第121話 不慮の事態と鈴の音
シギュラからの急なテレパシーが悠真に届いたのは、牧場での平和な午後のことだった。
『悠真さん、すみませんが急ぎで頼みたいことがあります』
頭に響くシギュラの声に、悠真は動きを止めた。いつもの落ち着いた口調ではなく、どこか焦りを含んだその声音に、悠真は緊張しながら聞き返した。
「シギュラさん、何かあったんですか?」
『回復が得意なものを連れてきてほしいのです。できるだけ早く!』
シギュラの要請に、悠真は慌ててサクラの姿を探した。桜色の毛並みが美しい羊は、牧場の片隅で草を食んでいた。
「分かった。すぐに向かうよ」
悠真はウィンドを呼び、サクラを抱えて背に乗せた。ペガサスの銀色の翼が太陽の光を反射して輝く。
「頼むぞ、ウィンド」
悠真の言葉に応えるように、ウィンドは力強く羽ばたき、空へと舞い上がった。
――――――
シギュラの住む山に到着すると、そこにはハクエンの姿もあった。普段は威厳に満ちた二匹の姿が、今は何かをひどく気にしている様子で、落ち着かない様子を見せていた。
悠真たちが着地すると、二匹は素早くこちらを振り向いた。
『来てくれましたか』
シギュラの声には安堵の色が混じっていた。ハクエンも少し離れた場所から、複雑な表情で彼らを見つめている。
「お久しぶりです。頼まれた通りサクラを連れてきましたけど、一体何が……?」
悠真が尋ねると、シギュラは頭を少し下げ、足元を指し示した。そこには一匹の鹿のような生き物が横たわっていた。小柄な体に、普通の鹿とは少し違う角——その先端には透明な結晶のようなものが付いている。
『この子を助けてあげてほしいのです』
悠真は不思議に思いながらも、まずはサクラをその鹿の傍に導いた。
「サクラ、頼む。この子を治療してあげてくれ」
サクラは「メェー」と小さく鳴き、鹿に寄り添うと、その桜色の体から淡い光が広がり始めた。治癒の魔力が鹿の体を包み込む。
「それで、何があったんですか?この子はどうして、こんな怪我を?」
悠真が二匹に尋ねると、ハクエンが尾を地面に叩きつけながら、バツが悪そうに答えた。
『いつものように力試しをしていたんだ。そしたらこいつが運悪く……』
『私たちの力の衝突から生まれた余波が、この子に当たってしまったのです』
シギュラが言葉を引き継いだ。その声には明らかな後悔の色が滲んでいた。
事情を聞いている間に、サクラの治療が済んだらしく、鹿がゆっくりと身体を起こし、おぼつかない足取りで立ち上がった。そして治療してくれたサクラの方へ、感謝するようにすり寄った。
しかし次の瞬間、鹿の目がシギュラとハクエンの姿を捉えると、その体はぷるぷると震え始めた。明らかに恐怖を感じている様子だった。
『やはり、私たちがここにいるのはよくないようですね』
シギュラはそう言って、少し下がった。
『俺たちは離れるか。せっかく回復したこいつをまた怖がらせるのもあれだしな』
ハクエンも同意し、二匹は共にその場を離れようとした。
「えっ、この子はどうするんですか?」
悠真の問いかけに、シギュラは一瞬考えるように目を閉じた。
『回復できたのならば、自然に帰れるでしょう。迷惑をかけてすみませんでした。その子にも詫びたいところですが、私が近づけば更に怖がらせるだけでしょう』
そう言ってシギュラは体を透明化させると、音もなく空へと飛び去った。
ハクエンも後を追うように走り出しかけ……一瞬立ち止まると、悠真に向かって言った。
『悪かったな。そいつにも悪いが、代わりに謝っておいてくれ』
それだけ言うとハクエンも、山の奥へと姿を消した。
二匹が去り、静寂が戻ると、鹿も少しずつ落ち着きを取り戻したようだった。その動きに合わせ、角に付いた透明な結晶が、澄んだ鈴のような音を立てた。「チリン」という繊細で美しい音色が空気を震わせる。
「大丈夫か?怖がらせてごめんな」
悠真が慎重に声をかけながら近づくと、鹿は再び警戒の色を見せた。しかしサクラが優しく「メェー」と鳴くと、鹿は安心したように警戒を解いた。
近くで見ると、鹿の傷は完全に塞がっており、サクラの治癒の力が効果を発揮したようだった。
「ありがとう、サクラ。お前のおかげだ」
悠真はサクラの頭を優しく撫で、そして鹿に向き直った。
「あの二人も謝っていたよ。悪気はなかったんだ」
鹿は悠真の言葉を理解したのか、小首を傾げるだけだった。その仕草が愛らしく、悠真は思わず微笑んだ。
「さて、俺たちの役目は終わったし、帰ろうか」
悠真がウィンドの方へ向かうと、その鹿もサクラの側に寄り添い、彼らの後を付いてきた。
「おまえにも住み家があるだろう?戻らなくていいのか?」
悠真が訝しげに問いかけても、鹿はサクラから離れようとしない。サクラも特に拒否する様子はなく、むしろ新しい仲間を受け入れるように見える。
