第110話 銀月の夜に現れた婚約者
夜空が無数の星々で彩られ、牧場の上に静かに広がっていた。悠真はテラスのベンチに腰掛け、その光景を眺めていた。昼間の動物たちのレースの興奮が少し落ち着いた今、夜の静けさはとても心地よかった。
「綺麗な夜ですね……」
控えめな声でそう呟いたのはユエだった。普段は日中ほとんど姿を見せない彼女だが、日が沈んだ後はときどき皆と一緒に過ごすことがあった。今夜は特に満月に近い月の光が美しく、吸血鬼の少女も誘われるように外に出てきたのだろう。
「ああ、今日は星がよく見えるな」
悠真が答えると、リーフィアとリオンもテラスに出てきた。リーフィアは銀色の髪が月の光を反射して、幻想的な雰囲気を纏っていた。
「月影の村でも、こんな夜は特別な意味を持っていました。生命の力が満ちる時間とされていて…」
リーフィアはそう言いながら、月を見上げた。リオンもその横で頷いている。
「僕も子どもの頃、こういう夜は村の広場に集まって、長老からよく星の物語を聞いたりしたんですよ」
そんな平和な会話が続く中、ふと黒い蝙蝠の群れが月の前を横切った。一瞬の出来事だったが、ユエだけはその動きを見逃さなかったようで、わずかに身を固くした。
「ユエさん、どうかしましたか?」
「いえ……何でも……」
言葉の途中、突然空気が切り裂かれるような音と共に、暗闇から一つの影が牧場の敷地に降り立った。黒いマントをひるがえし、月明かりの下で白い肌が際立つ姿。赤い瞳が闇の中で鋭く光っている。
「ユエさん!やっと見つけました!」
響き渡る声に、悠真たちは驚いて立ち上がった。そこに立っていたのは、一目見ただけで吸血鬼とわかる風貌の男性だった。黒い髪と赤い瞳、尖った耳と切れ長の目元、そして唇からわずかに覗く鋭い牙。彼はユエに向かって数歩進み出た。
ユエは少し身を縮め、困ったように目を伏せながら小さく呟いた。
「ノクス……あなたがなぜここに……」
「なぜも何も、当然でしょう?ずっと探していたんですよ!」
ノクスと呼ばれた男は、悠真たちには目もくれず、ユエにだけ視線を向けている。彼は急いでユエに近づくと、その肩に手を置いた。
「もう大丈夫ですよ。一緒に帰りましょう。お父様もお母様も心配されています。それに、式の準備も滞っていますし、衣装の最終調整も必要ですし、招待客のリストも確認しないといけませんし……」
次々と言葉を繰り出すノクスの熱意に、ユエはますます困惑した表情を浮かべる。彼女は小さく首を横に振り、震える声で答えた。
「わたし……帰るつもりは……ありません……」
「え?」
ノクスの動きが一瞬止まった。彼はユエの言葉を理解できないという表情で、改めて彼女の顔を覗き込んだ。
「何を言っているのですか?それは冗談ですよね?」
「冗談では……ありません。わたしは……まだ帰らないと、決めています」
ユエの言葉に、ノクスの表情が一変した。彼は初めて周囲を見回し、悠真たちの存在に気づいたかのように目を細めた。
「まさか……」
彼は悠真たちに敵意の籠った視線を向け、低い声で続けた。
「まさか彼らに何か弱みを握られているのですか?それならば……」
彼の声には明らかな敵意が含まれていた。悠真とリーフィアは警戒の表情を浮かべ、リオンも緊張した面持ちになる。しかし――
「ノクス」
次の瞬間、ユエの静かな一声とともに場の雰囲気が一変した。
ユエの声はこれまで聞いたことのない厳しい響きを帯びていた。さらにその姿は変わらないものの、彼女から発せられる気配は完全に別人のものになっていた。これまでの小さく弱々しい存在感が消え、鋭い刃のような緊張感が満ちている。彼女の赤い瞳は今や血のように深く、悠真たちが知っているあの臆病な少女の面影はなかった。
「もし牧場の皆さんに少しでも何かしたら……」
ユエの声は小さいのに、はっきりと全員の耳に届いた。
「私は決してあなたを許しません」
その静かな怒りを含んだ声に、ノクスは明らかに動揺した。彼の姿勢が崩れ、一歩後ずさった。
「ユ、ユエさん……いえそんな、私はただ……」
彼の声は震え、先ほどまでの威圧的な態度が嘘のように消えていた。
悠真たちも言葉を失っていた。普段見るユエの姿とあまりにも違う様子に、驚きを隠せない。特にリオンは目を丸くして、自分の見ている光景が現実のものか確かめるように何度か瞬きをしていた。
しばらくの沈黙の後、ユエは少し表情を和らげ、落ち着いた声で続けた。
「……ノクス、あなたはまだ若い。もっと世界を知るべきです。私は、彼らに受けた恩があります。だから、しばらくここに留まるつもりです」
「し、しかし、私は婚約者としてあなたを……」
「その約束は私がしたものではありません」
ユエは断固とした口調でそう言い切った。ノクスは、それでもしばし逡巡していたが、もう反論する余地がないことを悟ったのか肩を落とした。
「……わかりました。今はユエさんのお気持ちを尊重します。しかし、必ずあなたに見合う男になって迎えに参りますから」
