第53話 商人の来訪と再交渉
朝の牧場の空気は、いつもより少し弾むような感触があった。悠真が動物たちに餌をやり終えた頃、遠くから急ぎ足の音が聞こえてきた。振り返ると、いつも落ち着き払っているはずのドミニク・バレルが、珍しく息を切らしながら牧場の門をくぐってきた。彼の深緑色のジャケットは少し乱れ、額には薄い汗が浮かんでいる。
「おはようございます、ドミニクさん。どうしたんですか?そんなに慌てて」
悠真が声をかけると、ドミニクは大きく息を整えてから、口髭を撫でながら答えた。
「おはようございます、白石さん!実は大変なことが……いえ、素晴らしいことが起きているんです!」
その声に反応して、リーフィアがハーブを摘んでいた庭から顔を上げた。銀色の髪が朝日に輝いている。
「ドミニクさん、おはようございます」
「ああ、リーフィアさん、おはようございます。あなたも是非聞いてください」
ドミニクの声には、興奮と不思議さが入り混じっていた。悠真は首を傾げ、彼を家の方へと案内した。
「とりあえず、お茶でも飲みながら話しましょうか」
――――――
テーブルには、リーフィアが淹れた爽やかな香りのハーブティーが置かれていた。ドミニクはそれを一口飲んで落ち着きを取り戻すと、ようやく本題に入った。
「実はですね、先日取引した白石牧場の畜産物が、以前より明らかに良質になっているのです。ミルクはより濃厚に、羊毛はより柔らかく……こんなことが突然起こるなんて!理由を聞かせていただきたくて」
悠真とリーフィアは顔を見合わせた。確かに昨日、牧場経営スキルがレベルアップして「畜産物品質向上」という機能が解放されたばかりだった。
「ああ、それなら理由は分かります。昨日、私の牧場経営スキルがレベルアップして、品質向上の機能が解放されたんです」
ドミニクは目を丸くした。琥珀色の瞳に驚きの色が広がる。
「スキル?レベルアップ?まるで冒険者のような話ですね。そんなことが……」
彼は半信半疑といった表情で、しかし畜産物の変化は紛れもない事実だと理解しているようだった。しばらく考え込んだ後、口髭を何度か撫でると、ため息をついた。
「なるほど。これは真似できそうにないですね……」
少し残念そうな表情を浮かべたドミニクだったが、すぐに商人らしい堅実な表情に戻った。
「それでは、白石さん。取引価格の再交渉をさせていただきたいのです」
「え?別に今のままで構いませんよ。特に何かが変わったわけじゃないですし」
悠真が困惑した様子で言うと、ドミニクは真剣な眼差しで首を振った。
「いえいえ、そうはいきません。品質が上がったのなら、それに見合った対価をお支払いするのが、アスターリーズ商会の信念です。公正な取引こそが、我々の信用の基盤ですからね」
悠真が何か言おうとする前に、ドミニクは内ポケットから書類を取り出し、テーブルに広げた。
「こちらが新しい買取価格です。ミルクは2割増し、羊毛は3割増し……全体的に見直しさせていただきました」
リーフィアが資料を覗き込み、小さく息を呑んだ。
「これは……かなりの値上げですね」
「品質に見合った対価です。これでもまだ商会には十分な利益が出る計算ですよ」
悠真はちょっと困ったように頭をかいた。牧場の設備や餌代、作物の種など以外でお金を使う機会がなく、既に貯蓄は順調に増えていたのだ。
「実はそんなに必要ないんですが……」
「白石さん、ビジネスは感情ではなく正当な価値の交換です。今後も長くお付き合いするためにも、この条件を受け入れていただけると幸いです」
ドミニクの真摯な態度に、悠真も折れるしかなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
ドミニクは満足げに頷くと、ふと窓の外に目をやり、不思議そうな表情を浮かべた。
「ところで、お宅は……二階が増えましたね?いつの間に改築を?」
悠真は苦笑いしながら、昨日の出来事を説明した。
「実はそのスキルのレベルアップで、同時に『家屋の二階』という機能も解放されたんです。朝起きたら、勝手に家が二階建てになっていました」
ドミニクの目が再び丸くなる。
「なんと!魔法でもなく、職人の手でもなく、スキル一つで……」
「えぇ。俺たちもビックリしました。開いている部屋は客室にしたので、ドミニクさんも機会があれば泊まっていってください」
「おぉ!それは助かりますな。機会があればぜひ!っと、予定がありますので、今日はこれで失礼します。次回の集荷も楽しみにしていますよ」
悠真は玄関まで彼を見送った。門の前で、ドミニクは再び口髭を撫でながら振り返った。
「白石さん、あなたの牧場はますます興味深くなっていきますね。この先どんな変化が起こるのか、商人として、そして一人の人間として大変楽しみです」
「俺もまだまだ分からないことだらけですよ。楽しみではありますけどね」
悠真はそう答えると、軽く手を振った。ドミニクも帽子に手をやり、アスターリーズへと続く道を歩いていった。その背中が小さくなるまで見送った後、悠真は深呼吸して朝の澄んだ空気を味わった。
「さて、動物たちの様子も見ておかないとな」
――――――
悠真が牧場の奥へと歩き始めると、どこからともなく「ミュウ」という鳴き声が聞こえてきた。振り向くと、テラが頬を膨らませながら悠真を見上げていた。
「テラじゃないか、どうかしたのか?」
テラは宝石のような赤い額の石を輝かせると、ピョンピョンと跳ねながら畑の方へと先導し始めた。悠真はその後を追い、柵の外にある小さな畑に辿り着いた。
「あぁ、ここの土が乾いてきてたのか。教えてくれてありがとな」
悠真が気づくと、テラは満足げに「ミュウミュウ」と鳴いた。そのとき、頭上から風を切る音がして、ペガサスのウィンドが舞い降りてきた。
「お帰り、ウィンド。今日も飛行を楽しんできたのか?」
ウィンドは優雅に首を振り、悠真の肩を軽く突いた。その仕草には親愛の情がこもっている。
「悠真さん、食事の準備ができましたよ」
リーフィアの声に振り返ると、彼女が温かな笑顔で立っていた。外では動物たちが寄り添い、穏やかな夕暮れを楽しんでいる。
「ありがとう。いま行くよ」
彼は心地よい満足感とともに、家族のもとへと歩み寄った。




