回想 バルク
バルクが“人をやめた”のは、まだ若かった頃だった。
人であることに疑問を抱くには早すぎる年齢だった。だが彼は、選ばされた。生まれたその瞬間から、他の生き方など許されなかった。
彼は〈印獣狩り〉の一族に生まれた。
人の形をしていながら、理性を持たず、本能のままに破壊を繰り返す異形の存在――〈印獣〉。その獣は、人の心の澱や呪念を糧とし、闇の中から突如現れては村を喰らい、都市を焼いた。
印獣を討てるのは、“同じ目”を持つ者だけ。
印獣狩り。それはかつて神より選ばれ、獣と対峙するために存在を許された人の末裔。彼らは獣と対峙し、獣に触れ、獣の理を学ぶ。だがそれは同時に、自らをも獣に染めていく生き方でもあった。
「獣を討つには、獣になるしかない」
それが一族の教義だった。誇り高く、残酷な思想。子供であろうと容赦はなかった。幼い頃から剣を握らされ、感情を殺し、戦いを叩き込まれる。生き残るには、獣の速さと獣の勘を身につけるしかなかった。
だがバルクには、感情を押し殺すことができなかった。
妹がいた。名は、ティナ。
彼女だけが、バルクの中の“人間”を見ていてくれた。戦いに疲れて帰れば、手拭いを差し出し、傷を見ては眉をひそめ、小さな手でそっと抱きしめてくれた。
「兄さんは、獣なんかにならないで。私の兄さんは、優しい人なんだから」
その言葉に救われていた。けれど、それは甘えだった。
ある年、一族は印獣の進化系と呼ばれる〈深層印獣〉の出現を察知した。
通常の武器も術も通じない強大な個体。その対抗手段として、一族の長老たちはある禁忌を提案した。
〈異種同化の儀〉。
印獣の核を摘出し、それを人の体に埋め込み、肉体と魔力を強制的に融合させる術。古の記録によれば、儀式に成功すれば通常の十倍以上の戦闘能力を得るという。ただし、代償は大きい。精神が壊れれば、宿主は自我を失い、そのまま新たな印獣となる危険すらある。
「お前にしかできん。選ばれたのだ」
一族の長老たちはそう言った。バルクは、悩んだ。だが結局、頷いた。
――自分さえ犠牲になれば、皆が助かる。
そう思ったのだ。だが、それは決定的な誤算だった。
「……これが、兄さんの選んだ道なの?」
その夜、儀式の前に、ティナが訪ねてきた。彼女は泣いていた。
「やめてよ。兄さんは……もう十分戦ったじゃない。どうしてこれ以上、自分を壊そうとするの?」
だが、もう遅かった。バルクの中で、印獣の核は静かに目覚め始めていた。
そしてその夜のうちに、災厄は訪れた。
封じていた印獣が突如暴走したのだ。あるいは、バルクの“変質”に反応したのかもしれない。防壁は一瞬にして破られ、一族の屋敷は地獄と化した。
燃える柱、崩れる屋根、悲鳴、咆哮、肉の裂ける音――
彼はすぐに戦場へ駆けつけた。だが、すでに手遅れだった。
印獣の爪が、妹の体を貫く瞬間を、彼はこの目で見た。
「兄さんは……人でも、獣でもない……。――それは、ただの呪いなのよ……!戻ってきてよ…、兄さん…」
ティナは最期に、そう言って事切れた。血に染まりながらも、優しく。バルクの頬に手を伸ばして、静かに息を引き取った。
それ以来、語ることも、笑うことも、怒ることもなく、ただ獣を狩る存在として生きた。
呪いと言われた〈異種同化の儀〉に打ち勝つために。
そして時は流れ、バルクは各地を放浪するうち、一人の少年に出会った。
名は、ユリオ。
小柄で痩せており、年端もいかぬ少年。だが、彼の内側には、明らかに“何か”があった。人の理では測れない、獣とも魔とも違う異質な気配。
初めてだった。
バルクが、自分と“似た匂い”を感じたのは。
その匂いは、懐かしくもあり、恐ろしくもあった。自分がかつて抱えきれずに壊れたもの。妹の言葉、失った温もり、そして――呪い。
ユリオは言葉少なに、それでもまっすぐに世界を見ていた。時に怯えながらも、目を逸らさない。
彼の存在に、バルクの中で何かが揺れた。
「獣になる前に、俺が止める」
かつて誰も止めてくれなかった自分を、今度は自分が止めたいと、心のどこかで願った。
「もしこの子が“災い”になるなら、……その時は俺の手で終わらせる」
それは冷酷な誓いだった。だが、その奥には確かにあった。
――救いへの渇望。
彼にとって、“守る”という言葉はまだ遠すぎた。 だが、ただ壊すだけの手ではなく、何かを抱きしめるための手を、もう一度持ちたいと――
誰にも言わず、静かに願っていた。
そして、旅が始まる。
血と呪いにまみれた過去と、まだ見ぬ未来とが交錯する、終焉へ向かう物語が。
その先に何が待つのか、バルクにはまだわからない。
だがそれでも、歩む理由だけは確かにあった。
――あの少年が、まだ“人”であるうちに。