第92話 アリシアの来訪と思わぬ祝杯
温泉の効能か、翌朝の悠真の体は驚くほど軽かった。温泉の力で、前日の疲れはすっかり洗い流されていた。深呼吸をしながら窓を開けると、爽やかな朝の空気が部屋に流れ込んできた。
「今日も良い天気だな」
悠真がつぶやくと、足元でルナが「ニャー」と鳴いて、伸びをした。
階下からは、料理の良い匂いが漂ってくる。朝食の準備をしているのだろう。
「ふぅ、ちょっと顔を洗ってくるか」
――――――
食堂に降りると、リーフィアが朝食の準備をしていた。テーブルの上には、焼きたてのパンとフルーツ、そして月影村から持ち帰った特産品のハーブティーが並んでいる。
「おはようございます、悠真さん」
リーフィアが微笑みながら振り向いた。銀色の髪が朝日に輝いている。
「おはよう。今日も美味しそうだな」
「ありがとうございます。昨夜の温泉のおかげで、とても良く眠れました」
悠真が席に着くと、リオンも元気よく階段を駆け下りてきた。
「おはようございます!今日も気持ちいい朝ですね!」
「おはよう、リオン」
三人揃ったところで朝食を取り始める。
「そういえば、今日はアリシア様が来られるんでしたね」
「ああ、そうだったな」
リーフィアがそう言うと、悠真は思い出したように答えた。
「え!?アリシア様が来るんですか?」
そのことを聞いていなかったリオンが目を丸くする。
「ああ、先日連絡があってな。エイドさんの研究報告を聞きに来るらしい。それと……牧場の様子も見たいって」
「それでは、おもてなしの準備をしておかないと……」
リーフィアが少し緊張気味にそう言った。だが、悠真は首を振った。
「いや、普段通りでいいんじゃないか?アリシア様も牧場に来るときはあまり堅苦しい雰囲気にはしたくなかったみたいだし」
「確かに、そうかもしれませんね。では、お茶会の用意くらいにしておきましょうか」
リーフィアの提案に、悠真も頷いた。
――――――
正午過ぎ、牧場の門前に小さな馬車が止まった。装飾は施されているものの、王族の馬車としては控えめなデザインだ。馬車から降りたのは、淡い金色の髪を持つ若い女性と、その付き添いの騎士が二人。
「白石さん、お久しぶりです」
アリシアが微笑みながら歩み寄ってきた。
「アリシア様、ようこそ」
悠真が迎えに出ると、背後からリーフィアとリオンも慌てて出てきた。二人は僅かに緊張した面持ちで深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました、アリシア様」
「頭を上げてください。ここにはただの一研究者として来ているんですから。それに、そろそろ敬称も不要ではないでしょうか?ここは王宮ではありませんし……」
彼女の言葉に、悠真たちは少し驚いた表情を見せる。だが、彼女自身がそういうのなら構わないだろうと悠真は頷いた。
「そうか……じゃあ、アリシアでいいか?」
「はい、そのほうが気楽です」
アリシアの顔がパッと明るくなった。急に呼び捨てになった悠真をリーフィアとリオンの二人が驚いた表情で見つめる。王族を呼び捨てにするなど、本人の意向とはいえこの世界の人間にはなかなかできることではなかった。
「えっと……では、私はアリシアさんで」
「ぼ、僕もアリシアさん、今日もよろしくお願いします」
「えぇ、こちらこそ二人ともよろしくお願いしますね」
アリシアは柔らかな笑顔で二人を見た。その姿は高貴さを感じさせながらも、どこか親しみやすい雰囲気を漂わせていた。
――――――
家の中に入ると、悠真たちはアリシアをリビングへと案内した。リーフィアが急いでお茶の準備を始める。
「牧場の様子が前回よりもさらに賑やかになっていますね」
アリシアが窓の外に広がる牧場を見渡しながら言った。確かに、前回の訪問時よりも動物たちの数が増えている。
「ああ、最近は珍しい来客も増えてな」
悠真が答えると、アリシアは首を傾げた。
「来客……というと?」
その問いに答えるかのように、窓の外から子供のような声が聞こえた。
「おーはよー!」
青い髪と透明な羽を持つ小さな存在が、窓の外から顔をのぞかせる。アリシアは思わず目を見開いた。
