第89話 月下の客人
その日、悠真はいつもと変わらない牧場での一日を終え、自室のベッドで眠りについていた。しかし、彼には珍しいことに何かの違和感と寝苦しさで夜中に目が覚めた。
「ん……?何だ。まだ夜……えっ?」
寝ぼけた悠真の目に奇妙な光景が映った。彼の上に覆いかぶさるようにして一人の少女が顔を近づけていたのだ。窓から差し込む月明かりの中、透き通るような白い肌と、血のように赤い瞳が悠真を見つめていた。
「う、うわぁっ!」
悠真が驚いて後ずさると、少女も同じように「きゃっ!」と驚き声を上げ、バランスを崩してベッドから転がり落ちた。
「いたっ……」
床に尻もちをついた少女の姿を確認し、悠真は慌てて起き上がった。状況がまったく飲み込めず、頭の中が真っ白になりながらも、とりあえず彼女の安否を確認する。
「ご、ごめん。大丈夫か?」
「は、はい……何とか」
少女は恥ずかしそうに顔を赤らめながら、床から立ち上がった。長い黒髪と闇に溶けるような黒いドレス姿が、月明かりに照らされて浮かび上がる。
悠真は頭を振って我に返り、警戒心を取り戻す。
「君は誰だ?というか、どうやって俺の部屋に?」
「あ、あの……」
少女はおどおどとした様子で指先を合わせ、床を見つめながら小さな声で答えた。
「蝙蝠の姿で、窓から……透明なものならすり抜けられるので……」
そう言うと、少女の姿がぼやけ始め、次の瞬間には小さな蝙蝠へと変わる。パタパタと翼を羽ばたかせた後、再び悠真の前で人間の姿に戻った。
「えぇっ!?」
悠真は目の前で起きた変身に再び驚き、思わず後ずさった。少女は相変わらずおどおどした様子で、今度は悠真の目をじっと見つめながら言った。
「それで、あの……少しだけで良いので、血を吸わせて貰えませんか?」
「……血?」
悠真の脳裏に、おとぎ話のような情報が蘇る。蝙蝠に変身する能力、血を求めるその姿——。
「まさか、君は吸血鬼なのか?」
「……はい。あ、あのっ、本来であればこんなことはしないんですけど、今日は運悪く日の光に当たってしまって……本当は、気づかれないように少しだけ吸わせて貰おうとしていたのですが、その……ごめんなさい」
彼女の言葉が途切れる。よく見れば彼女はやや憔悴したような表情を浮かべていた。
「そうなのか……」
悠真は寝起きで働かない頭でなんとか状況を整理しようとした。確かに危険な存在かもしれないが、この少女からは悪意を感じない。むしろ、その困り果てた表情には純粋な窮状が表れていた。
「仕方ないな……」
悠真は大きく息を吐き出すと、若干嫌そうな表情を見せながらも、首を傾げて首筋を見せた。
「最低限にしてくれよ。俺もまだ生きていたいからな」
「ほ、本当ですか!?」
少女の顔が輝き、喜びに満ちた表情に変わる。彼女の目は涙で潤んでいた。
「ありがとうございます!本当に感謝します!」
彼女は嬉しさのあまり、少し飛び跳ねながら悠真に近づいた。
「で、できるだけ痛くないように……」
そう呟きながら、彼女は悠真の首筋に顔を近づけた。温かい吐息が肌を撫で、次の瞬間、鋭い歯が皮膚を貫いた。
「っ……!」
予想よりも痛みは少なかったが、それでも思わず顔をしかめる。奇妙な感覚が体を包み込む。生命力が少しずつ吸い取られていく感覚と、同時に不思議な心地よさが混ざり合っていた。
「……」
時間がゆっくりと流れているように感じる。悠真は天井を見つめながら、この異常事態に困惑していた。すると、次第に視界がぼやけ始め、体が軽くなったような感覚に襲われる。
「お、おい……そろそろ……」
悠真は慌てて彼女の肩を掴み、引き離そうとした。
「……はっ!」
少女は我に返ったように目を見開き、慌てて顔を離した。
