11話-カウントダウン-
オルドバルの襲来から一夜が明けても、学園の空気は平常には戻らなかった。
回廊を歩けば、生徒たちの囁き声が石壁に反響し、ひそやかな残響となって耳にまとわりつく。
「闘神が一撃で沈めたんだって」
「本当に学院長、ただの人間なの?」
「禁忌竜なんて……どうして学園に……」
語られるのは驚きと畏怖。
だが人の口は不思議なもので、繰り返し語ればそれは“日常の一部”に形を変える。
朝の食堂は、結局のところいつも通り賑やかだった。
パンの焼ける香り、スープの湯気。笑い声に混じる不安の影は、かえって浮ついた調子を強めていた。
俺はトーマとミリアと共に席に着いた。
トーマが大きなパンをちぎり、口いっぱいに頬張りながら言う。
「なあセイン、昨日のあれ……やっぱ夢じゃなかったんだよな」
「夢で竜に襲われたなら、起きて汗びっしょりだろ。でも昨日は……」
俺は胸の石を押さえる。
ペンダントは今も微かな鼓動を刻み、胸骨を通じて生々しく響いていた。
「現実だ。鱗の破片も、まだ残ってるはずだ」
「だよな……。でも一撃で沈めるなんて。ヴァルターさん、やっぱ化け物だわ」
トーマがため息をつく横で、ミリアはスープを口に含み、ぽつりと呟いた。
「……音が消えていない」
「音?」俺が聞き返す。
「オルドバルの咆哮。普通なら死んだ瞬間に途切れるのに……地の底でまだ尾を引いてる」
彼女の琥珀の瞳は、食堂の喧噪を突き抜けて、遠くの虚空を見ているようだった。
俺は返す言葉を失った。胸の石が熱を孕み、夢の囁きがよみがえる。
――光を汚せ。聖なるものを堕とせ。
⸻
午前の講義は、ざわつきを抑えるためか予定通り進んだ。
だが、生徒の誰もが心ここにあらずで、教壇の声は波間に沈んでいくように薄れていた。
そして迎えたのは歴史学。カルバン先生の授業。
講義室に入ると、生徒の数は普段より明らかに多い。
昨日の「地図特講」の噂を聞きつけた他学科の学生まで、席を埋めていた。
黒板には昨日描かれた世界地図の輪郭が、まだ残っている。
カルバン先生は柔らかな笑みを浮かべ、丸眼鏡を押し上げて言った。
「昨日は、少し驚かせてしまったかもしれませんね」
くすりと笑いが広がる。
「でも大丈夫。学園は強い。ヴァルター学院長が守ってくれる。……だからこそ、わたしたちは“知る”ことを続けられる」
その一言で、胸のざわめきが嘘のように落ち着いていく。
たとえ禁忌の竜を目にしたばかりでも、彼の声には人を安心させる力があった。
「さて――今日は“第二の印”を見てみましょう」
先生は机の下から古びた羊皮紙を取り出した。昨日と同じ複製地図だ。
黒板に磁針で留め、白いチョークを走らせる。
「ここです。王都から北西に位置する古い鉱山地帯。断裂以前、ここには“門”と呼ばれる祭壇があったと記録されています」
チョークが円を描き、その中心を斜めの線が貫く。
息を呑む。――昨日、先生が無意識に床へ描いたものと同じ形だ。
「“門は七”。それぞれが異なる性質を持つと伝えられています。……この第二の印は、古文書では“嫉妬の門”と記されていました」
ざわめきが教室を駆け巡る。
嫉妬――それは誰の胸にも潜む、最も人間的で最も醜い感情の象徴。
「門は比喩であり、現実でもある。人の心に門を作り、それを開けば力が流れ込む。古代の人々はそう考えました。
では、なぜ“七つ”だったのでしょう」
問いかけに、生徒たちが答える。
「七は神聖な数だから?」
「暦の基準に使われていたから?」
「いい意見ですね」
先生は頷き、優しい笑みを深める。
「ですが私はこう思います。“七”とは、人が避けて通れない感情の数だったのではないか、と」
その瞬間、胸の石が強く脈を打った。
夢で見た七つの扉――怒り、嫉妬、怠惰、強欲、色欲、暴食、傲慢。
それらが重なり合い、俺の奥底で扉を叩く。
先生は淡々と印を描き足していく。
だがその指先が――一瞬、震えた。
線を描く手が、わずかに強く押し込みすぎたのだ。
チョークの粉が散り、不自然な模様を作る。荊冠のように。
俺とミリアは同時に気づいた。
だが周囲の生徒は「先生、描きすぎですよ」と冗談混じりに笑うばかりだった。
カルバン先生は苦笑し、靴で粉を踏み消す。
「失礼。手が滑りました」
柔らかな声。いつも通りの微笑。
――だが背筋を撫でる冷気は消えなかった。
⸻
講義が終わり、回廊に出た俺はトーマに肩を掴まれた。
「なあセイン。先生……なんか変じゃなかったか」
「お前もそう思ったか」
「うん。いつも優しいんだけど、今日は……目が違った気がする」
隣でミリアが小さく頷く。
「音がね。柔らかいはずの声の縁に、棘が混じってた」
荊冠の印が、再び脳裏に浮かぶ。
ヴァルターが言った言葉がよみがえる。
――影を見誤るな。鍛錬を怠るな。
俺は拳を握りしめた。
カルバン先生は、優しい。
だがもし、その優しさが仮面なら……?
⸻
夕暮れ。
演習場に近い回廊で足を止める。
石畳の上に、黒い染みが残っていた。
昨日オルドバルが倒れた場所。
結界で封じられたはずなのに、焦げた跡のようにまだ残っている。
「……影はまだ消えてない」
ミリアが低く言った、その時。
背後から穏やかな声がした。
「セインくん」
振り向けば、カルバン先生。
夕陽を背に、いつもの微笑と、柔らかな瞳。
「大丈夫。影に怯える必要はない。……学園には、闘神がいる」
その声は甘く優しい。
けれど耳の奥で、別の囁きが重なった気がした。
――光を汚せ。聖なるものを堕とせ。
俺は言葉を失い、ただペンダントを強く握りしめた。
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