦を巻き、光の小精霊がミリアの周りに集う。翼長ライザルが杖を鳴らす。
「風は気まぐれだが、約束には厳しい。契約の言葉を」
ミリアが頷く。彼女は自分を“歌い手”だと思っている。けれど風は違う呼び名で彼女に寄ってくる。名乗らないのに、名を知っているように。
「……聞こえますか。私の息を、みんなの息を、あなたに重ねたい」
囁きは風の耳に届いたのだろう。青い旋律がミリアの三音に一音を重ねる。指先に涼しい刺すような感覚。
《ゼピュリア》。風の小神の名が、誰の声でもなく響いた。
ミリアの歌に、第四音が加わる。セインの胸郭にも、トーマの肩にも、エリシアの刃にも、同じ拍が打たれる。完成したのは、浮遊遺跡で知った“合唱鍵”の片翼——《空の対旋律》。
「これで“合唱鍵”の片側が揃ったわけね」エリシアが息を吐く。
「連邦流に言えば“風の返歌”。貸し借りは作った。あなたたちの頼み、聞こう」
ライザルは《風門通行権》を刻んだ薄い板を差し出した。雲海を行き来するための正式な許可証だ。盟約の証として、連邦旗の端布も渡され——そこでエリシアが手を止める。
「……この継ぎ、墨色の蝋が挟まってる」
指に載せたのは黒い封蝋の微片。潮の塩と同じ匂いがする。ネプチュナで拾った“塩の王印”の欠片に、似ている。
ライザルが眉根を寄せる。「旗を縫うのは選ばれた職人だけのはずだが……混ぜ物か。風門内にまで黒い指が延びているなら、笑い事では済まないな」
「誰かが風を“縫い替えて”た。虚界の糸の癖に似てる。名前まではわからないけど」
セインが答えると、ライザルは頷いた。
「なら、こちらでも糸口を探そう」
安心したのも束の間、祠の水鏡が荒く波打った。魔塔の連絡装置だ。アウリスの側近の声が、風を裂く。
『緊急! 塔内で反乱、暗殺者集団が蜂起! アウリス様、負傷! 至急帰還願う!』
空気が冷たくなる。トーマが板を握り、エリシアが目を鋭くする。ミリアは無意識に胸元を押さえ、セインは鏡に短く答えた。
「最短で戻る。《風門》を開いてくれ」
「もちろんだ。護衛に一騎つけよう」
ライザルが口笛を鳴らすと、若いグリフォンが駆け寄ってきた。
「風は貸し借りにうるさい。さっそく返そう」
四人は雲海の縁へ並ぶ。トーマが《空盾足場》を連なりに展開し、ミリアの新しい第四音が足場の拍をやさしく支える。エリシアは刃を鞘に納め、セインは風の縫い目を先に通した。
「飛ばすぞ。塔が待ってる」
雲海が道になった。風門を抜ける一行の背に、旗の端の黒い微片が静かに震えた。塔で何が起きているのか——それは次の嵐の入口だった。