「えっ、妖精……!?」
「あぁ、ノアリスだ。魔獣に追われてたのを助けた縁で、最近牧場に住み着いたんだ」
悠真が紹介すると、妖精の少女は得意げに空中で回転した。
「わたし、ノアリス!あなたは?」
「わ、私はアリシア・バストリアと申します」
アリシアが驚きながらも応答すると、ノアリスは喜んでさらに回転する。
「バストリアって、もしかしてこの国のお姫様!?すごーい!」
ノアリスが窓辺で空中回転を続ける様子に、アリシアは子供のような無邪気な笑顔を向けた。
「こんな近くで妖精を見るのは初めてです。王宮の文書には記録があるのですが……」
「やっぱりこの世界でも妖精は珍しい存在なんだな」
悠真が納得していると、リーフィアがお茶を運んできた。
「お茶が入りました。どうぞ」
リーフィアがハーブティーを配り、全員でテーブルを囲んだ。窓枠に腰かけたノアリスはまだ興味津々でアリシアのことを見ている。
「そういえば悠真さん、エイドさんから聞いたのですが、悠真さんも神殿の発掘作業を時々手伝っているんですよね?」
アリシアがそう話題を変えた。
「ああ。と言っても、俺はおまけみたいなもので、主に役に立っているのはテラのほうだけどな。あとでそっちの方も見に行ってみるか?」
悠真の提案に、アリシアは頷いた。
「えぇ。そちらも見てみたかったので、是非お願いします」
――――――
お茶を楽しんだ後、悠真たちはアリシアを牧場内の見学に案内することにした。いつもの見学路を通り、一行が牧場の泉の方へ足を進めると、水面から突然、水色の長い髪を持つ少女が顔を出した。
「あら、お客様?」
透き通るような声でセリーナが言った。彼女の腰から下は淡く輝く魚のような尾びれになっている。アリシアは立ち止まり、言葉を失った。
「えっ!人魚……?」
「こんにちは。私はセリーナといいます」
セリーナは水面から少し上半身を出し、優雅に挨拶した。その姿は太陽の光を受けて、虹色に輝いていた。
「こ、こんにちは。私はアリシアと申します」
「セリーナもこの牧場を気に入ってくれたみたいで、時々訪れるんだ。水場間を移動できる不思議な能力を持ってる」
「なるほど……。確かに地上を移動するのは難しいですものね」
セリーナとしばらく会話を楽しんだ後、一行は牧場の奥へと進んだ。そこではハクエンが木陰で休んでいた。
「あいつはハクエンだ。久遠虎という種族らしい」
白い毛並みに青い炎のような模様が浮かぶ巨大な虎は、悠真たちが近づくとゆっくりと目を開けた。
「ハクエン、こちらはアリシア、特別な客人だ、よろしく頼む」
悠真が話しかけると、ハクエンは低い声で『あぁ』とだけ答え、尻尾を揺らした。
「久遠虎という種族も初めて聞きました。やはり悠真さんの牧場は不思議な方が集まってくるのですね」
「ははっ、それは否定はできそうにないな……」
悠真はそう言って、困ったように苦笑いを浮かべた。
その時、ハクエンの肩に小さな赤い鳥が舞い降りた。火のような羽毛を持つヒエンが「フィー」と高らかに鳴いた。
「あの赤い鳥は……もしかして、エイドさんが言っていた神殿の地下から見つかったという?」
「あぁ、そうだ。ヒエンって名付けた」
悠真がそう言うと、ヒエンは嬉しそうに両翼を広げた。その動きに合わせて、羽から小さな火花が散った。
「美しいですね……」
アリシアは静かにそう呟いた。
――――――
牧場を一通り見学した後、リーフィアがお茶会の準備を整えた。牧場の庭に白いテーブルクロスを敷いたテーブルと椅子が置かれ、アフタヌーンティーのセットが美しく並べられている。
「私の為にこんな用意まで。ありがとうございます」
アリシアが嬉しそうにそう言った。リーフィアの手作りのスコーン、サンドイッチ、そして月影村から持ち帰った銀色の実を使ったケーキが並ぶ。
「ささやかですが、どうぞお楽しみください」
リーフィアが丁寧に言った。悠真、リオン、アリシア、そしてリーフィアの四人がテーブルを囲む。
「こういう時間は王宮ではなかなか持てなくて、とても嬉しいです」
アリシアはそう言ってハーブティーを一口飲んだ。
