第126話 海辺の精霊と自然の歌声
海辺の朝は、潮の香りと波の音で満ちていた。
シーブリーズの漁村を訪れた悠真は、岸壁に腰を下ろして深く息を吸い込んだ。透き通るような青い海と、白い砂浜が広がる風景は、異世界に来て以来、初めて目にする光景だった。
「海の空気は牧場とは違うな。塩気があって新鮮だ」
悠真の横では、ウィンドが銀色の翼を少し畳み、心地よさそうに鼻を鳴らした。朝早くからの飛行で疲れたのか、波の音を聞きながら休んでいる様子だった。
「ヒヒーン」
「そうだな。取引の相談も上手くいったし、少しぐらいのんびりしていこうか」
悠真は先ほど終えたばかりの漁村の長老との会談を思い返した。牧場の農産物と、シーブリーズの新鮮な魚介類との定期的な交換取引についての相談も問題なく解決し、一安心したところだった。
浜辺を吹き抜ける風が心地よく、悠真は少し目を閉じた。遠くで波が砕ける音、カモメの鳴き声、漁師たちの威勢のいい掛け声――すべてが心を落ち着かせる音色に思えた。
しばらくそんな情景に浸っていると、ふと、波の音の中に何か別の音が混じっているような気がした。悠真が目を開けると、目の前の海面がキラキラと輝き、その光の中から姿を現したのはセリーナだった。
長い水色の髪を波間になびかせ、セリーナは悠真のいる岸壁に近づいてきた。
「セリーナじゃないか、こんな所で会うとは思わなかったよ」
悠真は微笑んで手を振った。セリーナも小さく手を振り返したが、その表情は少し緊張しているように見えた。
「悠真さん、おはようございます」
「おはよう。セリーナも海を楽しみに来たのか?」
悠真が尋ねると、セリーナは微妙な表情で首を横に振った。
「いえ……実は、少し胸騒ぎがして。それに、何かに呼ばれたような気がしたんです」
「呼ばれた?って、誰かに?」
「わかりません。ただ、この辺りの海から……何かを感じたんです」
セリーナの言葉に、悠真は海面をじっと見つめた。穏やかに見える海面だが、よく見ると――さきほどまでより少し波が高いような気がする。
「確かに、何か変な感じがするな」
話をしていると、海からの風がだんだんと強くなってきた。最初は心地よかった潮風が、今は少し荒々しさを帯びている。
「あっ、海が……!」
セリーナが沖の方を見ると、遠くの海面が白く泡立ち、波が高くなっていくのが見えた。悠真が見つめていると、波はみるみるうちに大きくなり、海岸に打ち寄せる音も激しさを増していく。
「これは……海が荒れ始めているな」
悠真の言葉に、セリーナは不安そうに頷いた。
「こんなに急に荒れることなんて、滅多にないはずなのですけど……」
村の方からも、騒がしい声が聞こえ始めた。漁師たちが慌ただしく船を引き上げ、村人たちが浜辺に集まってきている。悠真が立ち上がると、ウィンドも翼を広げて警戒の姿勢を取った。
「白石さん!津波が来るかもしれません。急いで避難しましょう」
村の長老が急ぎ足で近づいてきて、悠真にそう言った。
「津波が?」
悠真は驚いて沖を見た。確かに波が高くなり、空も急に曇り始めていた。セリーナも水面から半身を出し、不安そうに海を見つめている。
「セリーナ、君も安全な場所に行った方がいい」
「えぇ、でも……」
セリーナが言いかけたその時、悠真の耳に微かな声が届いた。
『助けて……』
「今、何か声が……?」
悠真がセリーナに問いかけると、彼女も驚いた様子で頷いた。
「私にも聞こえました。海の方からです」
再び声が聞こえた。
『痛い……苦しい……』
悠真とセリーナが声のする方を見ると、浜辺に打ち上げられた泡が集まり始め、人の形に近い姿を形作ろうとしていた。周りの村人たちも足を止め、その光景を恐る恐る見守っている。
泡は次第に固まり、半透明の人影となった。それは女性のような姿をしており、全身が水と泡で構成されているようだった。長い髪は波のように揺れ、目は海の深さを思わせる青さだった。
「……ナギノミコだ」
長老が畏敬の念を込めて呟いた。
「ナギノミコ?」
「海辺に漂う泡から生まれる精霊です。波の様子から海の状態を感じ取ることができると言われています」
ナギノミコは苦しそうな表情で悠真たちを見つめ、か細い声で語り始めた。
『海が……海が苦しんでいます。捨てられたもの、忘れられたもの、それらが海を汚し、傷つけています。海は怒り、悲しんでいます』
悠真はナギノミコの言葉を聞きながら、沖を見た。さらに波が高くなり、暗い雲が低く垂れ込めてきている。このままでは本当に津波になるかもしれない。
「どうすれば……海を鎮めることができるんですか?」
