第131話 夜の散歩に響く水音
夜の帳が降りた牧場の外れ。薄い月明かりが小川の水面を銀色に染めていた。ユエは一人、静かな足取りで川沿いの小道を歩いていた。
「牧場の雰囲気は好きだけど、やっぱりこうして一人で歩くのも悪くないかな……」
ユエは小さく呟いた。昼間は他の者たちが活発に動き回る牧場だが、夜になれば彼女の時間だ。静けさの中で自分の思考と向き合える大切なひと時。
川のせせらぎが心地よく耳に届く。ユエは目を閉じ、その音に耳を傾けた。しかし、やがて彼女の眉が少しだけ寄った。川の音に混じって、別の音が聞こえてくる。かすかな水音。それも、徐々に近づいてくるようだ。
「誰……?」
ユエは不安げに振り向いた。そこには、過去に一度見たことのある不思議な生き物がいた。大きなオタマジャクシのようにも、小さな鯨のようにも見える黒い生物。体長は50センチほどで、つるりとした体表は月明かりを反射して美しく輝いている。
「セセラギノコ……」
ユエはその名を口にした。遥か昔、彼女がまだ若かった頃に見たことがある生き物だ。水の精霊に祝福された珍しい生き物で、水面の上を跳ねながら移動する習性を持っていた。
セセラギノコは水面の上でぴょんと跳ねた。途端に、涼やかな水音が空気を震わせる。まるで水滴が水面に落ちた時の音が、幾重にも重なったような澄んだ音色だった。
「こんばんは」
ユエは小さく頭を下げて挨拶した。セセラギノコは彼女の声を聞くと、嬉しそうに再びぴょんぴょんと跳ねた。跳ねるたびに、美しい音が空気中に広がる。まるで夜の静けさに溶け込むような、心地よい音楽だった。
「この辺りにいたのね。前に見たのは何百年も前だったから、もう絶滅したのかと思っていたわ」
ユエが再び歩き出すと、セセラギノコも水面を跳ねながら彼女の後を追ってきた。ユエは時々振り返りながら、黒い生き物に話しかける。
「こんな夜遅くに一人で大丈夫なの?この辺りには危険な生き物もいるのよ」
セセラギノコはそんなことはお構いなしといった様子で、楽しげに音を奏でながらユエの後を追う。その姿を見ていると、どこか愛らしく感じられた。千年の時を生きてきたユエでさえ、その無邪気さに心が和らぐ。
「……あっ」
そうして歩いているうちに、牧場が見えてきた。ユエは足を止め、困ったようにセセラギノコを見つめる。セセラギノコも彼女の傍で止まり、首をかしげるように彼女を見上げた。
「このまま牧場まで付いてくるつもりでしょうか?そうなると、みんなに迷惑を掛けてしまうかもしれません……」
ユエの言葉に、セセラギノコは小さな水たまりの上でぴょんぴょんと跳ね、美しい音色を奏でた。その仕草があまりにも無邪気で楽しそうで、ユエは無理に引き離す気にはなれなかった。
「う~ん。仕方ありません……でも、静かにしてくださいね?みんな眠っているから」
ユエは諦めたように牧場へと足を進めた。セセラギノコも彼女の後を追ってくる。
――――――
牧場の家のリビングに入ると、ユエはセセラギノコに向かって人差し指を立てた。
「しー!静かにしてくださいね」
セセラギノコはその言葉を理解したかのように、大人しくなった。ユエはリビングの椅子に腰かけ、どうすべきか考え込む。セセラギノコはリビングの床に置かれた大きな鉢植えの横に移動し、そこで丸くなった。
「結局連れてきちゃいましたけれど、どうしましょうか……」
ユエが考え込んでいると、階段を下りてくる足音が聞こえた。振り返ると、リーフィアが優雅な足取りで近づいてきた。
「あら、ユエさん。おはようございます」
リーフィアの銀色の髪が、朝の薄明かりで輝いている。時計を見ると、気づかないうちに夜が明けかけていた。
「リーフィアさん、おはようございます」
ユエは立ち上がり、小さく頭を下げる。リーフィアがユエの後ろにいるセセラギノコに気づき、碧色の瞳を少し見開いた。
「あら、その子は……?」
「あの……実は……」
ユエはリーフィアに事情を説明した。川辺で出会ったセセラギノコのこと、後を付いてきて無理に引き離すこともできず、牧場まで連れてきてしまったこと。
リーフィアは優しく微笑むと、ユエの肩に手を置いた。
「心配しなくても大丈夫ですよ。迷惑になるなんてことはありませんから」
リーフィアの言葉に、ユエの表情が和らいだ。
「でも、悠真さんたちが起きてきたら……」
「あとのことは私に任せてください。もう夜が明けますし、ユエさんはお部屋でゆっくりお休みになって」
リーフィアの言葉に、ユエはほっとした表情を浮かべた。
「あ、ありがとうございます。では、お願いします」
ユエはセセラギノコに小さく手を振ると、自分の部屋へと向かった。セセラギノコは彼女を追いかけることはせず、リーフィアに興味を持った様子で近づき、小さくぴょんと跳ねた。その動きに合わせて、かすかな水音が響く。
リーフィアは丁寧に会釈し、セセラギノコに挨拶を返した。
「はじめまして。私はリーフィアと申します」
そして人差し指を立て、「しー」と静かに告げた。
「もう少しの間、静かにしていただけますか?皆さん、まだお休みですので」