「ご、ごめんなさい!あまりにも美味しい血だったのでつい……こんなに魔力が豊富な血は初めてです」
彼女は平謝りしながら、口元の血を拭った。その瞳は以前より明るく輝き、肌にも健康的な色が戻っていた。
「……魔力?……あぁ、もしかしたらこの土地の影響かもしれないな。この辺は特別な土地らしいから」
悠真が少し考えてそう答えていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「悠真さん、何か大きな物音がしましたけど、大丈夫ですか?」
リーフィアの声だった。足音からするとリオンも一緒らしい。
「……仕方ないな」
悠真は少し頭を抱えると、ベッドから立ち上がって扉を開けた。
「夜遅くに悪かった。実は、ちょっとした来客があってな」
「あ、あの……こんばんは」
少女がペコリと頭を下げる。リーフィアとリオンは驚いた表情を浮かべた。
「えっと……彼女は?」
悠真は先ほどまでのことを二人に説明した。
「吸血鬼……存在は知っていましたけれど、見るのは初めてです」
「僕もです。なんだかイメージとだいぶ違いますね……」
リーフィアは冷静に状況を把握し、悠真の首筋を心配そうに見つめた。
「悠真さん、それは大丈夫なんですか?」
「あぁ大丈夫、少し貧血気味になっただけだ。それよりも……」
悠真は振り返り、少女に優しく尋ねた。
「君……そう言えば、名前も聞いてなかったな。俺は白石悠真だ。君は?」
「あ、す、すみません。私。ユエ・ルシェイドって言います」
悠真の問いに少女・ユエは慌てた様子で答えてきた。
「よろしく、ユエ。それで、ユエはどうしてこんなところに?もしかして近くに住んでたりしたのか?」
「いえ……実は私、旅の途中なんです。故郷を出て、自分の居場所を探すために」
ユエは少し悲しそうな表情を浮かべながら、これまでの事情を説明した。
「ですが、吸血鬼は人間に嫌われることも多くて……でも、この牧場は不思議な魔力と温かさを感じたので、弱っていたこともあってつい惹かれてしまったんです」
彼女の話を聞いていたリオンは、少し警戒しながらも同情の表情を浮かべていた。
「それで、これからどうするんですか?」
「あの……良ければ、これからも少しずつで良いので、血を分けて貰えないでしょうか?その代わりに、私にできることなら何でもします!」
ユエは緊張しながらも、期待に満ちた目で悠真を見上げてそう頼んできた。
「え?いや、急にそんなこと言われてもな……」
「そこを何とか!えっと……あっ!私、力仕事とか得意です!」
そう言うと彼女は手近にあった悠真のベッドを軽々と片手で持ち上げてみせた。なかなか異様な光景だが、ユエは必死に自分の価値を訴えていた。
悠真達はその様子に、顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。これだけ懇願してくる少女を無下に追い返すのも気が引ける。
「……まぁ、噛みつく以外の方法で血を取るなら、考えてもいいか」
「本当ですか!?」
ユエは飛び上がらんばかりに喜び、悠真の手を取った。
「約束します!絶対に迷惑をかけません!」
リーフィアは少し不安そうな表情を浮かべながらも、悠真の決断を尊重するように頷いた。
「それなら、空いている部屋を用意しましょう」
「あ、ありがとうございます!」
ユエの顔が喜びで輝いた。彼女の赤い瞳には、感謝と期待が満ちていた。
「じゃぁ、僕が部屋に案内します」
リオンはその自然な態度に少し警戒心を解いたようで、優しく彼女に微笑んだ。
「俺も行くよ。なんだか目も覚めちゃったしな」
そう言って悠真も三人の後に続き、廊下を歩き始めた。月明かりの下で、新たな住人を迎えた牧場の夜は、静かに更けていった。




