悪意
放課後
授業を終え、友達と別れて一人で家へ向かう帰り道。
西日が沈みかけ、舗道のアスファルトが橙色に染まっている。
曲がり角を過ぎたとき、前方に人影が立っていた。
制服姿。髪の長さも、仕草も――見覚えがありすぎる。
「……美来ちゃん?」
「やっぱり、咲ちゃんだ。久しぶりだね。」
六年ぶりに聞く声は、あの頃と寸分違わない。
でも、その笑顔は口元だけで、目がまったく笑っていなかった。
「ねぇ……時間ある? ちょっと、カフェ行かない?」
断ろうとしたはずなのに、気づけば頷いていた。
まるで自分の意志じゃないみたいに。
⸻
駅前のカフェ。
窓際の席で向かい合い、コーヒーの香りが漂う。
美来は昔話をしたり、私の近況をやたら詳しく聞いてきた。
――詳しすぎる。話していないはずのことまで、彼女は知っていた。
「そういえばさ……覚えてる? 水溜まりの話。」
その瞬間、心臓が強く打った。
机の上のカップの中で、カフェラテがかすかに波打つ。
「……やめてよ、そういうの。」
美来は笑った。
でも、口の動きと目の動きがずれていた。
まるで別の誰かが、その顔を借りて笑っているみたいに。
⸻
店を出て別れ、家に向かう途中、ふと後ろを振り返った。
さっき別れたはずの美来が、十メートルほど後ろを歩いていた。
彼女の足元――濡れている。
今日一日、雨は降っていないのに。
⸻
翌日から、日常は少しずつおかしくなった。
母に呼ばれて返事をすると、「その声……なんか変じゃない?」と言われた。
友達に話しかけても、一瞬だけきょとんとされる。
夜、歯を磨きながら鏡を見ると、映った自分が、ゆっくり口を開いた。
――「もう、入れ替わってるよ」
背後から、水滴が床に落ちる音がした。
振り返っても、部屋は乾いていた。
ふと、あの夜の美来の言葉が頭をよぎる。
「特定の水溜まり」――あれはただの場所じゃない。
そこは、人の“影”と“顔”が溶け込む、境界。
雨水に混じるのは、空の色でも土の粒でもなく……覗き込んだ者の輪郭そのもの。
一度でも目を合わせれば、向こう側に“本物”を引きずり込み、残された殻をこちらへ押し出す。
それは水ではなく、記憶と存在を吸い上げる“口”だった。
床のどこにも水はないのに、私の靴下は重く濡れている。そしてどこか珈琲臭い。
――まるで、ついさっきまで水の中に立っていたみたいに。
その時気づいた。あの時行ったカフェで美来ちゃんは珈琲を飲んでいたということを。
そして私は今とても珈琲臭い。
美来ちゃんは何をあの時飲んでいたのか?
もし珈琲に混ぜられていたら?
あれは悪意だったのだろうか?
もう分からない。
窓の外で、小さな水音がした。
反射的に振り向くと、電信柱の影の足元に黒い水溜まりができていた。
そこに、小学校低学年くらいの女の子が立っている。
顔ははっきり見えない――けれど、水面に映るその顔は、私を見て笑っていた。
……笑っているのは水面の中だけだった。
でも早くここから出たい。
だから私は今日も入れ替わるの。
生きるために。
仕方がないじゃない。生存本能だもの。
夕暮れの道。私はふと気づくと、水色のランドセルを背負った小学生の姿になっていた。
足元のアスファルトには、小さな水溜まりがひっそりとできている。雨なんて降っていないのに。
ランドセルを揺らすたび、水溜まりの水がぽたぽたと靴下に染み込み、冷たさが指先までじわりと広がる。
足を一歩踏み出すたび、水面に小さな波紋が立つ――でも波紋は外へ広がらず、逆に中心に吸い込まれていくように見えた。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
水溜まりの奥、鏡のように平らな水面の中で、私の顔がじっとこちらを見返していた。
でもそれは――私の顔じゃない。口元は笑っているのに、目は笑っていない。
ぽたぽた、ぽたぽた……足元の水滴がじっとりと重く、まるで何かに引きずられるような感覚がある。
思わず後ずさると、水溜まりが薄く光り、波紋の中心からじわりと手の影のようなものが伸びてきた。
「……今日も、入れ替わるのね」
小学生になった私の心臓が、ひときわ早く打った。
水はただの水じゃない。見つめ返す顔も、冷たい感触も、全部――あの水溜まりの悪意そのものだった。
振り返ると、背後の水たまりもゆらりと波打ち、まるで私を誘うかのように揺れている。
ぽたぽた、ぽたぽた……
水の音が、今日も私を追いかけてくる。
逃げても逃げても、体も心も、水の中に引きずり込まれてしまいそうだ。
名前なんて分からない。
とりあいず愛想を振りまけば自然と仲良くなれるのよ。
気づいた時にはもう遅かった。
「これじゃ私美来ちゃんみたい」
私も美来ちゃんと仲良くなった時正直いつ仲良くなったのか分からなかった。
私も美来ちゃんもいつから入れ替わっていたのだろうか?