「……仕方ないな。とりあえず牧場まで一緒に帰るか」
悠真はそう判断するとウィンドに乗って戻るのは諦めて、その鹿と共に山道を下り始めた。
――――――
牧場に辿り着いた頃には、日は傾き始め、西の空が夕焼けに染まっていた。牧場の入り口では、リオンが悠真達の帰りを待っていた。
「悠真さん、お帰りなさい!……あれ?新しい子を連れてきたんですか?」
リオンは興味を惹かれた様子で、彼らの後ろにいる鹿を見つめた。鹿が動くたびに、「チリン」という清らかな音が小さく響く。
「まぁ、色々あってな。とりあえず中で話そう」
悠真はウィンドとサクラに礼を言い、彼らに休息を取るよう告げた。新しく来た鹿も牧場内を自由に歩き回れるよう、他の動物たちに紹介した。
家に入ると、リーフィアが夕食の準備をしており、ユエも夕方になって起きてきたところだった。
「お帰りなさい、悠真さん。ずいぶん遅くなりましたね」
リーフィアが温かい笑顔で迎えてくれる。
「ああ、シギュラさんに突然呼び出されてな。山の方まで行ってたんだ」
食卓を囲み、悠真は昼間に起きた出来事を話した。
「そんなことがあったんですか。間に合って何よりでしたね」
「あの子、角に付いている結晶から美しい音が鳴るんです。まるで鈴みたいな」
「そうなの?どんな種類の鹿なのでしょうか?」
リオンの話を聞いたリーフィアが興味深そうに尋ねた。
「例の図鑑になら何か載ってるかもしれないな」
悠真は立ち上がり、本棚から『世界の希少生物図鑑』を取り出した。ページをめくりながら鹿の種類を探し、ようやく似た特徴を持つ生き物の項目を見つけた。
「これだ。『鈴鳴き鹿』……角に天然の鈴のような結晶が生えていて、歩くたびに澄んだ音色を響かせる小型の鹿。警戒している時は無音で歩くこともできる』か。なるほどな」
「そんな鹿がいるんですね。初めて聞きました」
ユエも興味を惹かれたらしく、静かな声でそう言って窓の方に目を向けた。
「回復したとはいえ様子も少し気になりますし、あとで見に行った方が良いかもしれませんね」
リーフィアの提案に、皆が頷いた。
――――――
翌日になっても鈴鳴き鹿は牧場に残り、特にサクラに懐いている様子だった。他の動物たちも自然とその鹿を受け入れ、牧場の新しい仲間として歓迎しているように見えた。
「出て行く様子もないし、この子にも一先ず名前を付けるか」
悠真がそう言うと、リオンが即座に提案した。
「『リンカー』はどうですか?鈴が鳴る様子がそれっぽいかなって」
「早いな、リオン。もしかして昨日から考えてたのか?」
「えへへ、はい!僕、この子の鈴の音が気に入っちゃって」
こうして鈴鳴き鹿は「リンカー」と名付けられ、正式に牧場の一員となった。
昼過ぎになって悠真が牧場の柵の修繕をしていると、静かにハクエンが戻ってくるのが見えた。
「ハクエン、お帰り」
悠真が声をかけると、ハクエンは少し気まずそうな表情を浮かべた。そして牧場にリンカーの姿を見つけると、さらに居心地悪そうに身を捩った。
『あいつ、ここにいるのか……』
「あぁ、サクラに懐いたみたいで帰る様子もなかったから。リンカーって名前をつけた」
『……そうか』
ハクエンは複雑な表情で頷いた。
「昨日はあの後どうしてたんだ?」
悠真の問いに、ハクエンはバツが悪そうに耳を倒した。
『……ちょっと反省会をな』
「反省会?」
『ああ。シギュラのやつが、これからはもっと周囲に気を付けなければとか何とか、長々と説教してきてな』
ハクエンは不満そうに言いながらも、どこか納得しているような表情も見せた。
『まぁ、最近は近くに生物の気配もあまりなかったから、俺達も油断しちまってた。シギュラの言う通り、今後は試合う時は周りに被害が出ないようにすると決めた』
「そうか、良かった」
悠真は強大な力を持つ二人が、他の生物の命を気に掛けていることに安心を覚えた。
ハクエンは周囲を見回した後、ゆっくりとリンカーに近づいていった。リンカーはハクエンに気づくと驚いて後ずさりしたが、ハクエンはその場に立ち止まり、静かに頭を下げた。姿勢を低くして威圧感を消そうとする様子が伝わってくる。
リンカーはそれでもしばらく警戒していたが、少しずつハクエンの誠意を感じ取ったのか、ゆっくりと近づき始めた。やがて二匹の距離が縮まり、リンカーの角の鈴が優しく音を立てた。
「許して貰えたみたいだな」
悠真が近づくと、ハクエンは急に素っ気ない態度に戻った。
『ふん。今回は俺らに非があったからな。シギュラの奴にも伝えたから、そのうち謝りに来るだろ』
「分かった。それなら、皆が驚かないように軽く言っておくかな」
牧場の柔らかな陽光の中、リンカーの角の鈴が清らかな音色を響かせ、新たな仲間を迎えた牧場の平和な一日が過ぎていった。