「王女様のお仕事も大変そうですね」
リオンが無邪気に言うと、アリシアは少し笑った。
「そうですね。でも、この牧場を訪れると元気が出ます」
会話が弾む中、悠真はふとした思いつきで立ち上がった。
「そういえば、いいものがあるんだ」
「いいもの?何でしょうか?」
アリシアが首を傾げる。悠真は家の中に入り、少し経ってから小さな木箱を持って戻ってきた。
「シーブリーズから届いた特産品だ。ちょっと珍しいから試してみないか?」
箱を開けると、中には小さな青い瓶が入っていた。ラベルには「海の恵み 幻想酒」と書かれている。
「特産酒ですか。聞いたことはありますが、実際に味わったことはありません」
「じゃあ、ちょっとだけ試してみるか?」
悠真が小さなグラスに少量を注いだ。透明な液体が青く輝いている。
「わたしも少しだけ頂けますか?」
リーフィアも興味を示した。
「僕も!僕も!」
リオンが手を挙げたが、悠真は首を振った。
「リオンはまだ早いだろ」
「えー」
リオンが不満そうな顔をするが、悠真は断固として小さなグラスを三つだけ用意した。
「それじゃ、乾杯!」
三人が小さなグラスを合わせ、一口ずつ飲む。
「これは……不思議な味わいですね。少し甘くて、でも爽やか」
リーフィアが感想を述べる。アリシアもゆっくりと味わっていた。
「確かに……でも、とても美味しいです!それに……」
そこで、アリシアの言葉が急に止まった。その顔がみるみる赤くなっていく。
「アリシアさん?」
リーフィアが心配そうに声をかけると、アリシアはふらりと立ち上がった。
「だ、大丈夫です……ただ、少し……」
そのまま少しの間沈黙したかと思うと、突然アリシアは笑い始めた。明るく、心から楽しんでいるような笑い声だった。
「ふふふっ!なんだか、とても幸せな気分です!」
その様子に、悠真たちは驚いた顔を見合わせる。
「もしかして、このお酒、強いんじゃないですか……?」
リオンが恐る恐る言うと、リーフィアは瓶のラベルをよく見た。
「あの……これ、祝宴用の特別なお酒みたいです……」
「え!?」
リーフィアの言葉に、気づいていなかった悠真とリオンは慌てた。しかし、アリシアは全く気にしていない様子で、むしろ楽しそうに笑っていた。
「皆さん、緊張しないでください!私、たまには肩の力を抜くのも大切だと思うんです!」
彼女は踊るように庭を歩き回り始めた。それに気づいた付き添いの騎士たちが心配そうに近づいてくる。
「アリシア様、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ!皆さんも楽しんでください!」
アリシアは気前よく手を振った。悠真たちは焦りながらも、事態を収拾しようと試みる。
「あの、アリシアさん、少し休んだ方が良いかと……」
リーフィアがやんわりと提案すると、アリシアは彼女の両手を取って、くるりと回った。
「リーフィアさん、あなたの髪、とても綺麗ですね!まるで月の光のようです!」
「あ、ありがとうございます……」
戸惑うリーフィアをよそに、アリシアはさらに牧場の中を歩き始めた。彼女が近づくと、動物たちも不思議そうに彼女を見つめる。特にルナは好奇心いっぱいの様子で、アリシアの足元にすり寄った。
「あら、ルナさん!あなたも楽しんでいますか?」
アリシアが屈んでルナを抱き上げようとした瞬間、バランスを崩してしまった。
「ちょっ!」
悠真が素早く駆け寄り、彼女を支えた。
「大丈夫ですか?」
「はい……ありがとう、白石さん……」
アリシアの顔がさらに赤くなる。彼女はふらつきながらも、悠真をじっと見つめた。
「白石さんは……本当に不思議な方ですね。別の世界から来たのに、この世界の動物たちをこんなに幸せにして……」
彼女の言葉は少しもつれていたが、真剣さが伝わってきた。
「いや、俺は単に……」
悠真が言いかけると、アリシアはふと気が付いたように牧場を見回した。
「この牧場……本当に素晴らしい……王国の宝物です……」
そう言うと、彼女はゆっくりと地面に座り込んでしまった。
「アリシア様!」
付き添いの騎士たちが駆け寄る。しかし、アリシアは安心したような笑顔を見せた。