悠真が尋ねると、ナギノミコは悲しげに目を伏せた。
『海を汚すものを取り除かなければ……でも、それは長い時の中で深く沈み、広がってしまいました……』
村人たちの間から不安な声が漏れる。津波が来れば村は壊滅的な被害を受けるだろう。
その時、ウィンドが突然「ヒヒーン!」と高く鳴き、前脚で地面を強く踏みならした。悠真はその姿を見て、ハッとした。
「そうか、ネイチャーリンクなら何かができるかもしれない!」
悠真はウィンドに近づき、その首筋に手を置いた。目を閉じ、自然と同調するためのスキル、ネイチャーリンクの力を呼び起こす。
悠真の体から淡い光が広がり、ウィンドの体も同じように光り始めた。悠真は海に意識を向け、その苦しみを感じ取ろうとする。
すると、まるで映像が頭に流れ込むように、海中の様子が見えてきた。確かに海底には、人々が捨ててきた廃棄物が散乱し、生き物たちの生活を脅かしていた。しかし、それらのゴミはあまりにも広範囲に散らばっている。これを全て取り除くのは、並大抵のことではない。
「くそっ、どうすれば……」
悠真が考え込んでいると、セリーナが悠真のネイチャーリンクの光に何かを感じ取ったように声を掛けてきた。
「悠真さん、その力……私にも、何かが……」
セリーナは静かに目を閉じ、歌い始めた。それは言葉のない、美しく澄んだ歌声だった。その歌声は風に乗り、海面を震わせ、悠真のネイチャーリンクの光と共鳴するように広がっていく。
不思議なことに、セリーナの歌が響くにつれ、海面がきらめき始めた。そして、海中から少しずつ、人々が捨てた廃棄物が浮かび上がってきた。古い網や壊れた船の一部、使い古された道具や生活ゴミ。それらが歌に引き寄せられるように、ゆっくりと浜辺に流れてくる。
村人たちは最初驚いていたが、すぐに状況を理解したようだ。次々と集まってきて、海から上がってくる廃棄物を拾い集め始めた。子供から老人まで、全員が協力して浜辺をきれいにしていく。
セリーナの歌とネイチャーリンクの力が一体となり、海を浄化していくにつれ、荒れていた波は次第に穏やかになっていった。暗かった雲も晴れ始め、太陽の光が再び海面を照らし始める。
長い時間が経ち、セリーナの歌が最後の音を残して終わると、浜辺には大量の廃棄物が集められていた。海は元の青さを取り戻し、波も穏やかに打ち寄せるようになっていた。
ナギノミコは微笑み、両手を広げた。
『ありがとう……海の痛みを聞いてくれて、浄化してくれて。あなた方の優しさを、海が忘れることはありません』
そう言うとナギノミコは光に包まれ、泡となって海に溶けるように消えていった。
――――――
夕暮れ時、赤く染まった海を眺めながら、悠真とセリーナは岸壁に座っていた。村人たちは集めた廃棄物を分別し、再利用できるものと処分するものに分けていた。村は無事で、海も静かになった。
「セリーナの歌、本当に美しかったよ。あれがなければ、今頃は……」
「いいえ、悠真さんのネイチャーリンクがあったからこそです。私の歌だけでは、あんなことはできませんでした」
ウィンドが二人の近くで羽を休め、夕陽に照らされた海を見つめている。
「それにしても、海に捨てられたものの量は想像以上だったな……」
「えぇ……人間が気づかないうちに、海は多くのものを受け入れてしまっていたのです」
セリーナは少し悲しげに言った。
「その人魚さんの言う通りですじゃ。わしらは日々の生活の中で、海にゴミができるのも仕方のないことと考えてしまっておった。ですが、今日のことをきっかけに、村の人たちの意識も変わりました。これからは、もっと海を大切にするために努力していくと約束しますのじゃ」
「……大変だとは思いますが、頑張って下さい。俺達も協力は惜しみません」
もちろん言うほど簡単なことではないだろう。しかし、少しずつでも始めなければ何も変わることはないのだ。
長老の言葉に、悠真は頷いて握手を交わした。
最後にセリーナに手を振ると、悠真はウィンドの背に乗った。ウィンドが銀色の翼を大きく広げ、夕焼けに染まった空へと飛び立っていく。下では、村人たちが笑顔で手を振り、セリーナも海面から上半身を出して見送っていた。
牧場に戻ったら、今日の冒険を皆に話して聞かせよう。リーフィアとリオンは興味津々で聞いてくれるだろうし、ユエもきっと静かに耳を傾けてくれるはずだ。
ウィンドが風を切って気持ちよさそうに空を駆ける。悠真はその背に乗り、夕日に照らされた大地を見つめながら、心穏やかに牧場への帰路についたのだった。