セセラギノコは理解したかのように、再び鉢植えの横で丸くなった。リーフィアはそんなセセラギノコに微笑みかけ、朝食の準備を始めた。
――――――
「おはよう」
玄関から作業着姿の悠真が入ってきた。早めに起きて牧場の見回りを終えたところのようだ。彼の後ろからは、リオンも元気な足取りでついてくる。
「おはようございます、悠真さん、リオン」
リーフィアは二人を迎え、彼らに朝のセセラギノコとの出来事を説明した。
悠真と少年は驚いた様子でセセラギノコを見つめる。生き物はリーフィアの傍らで丸まったまま、悠真たちを観察していた。
「へえ、セセラギノコっていうのか」
悠真は興味深そうにしゃがみ込んで、セセラギノコを観察した。生き物は警戒することなく、むしろ好奇心を持って悠真を見返している。
「跳ねると音がするんですか?」
リオンは目を輝かせながら尋ねた。
「ええ、とても美しい音色なんですよ」
リーフィアの言葉に、セセラギノコはぴょんと一度跳ねた。途端に澄んだ水音が空間に広がる。
悠真はその見た目から「なんだか、音符みたいだな」と独り言を漏らした。
「それでは朝食にしましょう。もう用意はできていますから」
リーフィアの提案に全員が頷いた。
――――――
朝の牧場の作業が始まると、セセラギノコも彼らの後について回った。牧場の動物たちは新しい仲間に興味津々で、特にアクアとテラは好奇心いっぱいの表情でセセラギノコを観察していた。
「チチチ!」
水晶リスのアクアが前足を振りながら挨拶すると、セセラギノコもぴょんと跳ねて応える。水という共通点からか、二人には何か通じ合うものがあるようだった。
牧場内を回っている途中でリンカーと出会うと、セセラギノコはリンカーの歩みに合わせて鳴る澄んだ音色に心惹かれたように近づいていった。
「あ、リンカーに反応してる」
リオンが指差す先で、セセラギノコはリンカーの周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた。その度に響く水音は、リンカーの鈴の音色と不思議なハーモニーを奏でる。
リンカーも好奇心に導かれるように、セセラギノコの方へ歩み寄った。二匹が近づくと、リンカーの鈴の音とセセラギノコの水音が重なり、牧場の朝に美しい音楽が広がった。
「綺麗な音ですね……」
リーフィアが穏やかな表情で二匹の音のダンスを見つめる。悠真とリオンも作業の手を止め、その光景に見入っていた。
――――――
夕暮れが近づくころ、牧場の西の窓から差し込む夕日に照らされて、階段を下りてくる足音が聞こえた。
「みなさん、おはようございます」
ユエが静かな声で挨拶した。彼女が姿を現すと、床で寝ていたセセラギノコが目を覚まし、ぴょんぴょんと跳ねながらユエのもとへ駆け寄った。
「あなた、まだ帰ってなかったのね」
ユエは少し驚いたような、けれど嬉しそうな表情でセセラギノコを見つめた。セセラギノコは彼女の足元で嬉しそうに跳ね、部屋中に水音のメロディーが響く。
「今日は一日一緒に居たけど、帰る様子はなさそうだな」
悠真がテーブルに夕食を並べながら言った。
「もしかしたら、ユエさんに懐いたのかも」
リオンが明るい声で言う。
「そうかもしれませんね。セセラギノコはユエさんを気に入ったようです」
リーフィアも同意した。
「そ、そうなんでしょうか……」
ユエは少し困ったように首を傾げた。長い年月を生きてきた彼女だが、生き物に好かれるという経験はあまりなかった。
「せっかくだし、ユエさんが名前をつけてあげたらどうかしら?」
「そうだな。連れてきて一番懐いているのはユエだし、それが良いと思う」
悠真の言葉に、ユエは困ったように視線を落とした。セセラギノコはユエの足元で、期待に満ちた眼差しを向けている。
「私が……ですか?」
ユエは不安そうに周りを見回した。しかし、皆の励ましの表情に、彼女は小さく頷いた。
「では……」
ユエは少し考え込み、やがて小さな声で言った。
「ソノラ……は、どうでしょう。響き渡る音、という意味で」
ユエにその名前を呼ばれたセセラギノコは、これまでで最も高く跳ね上がった。空中でくるりと回転し、降りてくる際には、これまでにない澄んだ音色が部屋中に響き渡った。それは歓喜の音、喜びの表現だった。
「気に入ったみたいだね!」
リオンが嬉しそうに言った。
「とても素敵な名前ですね」
「ソノラか。響きのいい名前だな」
リーフィアと悠真もそう言って頷いた。
「そう、思ってくれた?ありがとう……ソノラ」
ユエは照れたように頬を赤らめた。ソノラは再びぴょんぴょんと跳ね、ユエの足元に寄り添った。
――――――
その夜、テラスに腰かけたユエの隣には、ソノラがいた。月明かりが二人を優しく照らしている。
「ソノラは、私と一緒にいたいの?」
ユエの問いかけに、ソノラはゆっくりと一度跳ねた。静かな夜に、澄んだ一音が響く。
「そう……なら、これからもよろしくね」
ユエは小さく微笑んだ。彼女の長い人生の中で、新たな仲間を得た夜。月は二人を見下ろし、牧場は静かに眠りについていった。