「大丈夫……少し休みたいだけです……」
悠真たちは心配しながらも、彼女を休ませるために家の中へと案内した。
――――――
数時間後、アリシアはすっかり落ち着いた様子で、リビングのソファに座っていた。目の前には、リーフィアが用意した解毒作用のあるハーブティーが置かれている。
「本当に申し訳ありません……」
アリシアは恥ずかしそうに言った。頬はまだ少し赤いが、意識は完全に戻っていた。
「いえ、私たちこそお酒の強さを確認せずに出してしまって……」
リーフィアが深く頭を下げた。
「気にしないで下さい。むしろ楽しい思い出になりました。ただ王族としての品格を欠いてしまい、皆さんをがっかりさせていないかだけが心配ですが……」
「そんなことはないよ。むしろ、皆に親しみを持ってもらえたと思う。知っているのも俺達だけだしな」
アリシアは安心したように頷いた。外はすっかり夕暮れになっており、窓から差し込む夕日が部屋を赤く染めていた。
「もうこんな時間でしたか。そろそろ戻らなければなりませんね」
アリシアが窓の外を見ながら言った。夕焼けの赤い光が牧場全体を包み始めている。そんな中、リビングの階段から小さな物音が聞こえた。
「あ……」
細い声と共に、赤い瞳と長い黒髪の少女が恐る恐る顔を覗かせた。ユエだ。
「おはよう、ユエ。起きてきたのか」
悠真が優しく声をかけると、彼女はゆっくりと頷いた。
「はい……もう夕方ですから……」
ユエは部屋の隅から恐る恐る出てきた。アリシアの姿に気づくと、驚いたように立ち止まる。
「あ……お、お客様でしたか。失礼します……」
慌てて引き返そうとするユエに、アリシアは優しく微笑んだ。
「こんにちは。私はアリシアといいます。あなたは……?」
言葉を選ぶように一瞬躊躇したアリシア。その様子に気づいたユエは小さく笑った。
「こ、こんにちは。ユエ・ルシェイドと申します……」
「初めまして、ユエさん。素敵なお名前ですね」
アリシアの優しい言葉に、ユエは少し緊張が解けたように見えた。
「ありがとうございます……」
「ユエは夜行性なんだ。だから、日中は自室で休んでいることが多くてな」
悠真の説明にユエは恥ずかしそうに頷いた。
「そうなんです……みなさんと違う生活リズムで、申し訳ないのですが……」
「そんなことはありません。皆さんそれぞれに事情はあるのですから」
アリシアは真摯に言った。その言葉にユエの顔が少し明るくなる。
「それでは最後に少し、お茶でもいかがですか?」
リーフィアが新しくお湯を沸かして、ハーブティーを入れ始めた。ユエも少しずつ会話に加わり、静かな時間が流れた。
――――――
夕暮れが牧場を染め上げる頃、アリシアの帰り支度が整った。
「今日は本当に楽しい一日でした」
アリシアが心から満足した様子で言った。
「良かったら、また来てくれ」
「えぇ、もちろん。また伺わせて頂きます」
アリシアが馬車に乗り、最後に手を振った。
夕闇の中、アリシアの白馬は牧場の門を出ていった。ノアリスが空中を舞いながら、「またねー!」と元気よく手を振る。ユエも家の前で小さく手を振っていた。
馬の姿が見えなくなった後、悠真たちは家に戻った。リーフィアが夕食の準備を始め、ユエが手伝っている。
「良い人ですね、アリシアさんは」
「ああ、王女なのに俺達にもあんな風に気楽に接してくれるしな」
悠真もそう答えながら、窓から夜の牧場を見渡した。様々な種族の生き物たちが、共に穏やかに過ごす光景は、まるで絵本の一場面のようだった。
「それにしても、今日はお酒のせいで大変でしたね」
リーフィアが少し恥ずかしそうに言った。
「まぁ結果的には悪くない失敗だったんじゃないか?でも、今度からは気を付けないとな」
悠真はそう言って微笑んだ。失敗を通して、お互いの距離がさらに縮まったように感じたからだ。
「そうかもしれませんね。さて、今夜は何がいいですか?」
「そうだな……今日は魚料理がいいな」
そんな会話をしながら、家族のような温かさが広がっていく。夜空には満月がゆっくりと昇り始め、その月明かりは、牧場をやさしく照らしていた。




