灰と静寂の街
レグリスの街の石畳は、踏みしめるたびに音を立てて崩れていく。
草一本すら育たぬ土地に、かつて王都と呼ばれた栄光の面影はない。廃墟と化した街には獣も寄りつかず、灰の匂いと沈黙だけが支配していた。
「……本当に、ここで“あれ”が目覚めるのか?」
バルクの低い声が響く。長く伸びた髪の隙間から、鋭い黄金の瞳が少年を見ていた。
「そう書かれていた。〈終焉の書〉に」
サリウスは淡々と答え、風に翻る長衣を抑えながら足を止めた。足元には、封印術式の痕跡がうっすらと残る石板が埋まっている。
ユリオは三人の男たちの後ろで、じっとしていた。彼の小さな手は、服の裾をぎゅっと握りしめている。怯えているというよりも――耐えているように見えた。
「……ユリオ」
ディランがしゃがみこみ、目線を合わせる。
「大丈夫だ。おまえが望んでここへ来たんだろう?」
少年はこくりと頷いた。
「じゃあ……もう後戻りはできない。俺たちもな」
そのとき、大地がわずかに震えた。遠くから、風とは異なる音――何かが這いずるような、ぬるりとした気配が近づいてくる。
「来たか……」
サリウスが低く呟いた。
「この地に封じられていた“始祖の一片”
――あれが、目を覚ます」
バルクが剣の柄に手をかけ、ディランは少年を後ろに庇った。
「さあ、見せてもらおうか。神に見捨てられたこの世界を、おまえがどう変えるのかを――ユリオ」
石畳の下から、黒い霧が立ち昇った。空気が重くなる。音も光も、まるで世界そのものが沈んでいくような感覚。
やがて霧の中から、何かが姿を現した。
それは人の形をしていた――だが、顔も手も、輪郭すらあやふやで、まるで影が自らの意志で形を取ったかのようだった。
「“始祖の一片”…まさか、まだ動けるだけの核を残していたとはな」
サリウスがわずかに眉をひそめる。
「……喰ラウ」
影が音を発した。音と呼べるものではなかったが、確かに耳に届いた。
バルクが真っ先に動いた。地を蹴り、瞬時に間合いを詰めると、背中の大剣を下から叩き上げるように振るう。刃が影の身体を貫いた――はずだった。
「効かねぇ……!」
影は霧のように割れて、すぐに再構築される。バルクが飛び退き、ディランが入れ替わるように前に出た。精緻な魔法刻印が施された長剣が、白銀の光を放つ。
「斬れるか試してみるさ」
一閃。
光の軌跡が影を裂く。今度は確かに、内部の“核”らしきものが露わになった。
「今だ、サリウス!」
ディランの叫びに応え、魔術師が杖を掲げる。紫紺の魔法陣が空中にいくつも展開され、雷撃が矢のように放たれた。
直撃。影は悶えるように揺れ、再び形を崩した。
「……これで終わりか?」
そのときだった。崩れかけた影が、音もなくユリオの方へと“にじむ”ように動いた。
「ッ、下がれユリオ!」
ディランが叫んだ。しかし少年は――動かなかった。
彼の瞳は、じっと影を見つめていた。恐怖の色はなかった。ただ、なにかを“思い出す”ような、そんな深い眼差しだった。
「……僕は、知ってる」
ユリオが呟いた瞬間、空気が反転した。周囲の魔素が逆巻き、灰が逆流するように宙を舞う。
「これは……っ、魔力じゃない……!?」
サリウスが目を見開いた。
ユリオの身体から放たれたのは、魔術とも呪術とも異なる、原初の“律”――この世界を形づくる力そのものだった。
影が悲鳴のような音を立てて、崩れていく。
「帰って……眠って……」
少年の声が、世界に染み渡るように響いた。
影はそのまま、ゆっくりと風に溶けていくように消えていった。
静寂。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「……ユリオ」
ディランがやっとのことで口を開く。「今のは……」
「わからない。でも、知ってる気がするんだ。あれは……僕の“中”の何かと、同じだった」
バルクとサリウスが視線を交わす。
この少年は、ただの器ではない。
彼自身が、何か“起源”に関わる存在なのだ――。
廃墟の中心に、静けさが戻った。
燃え尽きた魔法陣の残滓が宙を漂い、焦げた石の匂いが空気に混じっている。ユリオは疲れた様子も見せず、ただ一点を見つめていた。
ディランがゆっくりと彼の肩に手を置いた。
「無事で……よかった」
「……うん」
「でも、今のお前……あれは一体なんだ? あんな力、俺たちの誰も見たことがない」
ユリオは言葉を探すように黙り込む。そしてぽつりと呟いた。
「……“律”って、知ってる?」
バルクが眉をひそめる。
「精霊術の一種か?」
「違う」サリウスが首を振る。「“律”は世界そのものの“法”だ。神が作った“最初の言葉”。だが、今は誰もそれに触れられないはず……」
「僕、夢の中でそれを“聞いた”んだ。何度も。壊れた塔の中で、誰かが歌ってる声を」
サリウスがユリオを見つめる目に、明らかな緊張が走る。
「――やはり、この子は〈始原の契り〉に触れている」
「何の話だ」バルクが低く問う。「お前は何を知ってる、魔術師」
サリウスは沈黙を数秒間抱えた後、言った。
「……千年前、神々がこの地を離れる直前に遺した“契約”がある。それは“希望”ではなく、“制御”のためのものだった。もし世界が崩れすぎたとき、それを“閉じる”鍵として選ばれる器が現れる。――この子が、その器だ」
ディランが息を呑んだ。
「それじゃあ、ユリオが“世界の終わり”の引き金だと……?」
「そうとも、そうでないとも言える。だが一つ確かなのは、この子はもう、ただの子供ではいられないということだ」
沈黙が降りる。
やがてバルクが背を向け、灰の積もった柱にもたれかかるようにして言った。
「ならどうする? このまま連れて行くか。契約の器を抱えて、命を狙われる旅を?」
ディランは答えず、ユリオの頭を軽く撫でた。
「決まってる。……この子を守る。それが俺たちの旅の始まりだったはずだ」
サリウスが目を細める。
「……理想だけで護れるなら、世界は今も輝いていただろうな」
「理想も捨てたら、何も残らない。そうだろう?」
少年の手が、ディランの袖をそっと掴んだ。
「ありがとう。……僕、もう逃げない」