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28話-ネプチュナの潮騒-

砂の味が、塩に変わった。

魔塔の転移門を抜けた四人が辿り着いたのは、海底帝国アクアマリーナの玄関口――ネプチュナ港。透明なドームの天蓋越しに、夜光を放つ巨大クラゲがゆっくりと漂い、通りには発光珊瑚で彩られた屋台が並ぶ。貝殻を削った笛の音、潮に揺れる祈り旗、遠くで鳴る鐘。砂漠の熱と喧噪の名残が、ひやりとした海の気配に洗われていく。


「目、慣らして。ここは昼夜の境が曖昧だから」

ミリアが小声で注意する。彼女の声は海の底に似合う柔らかさで、耳の奥に涼やかに落ちた。


任務は嫉妬派カルトが狙う“潮導核”の探索の端緒を掴むこと。アウリスから託された紹介状を示し、港監局の案内でまず向かったのは“圧調プール”だった。深域往来者の必須儀礼――水圧適応訓練である。


プールの水面は黒曜石のように静かだ。施設員が配った軽装の潜行衣を身に着け、円形プールに足を入れる。瞬間、全身が押し潰されるような圧感に襲われた。

「お、おお……これは、盾ごと沈むな」

トーマが眉をひそめると、教官が笑う。「盾を“壁”にするな。“流れ”にしろ。水は押すより逃がすんだ」


トーマはゆっくりと呼吸を整え、手の盾を胸前に傾けた。次の瞬間――盾の縁を撫でる水が、薄い膜のように形を変え、彼の周囲に緩い渦を作る。渦は圧を分散し、視界の濁りを払っていく。

「……やれる」

トーマの声が落ち着きを取り戻す。セインはその変化を“面”として捉えていた。水流が薄くなる場所、圧が抜ける裂け目――空間の表面が、わずかに光って見える気がした。


エリシアは魔剣を鞘ごと水に沈め、刃先に薄い気泡の皮膜を纏わせる練習をしていた。

「水の重さ、刃が飲み込まれる……でも、層を整えれば――」

彼女が剣を振ると、刃の前に細い水の筋が走り、プールの表層を裂いて静かに閉じた。

「きれい……」ミリアが小さく息を漏らす。

「まだ微妙だよ。ここで崩れると、私が溺れる」エリシアは苦笑して肩をすくめた。


適応訓練を終える頃には、四人の身体は重さに慣れ、耳は海底の鈍い響きを識別しはじめていた。その足で港の発光屋台街へ。夜市の灯は魚鱗のように揺れ、酒代わりの“潮蜜”を売る露店からは甘い磯の香りが漂う。


「情報集めは二手に。セインとトーマは港倉庫区の聞き込み、私とミリアは市場で噂を拾う」

エリシアの段取りは手際がよかった。彼女は貴族的な立ち居振る舞いを隠す術も、目立たぬよう佇む術も知っている。


セインとトーマが倉庫区の酒場に入ると、潮に焼けた労働者たちの間でこんな囁きが引っかかった。

「黒い封蝋の船が今夜も入るそうだ。印は……“王の塩冠”だとよ」

“塩の王印”。セインはその語感を胸に留める。


一方その頃、エリシアは市場のはずれで、真珠を埋め込んだ木箱に目を留めていた。蓋の角、磨耗した金具の影――そこに刻まれた小さな印を見た瞬間、彼女の指がわずかに震えた。塩王の冠に似た意匠。幼い頃、家の文書庫で見た古い家紋に形が似ている。

(……どうして、ここで)

「エリシア?」呼びかけるミリアに、エリシアは微笑みで返すだけにした。「なんでもない。あの箱、今夜どこへ運ぶか、見ておこう」


日付けが変わる少し前、四人は合流し箱の行方を尾行する。運び手は顔を布で覆い、甲殻のような潜行靴で水路沿いを滑るように進む。宛先は港外縁の“静水市”――水中市に続く昇降路だった。


昇降路のゲートを抜けると、そこは別世界だ。ドーム外の暗海と繋がる開放路に屋台が設けられ、息をする珊瑚の奥に簡易の取引所が浮かぶ。客は鰭を持つ種族、貝殻仮面の仲買、無言の潜り屋。声を上げる代わりに、貝片を鳴らして交渉する音があちこちで響いていた。


