撤収 そして
全身に血を浴び、肩で息をするバルクの姿があった。
戦場は、ひとときの静寂に包まれている。
彼の斧が焼き払い、叩き伏せた兵たちの亡骸が、焦げた大地に無秩序に転がっていた。血と煤の匂いが混じり合い、鼻腔を刺す。
だが、それは終わりを意味しない。
遠くから、確実に近づいてくる気配があった。足音。金属の擦れる音。命令を伝える低い声。
増援は止まらない。刻一刻と、空気は再び殺気を帯びていく。
「……チッ、キリがねぇな」
吐き捨てるように呟き、バルクは斧を地面に突き立てた。
柄を握る指が、微かに震えている。力が抜けそうになるのを、歯を食いしばって抑え込む。
傷だらけの体に、無理矢理魔力を走らせた。
内側から焔が燃え上がる感覚に、喉の奥が焼けつく。視界が一瞬、白く揺らいだ。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
ディランたちがユリオを連れて逃げた以上、自分は“撒き餌”でなければならない。
ここで立ち止まり、敵を引き付け続けること。それが、自分に残された役割だ。
だが――。
「……ここまで、か」
己の体が限界に近づいていることは、誰よりも本人が理解していた。
バルクは斧を引き抜き、燃え残った兵の鎧からマントを剥ぎ取った。煤と血で汚れたそれを羽織り、顔を深く覆う。
焔の気配を意識的に沈め、足音すら殺して、森の闇へと身を滑らせた。
追撃の声が上がるより早く、彼は包囲網を抜けていた。
「くそっ…………」
森を駆けながら、ふと零れた声。
クィライスで待っているはずの、あの仲間たちの顔が脳裏をよぎる。
大人びた言葉遣い。冷静な判断。だが、その奥に隠された不安と覚悟。
「……が、今あそこに行きゃ、真っ先に俺が足引っ張るだけだろ」
悔しげに吐き捨て、拳を握る。
自分が向かえば、敵もまたそこへ集まる。モネッサを危険に晒すだけだ。
――ならば、今は退く。
バルクは判断した。一旦身を隠し、体力を戻す。そのうえで、合流の目を残す。
生き延びることも、戦いなのだと、自分に言い聞かせながら。
クィライスから南へ三日。
商人の通り道として知られる都市・レンメルに、バルクは潜伏した。
石造りの街並みは人の往来が多く、追手の目も紛れやすい。
そして何より――ここには、古い知人がいた。
鍛冶屋ヴァルダ。
バルクと同郷の女であり、数少ない“昔の借り”を持つ相手だ。
倉庫の奥。火を落とした炉の横で、ヴァルダは腕を組んで立っていた。
「……相変わらず、ひでぇ格好で帰ってくるね」
低く、よく通る声。
女にしては大柄な体躯。太い腕には、鍛冶で鍛え上げられた筋肉が浮かんでいる。
「文句言うな。生きてるだけマシだろ」
そう言い返しながら、バルクは斧を差し出した。
「手入れ、頼めるか」
ヴァルダは一瞬、目を見開き、それから鼻で笑った。
「……ったく。何年経っても、それだけは手放さないんだね」
その斧は、ヴァルダが若い頃に打ったものだった。
女が鍛冶をやるなどと嘲られ、体格や力のかけ方を理由に何度も否定された時代。それでも食らいつくように炉に向かい続けていた頃の作品。
「お前の斧は、振ると分かる。余計な嘘がねぇ」
昔、バルクがそう言ったことを、ヴァルダは今でも覚えている。
「馬鹿みたいな理由だ」
そう言いながらも、斧を受け取る手は優しかった。
炉に火が入り、金属が赤く染まる。
ヴァルダは手慣れた動きで刃を整え、歪みを直し、微細な欠けを丹念に潰していく。
その間、バルクは椅子に座らされ、強引に上着を剥がされた。
「おい、何する気だ」
「何って、手当だよ。見りゃ分かるだろ、このザマ」
ヴァルダは悪びれもせず、薬草を潰し始める。
傷口に塗り込まれるたび、鈍い痛みが走った。
「声出すなよ? 情けないから」
「言う相手が逆だろ……」
だが、不思議と苛立ちはなかった。
荒れきっていた胸の奥が、少しずつ静まっていくのを感じる。
