「私を忘れてください」
「……わたしを、憎んでください」
ルーヴィアの声は静かだった。
「いえ……願わくば、“忘れて”ください。でなければ――あなたの体は持ちません。感情に心を揺らせば、それだけで、神性が壊れてしまうのです」
その言葉に、ユリオが苦しげに目を伏せた。
「そんなの……おかしいよ」
その声はかすれていた。まだ熱の抜け切らない喉が震えている。
「……人間じゃなくなっても、僕の中に“気持ち”があるのに。それを捨てろって言うの?」
ルーヴィアは言葉を失う。
「僕はディランや、バルクや、サリウスや……君と、過ごした時間が嬉しかった。楽しかった。君の紅茶が好きだった。夜中に起こしてくれたときも、朝に服を整えてくれたのも、どれも嘘じゃなかった。なのに、全部忘れろって……!」
涙が、ぽろぽろと落ちた。
「それって、僕が僕じゃなくなるってことだよ……!」
その瞬間、ルーヴィアの拘束が震えた。
魔術的に固定されていたはずの鎖が音を立て、軋んだ。
「――ユリオ、感情を抑えろ!」
サリウスが叫ぶ。だがそれは、ユリオを否定する言葉ではなく、彼の体を守るための警告だった。
「ダメです……ユリオ様……っ」
ルーヴィアが呻くように声をあげる。
「わたしがここにいる限り、あなたは“選べない”。だから、忘れてほしいのです。でなければ、またあなたは“神”に戻ってしまう!転生した意味がありません!」
「それでも……僕は君を忘れたくない!」
その瞬間、ユリオの体がわずかに光を放った。淡い金色。神性が表層に滲み出した兆候。
「ディラン!」
サリウスの叫びと同時に、ディランがユリオの隣に駆け寄り、その肩を掴む。
「ユリオ。感情を持っていてもいい。けど、それを制御する方法を、これから一緒に考えよう。ルーヴィアがしたことも、全部……受け止めた上で」
その声に、ユリオの光がふっと消えた。
少年の瞳に再び、現実が戻ってくる。
ルーヴィアは静かに目を閉じた。
それが、彼女の敗北のようにも、救いのようにも見えた。
「……ならば、もう止めません。あなた方の選んだ道を、見届けることすら、わたしには贅沢すぎる罰です」
ディランが腕を組みながら静かに問う。
「ルーヴィア。お前自身はどうしたい?」
彼女は小さく笑った。
「わたしの願いはただ一つ……ユリオ様が、この世界で“人として”生きられる未来が訪れること。それが叶うなら、わたしの存在は不要です」
「それが“本心”なら……お前は今、俺たちの“敵”じゃない」
その言葉に、ルーヴィアはゆっくり目を見開いた。
「ディラン、あなたは……」
「ユリオが望んでる。俺もそう思う。もう誰も、勝手に切り捨てられるべきじゃない」
「そう、ですね……」
ルーヴィアの瞳が、わずかに潤む。けれど、泣かなかった。ただ、長く胸の奥に秘めていた何かが、音もなく崩れ落ちていく気がした。
そのとき、屋敷の外から叫び声が響いた。
重たい鉄が砕ける音。魔術の爆ぜる音。火花のような斬撃。
「――バルクだな。時間は稼いでくれているようだ」
サリウスが呟き、立ち上がる。
「なら、俺たちは早くここを出よう。評議会はまだ諦めちゃいない」
ディランも続いた。
「ルーヴィア、お前も来い」
「……いいのですか?」
「決めるのは俺じゃない。ユリオがどうしたいか、だ」
皆の視線がユリオに集まった。
少年は一瞬だけ迷ったような顔をして、けれど、真っ直ぐに言った。
「行こう。一緒に」
それだけで、すべてが決まった。
* * *
火花が舞った。敵兵の盾が弾け飛び、甲冑の上からも骨ごと断ち割る重斧が地に刺さる。
「貴様ら……ユリオに手ぇ出そうってんなら!」
咆哮。バルクの怒声が空気を裂く。
その両腕には赤黒い魔力の稲妻が走り、巨大な斧はほとばしる熱気と共に唸りを上げた。
「《焔牙連斬》――!」
炎の奔流が地を這い、敵の布陣を丸ごと焼き払った。悲鳴が木霊する。
評議会が派遣したのは精鋭だった。だが、それでもバルクを止められない。
斧が、体が、空気ごと敵を斬り伏せていく。
「足止めくらいにはなるだろ……早く行け、ディラン、サリウス!」
その言葉通り、彼は一人で屋敷周辺の兵を“足止め”しきった。
地が割れ、鉄が砕け、戦場の中心に嵐のような存在が立っていた。
* * *
夜の闇が、彼らを隠した。
ユリオを抱えたディランと、後方を警戒するサリウス、そして鎖を断たれたルーヴィアの姿が小さく跳ねて森を抜けていく。
「クィライスの予定は変更です」
ルーヴィアが低く言う。
「モネッサ様とは連絡を取っておりませんでしたが、あの方は必ず動くはず。クィライスで落ち合うつもりだったでしょう。――ですが、罠になりかねません」
「だな。あいつを巻き込む気はねぇ」
ディランが唸り、サリウスが口を挟む。
「……なら、次の街はマルダナ。地下通路が多く、隠れ家に向いてる。ユリオを休ませるには充分だ」
「モネッサへの目印はどうする?」
「用意するさ」
翌朝、サリウスは街の入り口の石畳に特殊な陣を描いた。
それは“特定の魔力波”にのみ反応する探知陣。
「これでモネッサが来ればわかる。俺たちがここにいるって伝えられる。下手に発信すれば追手を呼ぶだけだからな」
* * *
その報せが届いたのは、評議会の塔。
硬質な沈黙の中で、一人の男が立ち上がる。
「ルーヴィア・エストレリア。任務失敗、並びに逃走……」
報告書を握る指がわずかに動いた。
男の名はロイ・アミテイジ。かつて“帝国六人の契約者”と呼ばれた男の一人。契約名は――《言葉を閉じる者》。
くすんだ茶色の髪に短く整えられた髭。
壮年ながら鍛え抜かれた体躯と、目の奥に宿るのは“静かな冷気”。
「……では、俺が行こう」
「お待ちを、ロイ殿。すでに契約は切れておられるのでは?」
他の評議会員が静止の声を上げる。だが、男は肩をすくめるだけだった。
「契約が切れたからこそ、動ける範囲が広い。誰かが“声”を止めねばならん」
評議会員が渋々頷いた。
「敵は、神の転生体。失敗は許されません」
「わかっているさ」
ロイは腰に佩いた剣の柄に手を添える。その刃は“声”を封じ、“意志”を断ち、“命”を等しく奪う。
「感情を抱く神など、ただの欠陥だ。正すのが俺の役目だろう?」




