30話-光の試練・後編-
任務連絡は、港町ネプチュナの朝靄がほどける前に届いた。魔塔上層で観測された“位相異常”——ネザリアと別相が擦れ合い、空間に「裂け目」が生じているという。場所は海上の断崖〈風欠けの岬〉。もし開き切れば、ヴォイドリア次元の魔物が地上へ雪崩れ込む。
「潮導核は一旦保留だ。まずは穴を塞ぐ」アウリスの声は泡通話の向こうで硬い。「敵は次元魔法を使う工作員。気をつけて」
岬へ着いた瞬間、四人は全員で息を飲んだ。蒼穹の真ん中に、裂いた絹のような“黒いほころび”がぶら下がっている。空も海も、その周囲だけ色が褪せ、風の音が遠のく。裂け目の縁は脈打つ傷口のように開閉を繰り返し、触れてはいけないものの気配をむき出しにしていた。
「——来客だ」トーマが盾を構えるより早く、黒衣の影が裂け目から滑り出た。痩せた男、顔半分を白い面で隠し、指先からは銀の糸が幾筋も垂れている。
「虚界紡ぎのヴェイル。境界を“ほどき”、望む形に“編む”者よ」男は面の裏で笑った。「嫉妬派の騒ぎに便乗して、道を広げにきた。君らは縫合? それとも切断?」
「閉じる」エリシアが一歩踏み出す。魔剣の黒銀が光を呑み、彼女の刃は風を集めて細く扁平に変形した。
「じゃあ競争だ」ヴェイルは糸を弾いた。空間がぴしりと鳴り、断崖の上に同じヴェイルが三人、時間軸をずらして立つ。過去の一歩、未来の一刀——遅延と先行を重ねる幻惑の陣形。
「見失うな!」トーマが叫び、足元に“固定陣”を展開した。盾から広がる幾何学の光は地に杭を打つように座標を留め、仲間の体感時間を基準へ引き戻す。
エリシアは虚像を嫌うように刃を水平に走らせる。彼女の風は“切り裂く”のではなく“押し潰す”。空間の薄皮を凹ませ、早送りのヴェイルの足運びをわずかに鈍らせた。
ミリアは喉に指を添え、小さく息を吸った。彼女の声は波間よりも静かで、心臓の拍に寄り添う。——一、二、三。合図のような短い三音。すると風が、海が、断崖の草が、その数え歌に合わせて“揺れの位相”を揃える。時間が伸び縮みしていた場が、ほんのひと呼吸ぶん“整列”する。
(今——!)
セインは足を踏み出した。裂け目の鼓動が、骨の内側に触れてくる。二十九話で感じ取った“薄膜”の感覚は、今やもっと深い層を叩いている。見えない縫い目、音にならない節目。世界の布地が「拍」を刻む場所——。
剣を抜くと、刃先に微かな抵抗がかかった。まるで見えない糸が刃へからまる。ヴェイルの糸とは別の、もっと古い「織り」の系統。セインは息を合わせた。ミリアの三音に、自分の四歩目を重ねる。
「位相歩法《拍越え》——」
足が“拍”の外側へ出る。世界のリズムから半歩外れ、風の抵抗がほとんど消えた。セインの影がヴェイルの三つの像を通り抜け、面の縁に立つ本体だけを捕まえる。
ヴェイルの目がわずかに細くなった。「……君、誰の系譜だ?」
セインは答えない。剣を返し、刃で“糸”を拾い上げる。切らない。張力を借りる。
「縫時の一針」
刃が一閃、裂け目の縁が“すくい縫い”される。傷口が閉じ切る前にヴェイルが糸を投げたが、トーマの盾がそれを受け止め、重い鐘のような音で打ち返す。
「こっちは縫う。お前のほどきは、もう間に合わない」
焦れたヴェイルが裂け目の中へ腕を突っ込み、ヴォイドのしぶきを掴んで引きずり出す。現れたのは歪な四腕の影——時間差で殴りかかる拳が、四人の視界をずらす。
「エリシア!」セインが叫ぶ前に、魔剣士はもう動いていた。彼女は風の刃を従来よりさらに薄く“折り返し”、空間の歪みを“折り目”ごと挟み込む。
「逆位相斬!」
四腕の影が一拍遅れて崩れ落ちる。ミリアの三音がふっと上がり、小さな終止をつくって場を安定させた。
息が揃った瞬間、セインの耳に別の音が入る。——上空から、遠いホイッスルのような高い響き。裂け目の縁に、風の細い糸が一本、触れている。
(風の……『対旋律』)
彼はもう一度“拍越え”で縁に乗り、縫い針のように剣を通した。ミリアの三音に、上の風音が重なる。二声が揃い、裂け目は嫌がるように縮んだ。
「終いだ」トーマが盾で最後の糸束を叩き切る。
ヴェイルは目だけで笑い、裂け目の消え際に身を薄める。「覚えておくよ、拍を跨ぐ子。次は上で会おう」
黒いほころびは海霧に溶け、岬に風が戻る。四人は肩で息をし、互いの無事を確認し合った。
「今の——風の音、聞こえた?」セインが問うと、ミリアは瞬きをした。「少しだけ……潮騒に混じって、笛みたいな」
「私にも聞こえたわ」エリシアが空を仰ぐ。「“空の系譜の声”。沈降神殿の碑文にあった合唱鍵のもう片翼——空の歌は、上にある」
泡通話が鳴る。アウリスの声は今度、どこか急いていた。
「よくやった。観測は安定。……だが別の地点で大型の位相ずれ、発生源は——セレスティア連邦。天空世界よ。向こうの管制から助力要請が入った。グリフォン騎兵団が“風の門”を抑えているけれど、門の歌い手が不足しているらしい」
「歌い手……!」ミリアが小さく息を呑む。
「セイン、今の“縫い”は記録でも特異だ。セレスティアの風精霊と共鳴できれば、合唱鍵の条件も満たせる。空へ行って“空の声”を借りてきて。——ただし連邦は厳格だ、外様の協力には試合での証明を求める。騎兵団との演習試合、受けてもらうわよ」
トーマが肩を回し、笑った。「盾の出番は、空でもあるさ」
「空中剣技、面白そうね」エリシアが魔剣を鞘に収める。「風を“折る”手応え、今のうちに身体に刻んでおく」
セインは手の中の剣を見つめた。刃にまだ、糸のかすかな“手触り”が残っている。拍を跨いだとき、上から差し込んだあの高い音。——空の対旋律は、きっと鍵になる。
岬を離れる船の甲板で、ミリアは風見旗の揺れに合わせて小さく口ずさんだ。三音の支援歌に、四つ目の音をそっと足す。潮の香りに、乾いた高空の匂いが混ざった気がした。
「行こう、空へ」
四人は頷き合い、魔塔の転移柱へと舵を切った。次の舞台は、白銀の雲海と風の門。風の歌を得て、海の歌と重ねるために——。




