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29話-光の試練・前篇-

黎明のネプチュナを離れ、四人は海流を切り裂くマンタ型の浮遊そりで沈降神殿へ向かった。青黒い海は深くなるほど音を失い、ただ心臓の鼓動と呼吸器の微かな気泡だけが耳の内側で弾ける。


「圧調良好。視界、最低限は確保できる」トーマが腕の符板を滑らせ、盾に流束の紋を走らせた。水が彼の前で素直な層流に変わり、霧のような微粒子が押し分けられていく。

「助かるわ。無駄な乱流は刃を鈍らせるもの」エリシアが口元に笑みだけ浮かべ、黒銀の魔剣を肩で転がす。

 セインは前方を凝視した。海底の陰が、神殿の輪郭になる。沈んだ円柱と、貝殻のように重なり合うドーム。近づくほど、胸の奥に薄い膜が張られていく違和感——空間のどこかに“面”が存在している。


「——来る」セインの言葉と、ミリアの肩に走る悪寒は同時だった。

 闇から滲み出したのは、透明な綿毛にも似た群体だった。クラゲでも藻でもない。近づいた瞬間、呼吸具の泡が潰れる。酸素が奪われ、水が肺に入ってくるかのような錯覚が喉を絞め上げた。


「“嫉妬の守り子”……奪うために生まれたものだ」エリシアが歯噛みし、風の刃を水に乗せて叩き込む。しかし切断面は瞬時に融け、群体はまた形を取る。

「下がって!」トーマが盾を大きく展開。彼の前で水がまるで板のように整い、細かな泡だけが一定のリズムで流れていく。「呼吸線、ここに通した。ここから外れるな!」


 潰れていた気泡が、トーマの“線路”に沿って再び丸くなる。だが守り子は執拗にまとわりつき、目に見えない指で気道を塞ぐ。


 ミリアは胸に手を当て、ためらいの息を吐いた。「……歌うね」

 彼女の声が、水に混じる。高くも低くもない、波と脈拍のあいだの音。ひとつ、ふたつと音が重なり、やがて和声になった。石柱に寄生する発光苔が彼女の和音に震え、青白い泡を弾く。泡はまるで光の粒となって喉に落ち、焼け付く酸欠の痛みが引いていく。


「ミリア、その歌——」エリシアが眼を見張る。

「支援の歌だよ。落ち着くでしょ?」本人は首を傾げるだけだ。


 呼吸を取り戻した瞬間、セインは感じていた“面”を掴んだ。水圧の薄い皮膜が、神殿前庭をぐるりと取り巻いている。守り子はそこから滲み出し、触れたものの酸素を奪う。ならば——


「トーマ、層流をもう一段、細く」

「わかった。刃渡りの幅で面を作る」

「エリシア、右回りに払って。面を捩じる」


 三人の声と同時に、水が“刀身”のような帯になった。セインは魔導剣を抜く。刃は水に沈まず、むしろ面に吸い付くようにぴたりと張り付いた。ヴァルターの残した感覚が囁く——ここだ、と。


「透刃・薄膜断ち」


 剣が音もなく走り、見えない膜が裂けた。守り子の群体は一斉に痙攣し、形を保てず細かい粒となって崩れる。エリシアの斬撃が捻じれた流れに添って駆け、残滓を切り払った。

「開いた! 前庭、通れる!」トーマが盾で通路を固定し、泡の道をさらに強靭にする。


 四人は裂け目をくぐり、沈降神殿の前庭に踏み入った。そこは静謐だった。石に刻まれた螺旋の文様、貝殻に似た拝座。中央の祭壇には黒い封蝋——あの“塩の王印”が貼られ、古い封印文に新しい呪式が縫い付けられている。


「……また、これ」エリシアの視線が一瞬、固まる。封蝋の縁に走る刻みは、彼女の記憶のどこかを刺す線だった。家の紋章——いえ、似ているだけ。今は立ち止まれない。

 セインは祭壇の碑に手を触れ、浮き出た文字を光でなぞる。古海語の断片が形になる。


「“潮導核、二重封ず。ひとつは奪う嫉妬の殻、ひとつは与える光の衣。核を開く鍵は、双つの声——合唱鍵に宿る。”」

「合唱鍵?」ミリアが首を傾げる。

「主旋律と対旋律。海と空、二つの系譜の声って読み取れる」エリシアが碑に並ぶ象形を追った。鱗に似た記号と、羽根のような意匠。


「つまり、今の私たちだけじゃ核心に届かない」トーマが短く結論づける。「海の声と……空の声」

「ミリアの歌は“海”を動かせる。もう片方が要るのだろう」セインは頷き、視線を神殿の奥へと向けた。薄膜がまだ幾重にも重なっている気配。今日、踏み込みすぎるのは悪手だ。


 そのとき、祭壇の陰から冷たい視線が流れてきた。海蛇のような影、尾鰭だけが揺れて消える。嫉妬派の気配——見られている。


「引くべきね」エリシアがささやく。「合唱鍵の片翼を手に入れてから、戻ってくる」

「帰り道も気は抜けない。守り子、完全には消えてない」トーマが盾を上げ直す。


「——みんな、もう一曲だけ」

 ミリアが息を吸い、今度は短い旋律を置いた。手のひらほどの発光海藻がふわりと起き上がり、破れた薄膜の端に沿って“光の糸”を紡いでくれる。戻るべき道が、青白い点線になった。


「便利すぎない?」エリシアが笑う。

「ほんの支援だよ」ミリアは照れくさそうに目を伏せた。自分の声がこの海のどこへ届き、何を起こしているのか——まだ、知らない。


 裂け目を抜ける瞬間、セインは振り返った。前庭の奥、封蝋の陰に一瞬だけ現れた女の輪郭。海の冷たい緑をそのまま瞳に閉じ込めたような、嫉妬の色。口の形だけが読めた——「奪うのは私たち」。


 海流が背を押す。四人はネプチュナへ戻る航路に乗った。

「合唱鍵、もう片翼は……海の巫女か、あるいは——」トーマが言いかける。

「空の系譜の声。風の精霊、もしくは空の種族の歌だわ」エリシアの言葉に、セインは小さく頷く。空と海、二つを結ぶ音。その鍵が揃うとき、嫉妬の殻は砕けるだろう。


 港の灯が見え始めたころ、アウリスからの泡通話が届く。「よく戻った。解析と補給を済ませたら、後篇に入る準備を。——“歌い手”を、こちらでも探す」

 通話が途切れる。ミリアは胸に手を当て、そっと呟いた。「次は、もっとちゃんと届くように歌う」


 海は静かにうねり、遠い上方で雲が割れた。光の筋が水面から深く落ち、沈降神殿の方角を真っ直ぐに指している。

 ——光の試練は、まだ前庭の入口に過ぎない。核心は、合唱の先に。

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