「……で、今回は何から逃げてきたんだい」
斧を打ちながら、ヴァルダが問う。
バルクは一瞬、言葉を選び――やがて、短く答えた。
「……守りたいもんが、増えた」
ヴァルダは、それ以上聞かなかった。
ただ、「そりゃ厄介だね」とだけ言って、火を見つめる。
「でもさ」
槌を置き、振り返る。
「アンタがそれ言うってことは、本気なんだろ」
その一言が、胸に落ちた。
「……ああ」
夜。
酒瓶を片手に、バルクは倉庫の天井を見上げていた。
「……なんでだろな。アイツが泣いてんの見ると、殴ってやりたくなるんだよ」
答える者はいない。
だが、ヴァルダの背中が、近くで作業している気配だけがあった。
「情けねぇな」
「情けなくて結構じゃないか」
ぶっきらぼうな返事。
バルクは、ぽつりと続けた。
「あいつが神だろうが、なんだろうが……ユリオは泣くんだ。苦しいって顔するんだ。
だったら、助けてぇに決まってんだろ」
握りしめた拳に、再び赤い焔が宿る。
「もう一回だ。もう一度、立て直す。今度こそ、誰にも触らせねぇ」
ヴァルダは、完成した斧を差し出した。
「だったら、折れんなよ。アンタが折れたら、この斧も泣く」
バルクは、斧を受け取る。
「……ああ」
焔の戦士は、再び立ち上がった。
まだ遠いマルダナの街。
モネッサと、ユリオたちとの再会。そのために。
今は、力を蓄えるだけだ。
◆◆◆◆◆
バルクが倉庫に現れた瞬間、ヴァルダは「生きて帰ってきた」と理解した。
それだけだ。
無事だとか、安心したとか、そんな柔らかい言葉は似合わない。
血と煤にまみれた体。呼吸は荒く、立っているだけで精一杯なのが見て取れた。
それでも、目だけは死んでいない。あの男特有の、折れていない眼だ。
――また、無茶をしてきたな。
そう思いながらも、口に出たのは皮肉だった。
「相変わらず、ひでぇ格好で帰ってくるね」
するとバルクは、いつものように肩をすくめる。
「文句言うな。生きてるだけマシだろ」
まったく、その通りだ。
ヴァルダは斧を受け取る。
……懐かしい重み。
この斧を打ったのは、まだ自分が“女の鍛冶屋なんて無理だ”と言われ続けていた頃だ。
腕力が足りない、体格が向いていない、力のかけ方が違う。
何度も何度も否定された。
それでも、炉の前に立つことだけはやめなかった。
そんな時に現れたのが、バルクだった。
斧を一振りして、ぽつりとこう言った。
――余計な嘘がねぇな。
それだけで、十分だった。
彼は誰よりも、この斧を信じて使い続けた。
折れそうになっても、欠けても、直せばいいと当然のように言った。
だから今も、こうして戻ってくる。
「……また、酷使してるね」
刃を火にかけながら、ヴァルダは言う。
バルクは答えない。
その代わり、黙って体を預けてくる。
薬草を潰し、傷口を酒精の強い酒で洗い、清潔な布をあてる。
痛みに顔を歪めても、声は上げない。
昔からそうだ。
痛いのは当たり前だと、最初から受け入れている。
「守りたいもんが、増えた」
ぽつりと出たその言葉に、ヴァルダは手を止めなかった。
――ああ、そうか。
この男はいつも、そうやって重たいものを抱えていく。
昔は、国だった。
次は、仲間だった。
そして今は……名前を口にしない誰かだ。
夜。
酒瓶を手にしたバルクが、天井を見上げている。
「情けねぇな」
そう言った声は、少しだけ弱っていた。
ヴァルダは思う。
情けないんじゃない。ようやく、人に戻ってきただけだ。
泣く誰かを見て、怒れる。
守りたいと思える。
それは、強さだ。
完成した斧を渡しながら、ヴァルダは言った。
「アンタが折れたら、この斧も泣く」
本当は、斧じゃない。
泣くのは、自分だ。
だが、そんなことは言わない。
バルクは頷き、斧を握る。
その背中を見送りながら、ヴァルダは炉の火を落とした。
――行きな。
守りたいものがあるなら、行くしかない。
帰ってこい。
斧が折れたら、また直してやる。
それが、鍛冶屋の役目だ。