ユエは一瞬何かを言おうとしたが、言葉にならず口を閉じた。そして、ノクスは悠真たちに向かって不本意ながらも軽く頭を下げた。
「さきほどは失礼しました。ユエさんをよろしくお願いします」
そして彼は再び蝙蝠の姿に変わり、夜空へと消えていった。
――――――
ノクスが去った後、牧場のリビングルームには不思議な静寂が流れていた。暖炉の火が部屋を柔らかく照らし、温かさを提供している。テーブルにはリーフィアが急いで用意したハーブティーが湯気を立てていた。
「すみません……皆さんを驚かせてしまって」
元の控えめな様子に戻ったユエは、両手でカップを包み込むようにして持ち、小さな声で謝った。彼女の赤い瞳は以前のように不安げに揺れている。
「いや、確かに驚いたけど……大丈夫だよ。みんな無事だったしな」
悠真は穏やかに答えた。彼の静かな受け入れに、ユエは少し安堵の表情を見せた。
「あの、ユエさん……」
リオンが少し躊躇いながら尋ねる。
「さっきの人は、一体誰だったんですか?」
ユエはカップを置き、少し考えるような仕草をした後、静かに話し始めた。
「彼はノクス・ヴラドといって、私の故郷の者です。私が吸血鬼であることは既にお話していましたけれど……実は私、これでも千年以上生きているんです」
「千年!?」
リオンの驚きの声に、ユエは小さく頷いた。
「なるほど……それで彼は、故郷から居なくなった婚約者であるユエを追いかけて、ここまで探しに来たのか」
悠真が静かに尋ねると、ユエは頬を少し赤くして事情を説明した。
「その……婚約の件は家族間での話です。吸血鬼の貴族同士ではそう珍しいことでもないのですが、でも私は……彼が赤ん坊のころから知っているんです。幼い頃には遊んであげたこともありますし、嫌いではないのですが……そんな彼を、恋愛対象としてはどうしても見れなくて……」
彼女は少し首を振り、続けた。
「それで私は、ある日こっそり故郷を抜け出して、それからはずっと旅を続けていたんです」
リーフィアが静かにユエの隣に座り、彼女の手をそっと握った。
「ユエさん、あなたは間違っていませんよ。自分の心に正直であることは大切なことです」
「リーフィアさん……」
ユエの目に小さな涙が光った。
「僕もそう思います!ユエさんが自分を犠牲にする必要なんてないですよ!」
リオンが勢いよくそう言って、悠真も同意するように頷く。
「それにしても、千年……か。俺達には想像もできない長い時を生きてきたんだな」
悠真は感心したように言った。牧場の窓からは、再び満天の星空が見えている。
「はい……でも、私はまだ知らないことばかりで……、ノクスももっと世界を知ることで考えが変わってくれると良いのですが……」
ユエはそう言って少し沈黙したあと、ためらいがちに顔を上げた。
「皆さん……さっきのノクスの態度は、どうか許してあげて下さい。彼はまだ若くて……血の力を誇りにしているんです……」
「大丈夫だ。みんな気にしてないさ。それにしても、さっきのユエの姿、少し意外だったけど、カッコよかったな」
思わぬ言葉に、ユエの白い頬が一瞬で桜色に染まった。彼女は慌てて顔を伏せる。
「あ、いえあれは……私が皆さんを守らなきゃって咄嗟に……」
リオンは興味深そうに身を乗り出した。
「本当にびっくりしました!普段のユエさんからは想像できないくらい、威厳があって……まるで別人みたいでした!」
「そうね、まるで昔から多くの人を導いてきた人のような……そんな気高さを感じました」
ユエは恥ずかしそうに、小さな声で答えた。
「千年も生きていると……時には、そういう場面もあったので……。でも、ああいうのは正直苦手なんです。だから、こうして温かく迎えてくれる皆さんが……とても大切で……」
彼女の声が少し震え、言葉が途切れた。悠真はそっと彼女の肩に手を置き、安心させるように軽く微笑んだ。
リーフィアはハーブティーのカップを持ち上げ、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。私たちも同じ気持ちですよ。これからもよろしくお願いしますね、ユエさん」
「は、はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」
ユエの声は小さいながらも、はっきりとそう答えた。
話を終えて、悠真たちも眠りについた深夜、ユエは一人静かに窓辺から月を眺めていた。彼女の細い指が窓ガラスに触れる。千年の時を生きる者の目には、月さえも変わりゆく存在に映る。ノクスが去った方向をしばし見つめた後、彼女は小さなため息をついた。
「ごめんなさい、ノクス……でも、ここで見つけた温かさは、私が長い時を越えて探していたもの……」
彼女の囁きは夜風に溶けていく。牧場の動物たちが安らかに眠る静けさの中、ユエはこの小さな幸せの輪の中に自分もいることを、心から感謝していた。月の光に照らされた彼女の表情には、もはや迷いはなく、ただ穏やかな決意だけが浮かんでいた。
「今は、ここが……私の居場所」
そう呟いて、ユエは月明かりの中、静かに微笑んだ。