箱は黒封蝋で再度封じられ、小さな卓の上で別の一団に渡された。封蝋の面には、王冠の上に細い滴――“塩の王印”。受け取り側の指には、同じ印の指輪。

「合図の合図で、取る」エリシアがささやく。

「合図?」トーマが訊ねる。

「潮が一度、逆流する」


言葉の直後、微かな逆巻きが四人の足元を撫でた。セインは肩を震わせる。空間の面が反転する。今だ。

セインが踏み出すと同時に、トーマの盾が斜めに構えられ、視界を曇らせていた微細な砂が掃き払われた。盾の縁に沿って生まれた整った流れが、濁りを吸い、敵の影だけをくっきりと浮かび上がらせる。

「見える!」

トーマの声に呼応するように、エリシアの魔剣が水を切り裂く。層流の刃が箱へ伸びる指を叩き落とし、ミリアの短いハミングが周囲の水泡を弾ませ、飛び交う投刃の勢いを殺した。


「寄るな!」

敵の一人が甲高い鯨笛を鳴らす。水市の客が一斉に散り、残った数名が黒封蝋の箱を抱えて水中路へ。

セインは追う。空間の薄い面に指をかけ、身体を滑らせるように距離を詰めた。だが無理はしない――砂漠で学んだ。前に出た誰かを、誰かが支えるのが戦いだ。


「右、二!」

エリシアの声。セインがそちらへ踏み込み、トーマの盾流が敵の足元をすくう。ミリアの声が一段高くなると、水の揺れが波紋のように広がり、逃げ足の軌道を淀ませた。

「すみません、ちょっと眠っててください」

ミリアの柔らかな囁きに、敵の瞼がふっと重くなる。彼らは気絶する寸前、黒封蝋の一片と、小さな布袋を取り落とした。


乱戦は長引かず終わった。箱は取り逃したが、落とし物は回収できた。布袋の中には、塩の王印が刻まれた指輪と、薄い貝片に刻まれた簡略地図――“沈降神殿前庭”と読める文字。そして黒封蝋の欠片は、薬草ではない、もっと鈍い匂いを放っていた。

「この蝋……普通じゃない。海藻油に、鉄と……人の脂?」トーマが眉をひそめる。

「嫉妬派の封蝋は“奪ったもの”で重みをつけるって、聞いたことがある」エリシアが静かに答えた。声が震えていないのは、震えを飲み込むことに慣れているからだ。


セインは貝片地図を光に透かす。細い線が幾重にも重なり、前庭の奥に“核”を示す印。印の脇には、かすれた一語――〈合唱〉。

「合唱……?」ミリアが不思議そうに首を傾げる。「祈りの時に歌う、あれみたいだけど」

「神殿なら、儀礼の鍵だろ」トーマが肩を回す。「歌うのは任せる。俺は流れを整える」


その時、エリシアは指輪を手に取り、刻印をまじまじと見た。冠の下に三つの波線――家の紋に酷似している。喉がからからに乾く。

(私の家は、海と関わりがなかったはずなのに)

「どうした?」セインが尋ねる。

「……なんでもない。ただの既視感」エリシアは指輪を袋に戻し、視線を上げた。その青い瞳には、波のような決意が宿る。「場所は掴めた。沈降神殿――前庭から入る。明朝、潜る」


港に戻る道すがら、ミリアが鼻歌を零す。潮の拍に合う、短い旋律。セインはそれに合わせて歩幅を刻む。歌は彼の耳の痛みを和らげ、足取りを軽くした。

「さっきの歌、効いたよ」

「え? ただの応援だよ」ミリアは首を傾げる。「ね、セイン。明日も、隣で歌うから」

「ああ。頼りにしてる」


ネプチュナの潮騒が、ドームの天蓋をくぐって降ってくる。灯が消えていく市場の片隅で、エリシアは一人、もう一度空を見上げた。浮遊するクラゲの光が、冠の形に滲んで見える。

――塩の王印。指に残る、その冷たい感触。


夜が更ける。四人は短い眠りに体を預け、夜明けの青の中で目を開けるだろう。目指すは海底の神殿、沈降の前庭。

“潮導核”の在り処は、歌と流れと薄い面のその先にある。

そして、かすれた一語――〈合唱〉が、次の扉を開ける鍵であることを、まだ誰も知らない。

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