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「あなた、名前は?」
……どうしてこんなことになってしまったのだろうか。元はと言えば黎一郎が我儘を言ったせいだと思うけど。
「…………」
「黙ってちゃ分かんないわ。名前くらい言えるでしょ」
「……か、かお、」
ダメだ。本名を言う訳にはいかない。
わたしは脳味噌をフル回転させて考える。どうする?どうしたらいい?
「……かおり」
結局口から出てきたのは、一文字だけ変えた偽名だった。……まあ、かおりなんて、ありふれた名前……だよね?
「……そう。……かおり、っていうのね」
「うん……」
「私は美奈子。さっそくだけどかおり、これはお返しするわ」
女性……美奈子はわたしが先程突き出したお金を全て返してくれた。そしてわたしがそのお金を受け取ると、キッと眉を吊り上げて怒る。
「話してくれなくても、あなたが訳アリなのは理解したわ。それでも!お金で全部何とかなるとか思っちゃダメ!」
「……ごめんなさい」
「私だったから良かったけど!もし変な人に騙されたりなんかしたらどうするの!」
「……ごめんなさい」
だって、テレビではそうやって頼み事をしてたんだもの。どうやって頼めば良いかなんて、分からなかったんだもの。
わたしにはツテなんてない。友達だって……今はいない。他者との関わり方なんて、知らなかった。
「……もう!そんな泣きそうな顔しないでよ!私が虐めてるみたいじゃないの……!」
実際、虐めてるようなものじゃないか。
でもいきなりお金を突きつけて、一方的に要求するのは確かに失礼だったかもしれない。
「別にあなたのこと、泣かしたくて捕まえた訳じゃないのよ。まあ訳アリで常識知らずっぽいし、ちょっと説教してやろうとは思ったけど……」
「おいお前ー!早く手伝ってくれー!俺だけじゃ回んねえよー!」
「うるさいわよ!元はあんたの親の店でしょうが!私は継ぎたくなかったのに無理矢理継がせて!跡継ぎだってでかい顔するなら、私が居なくても少しくらい一人で何とかしなさいな!」
突然のことで驚いた。
無精髭の男性が覗いてきたと思ったら、美奈子は彼を一喝したのだ。男性はバツの悪そうな顔をして、店の方へと引っ込んでいった。
……うん。この人を少しでもお母様に似てるとか思ってしまったわたしは愚かだった。よく見ると全然似てないし、性格なんか正反対。
お母様はとても物静かだったし、お淑やかだった。こんな風に声を荒らげることなんて、一度たりとも無かった。とても優しい人だった。
その代わり、お父様がわたしを部屋に閉じ込める決断をした時も、何も言ってくれなかったけれど……。
「ごめんなさいね、変なのが入って来ちゃって」
「変なの……?」
「そう、変なの。旦那なんだけどね。ドヤ顔して俺は長男だから親の仕事を継ぐんだーって私に一言も相談無しに親の仕事継いで、同居まで決めちゃったのよ。しかも、肝心の仕事は私に丸投げ!でも跡継ぎだってでかい顔するもんだからさ、ほんとクソでしょ」
「……よく、分からない」
「あはは!11歳にはまだ分からないか!」
言いながら美奈子はわたしの頭のフードを取った。……あまりに自然な流れだったので、一瞬取られたことにも気づかなかった。
「あっ……」
「あら!あなた、可愛いじゃない!」
可愛い……?今まで好奇の目でしか見られなかった、この真っ白な姿が……?
「そんなに可愛いなら、隠さないで堂々としてればいいのに!まあ、事情があるんでしょうけどね」
「……うん。まあ、色々……」
「とにかく、かおり!あなたは可愛いんだから、私みたいに変な男に引っかかるんじゃないわよ?男を見る目はきちんと養いなさい」
……既に変な男に引っかかっている、なんて言ったら、この人はどんな反応をするのだろうか。ちょっと見てみたい。
「……って、こんな話がしたい訳じゃないのよ。あなたを呼び止めた理由はね、料理を教えてあげようと思って」
「え……、教えて、くれるの……?」
「何変な顔してるの。知りたかったんでしょう?」
「だ、だって、お金、受け取らなかったのに」
「あのねえ、子供からあんな大金受け取れる訳ないでしょう!お金なんか出さなくても、頼んだら教えてあげるわよ!」
おかしい。テレビで見たのと違う。
人間は何にしても対価としてお金を要求するって……そう言ってたのに。
「……タダじゃ納得いかないって顔してるわね」
「だって、そんなの……信じられないから……」
「はあ……。かおり、あなたがどんな生活を送って来たのか知らないけれど。どうしても対価が無いと信用出来ないって言うなら、料理の材料として、うちの商品を買ってちょうだい。対価は、その代金だけで良いわ。これ以上は、私も譲れないからね」
このままでは埒が明かないので、とりあえずわたしはその条件で折れることにした。
何にせよ料理を教えてくれるらしい。助かった。美奈子からしっかり教わって、黎一郎を驚かせるようなシチューを作ってやるんだから。
「……よろしく、お願いします」
「ええ、任せときなさい!」
こうして奇妙な料理教室が始まった。