チョコレートのことを全く、これっぽっちも知らない弟のバレンタイン
弟が顔を赤らめながら「兄ちゃん、俺、恋をしたんだ」と告白した時。俺は兄として一抹の寂しさを抱えつつ、どこかほっとしたような気でいた。
我が弟は良く言えば豪傑で男気がある。悪く言えば、単純で馬鹿である。
年がら年中、ひたすら筋トレ。自らを磨き上げるその姿勢は大変素晴らしいと思うが、なんか明らかにオーラが違う。これは、あれだ。劇画調の世界に住んでるタイプの人間だ。何かしらの奥義や秘技を使えるような奴だよ。兄より優れた弟、存在してるよ。
このまま一人、世紀末な世界の住人になってしまったらどうしよう……そんな不安を本気で考えるくらいにヤバかった弟が一応、第三者に恋心を持つぐらいの良識があるとわかったのだからそりゃあ安心するに決まっている。まぁ、その相手が城の高台から身を投げ出すような美女だったらやっぱり気になるが……
それより。今の俺にはまず、確認しておかなければならないことがある。
「その背中に担いだ熊は、どうするつもりだ?」
「……好きな子に、これを渡して告白しようと思うんだ。『逆チョコ』の代わりだよ」
何の代わりにもならないぞ、それは。
◇
弟を根気強く説得し、熊を「山で倒れているのを拾った」ということにして(ちなみに弟は素手で熊を倒したことを自慢したいようだったが、猟友会に怒られそうなので必死に止めた)俺は弟に、ちゃんとしたお菓子の「チョコ」を作るように提案したのだった。
「それじゃあ、とりあえずカカオ農園を牛耳る悪徳業者に決闘を申し込みに行ってくるね」
おい、どこから始めるつもりだ。
子どもたちから学校へ行く権利を奪い、低賃金で働かせる悪徳業者は確かに鉄槌を下すべきだ。だが、その方法は間違ってる。っていうか、そんなことしてたらバレンタインに間に合わない。
「市販のチョコを溶かして固めるだけでも十分だ。きちん心を込めて作れば、きっと想いは伝わる」
「わかったよ兄ちゃん! 俺、頑張ってチョコを作る!」
そう宣言する弟の手には、ココア味のプロテインが握られている。
……そういえばコイツ、チョコレートのこと全く知らないんだよな……
既に頭が痛くなってきたが、俺はとにかく弟を宥めすかしまずは最寄りのスーパーへと買い出しに向かうのだった。
◇
チョコを作るのにプロテインシェイカーはいらない。ダンベルは、もっといらない。
隙あらば筋肉に走ろうとする弟を必死で引っ張り、なんとか必要な材料を買いそろえた。さぁ、後は作るだけだ。
「えーっと、まずはチョコレートを鍋で溶かすんだよね!」
中華鍋に向かって板チョコを放り投げるやいなや、強火でそれを温め始める弟に俺は「ちょっと待てぇぇぇっ!」とツッコミを入れる。
「なんで? 漫画とかでは女の子が鍋にチョコレート入れてぐるぐる掻き回したりしてるじゃん」
「あれは生チョコとかトリュフみたいに、温めた牛乳・生クリームにチョコレートを入れて溶かすタイプのレシピだけの特例だ! 普通に溶かす時は、湯煎が基本だぞ」
っていうかなんでウチにこんなゴツい中華鍋があるんだ? チョコレート焦げ付いたから後で母ちゃんめっちゃ怒るぞ。
弟は既に「自分の腕力を試す!」と言って林檎を片手で破壊した前科を持っている。中華鍋の汚れってどうやれば取れるのかな、と心配を始める俺の前で弟は脳天気に板チョコを割り始める。
「湯煎ってことは、お湯に通すんだよね。そーれっ!」
ジャッボォォォンッ!
煮えたぎった湯をものともせず、弟は板チョコを熱湯の中に投入しそれを勢いよくかき混ぜる。舞い上がる蒸気の中で俺は「待て待て待てぇぇぇっ!」と必死に叫んだ。
「きちんと調理方法を調べろ! 湯煎は材料を入れた食器を湯で温める方法のことだ」
わからないなら素直にわからないと言えばいいのに、この弟は……お湯の中で無残に散ったチョコレートを救出した俺は、正しい湯煎の手順を弟に示し横から指示を出す。
「よし、ここからが大事だ。テンリングっていう、温度調整が……」
「テンパ……テンポ良く溶かせってことだね兄ちゃん!」
人の話は最後まで聞けぇぇぇっ!
竜巻でも起こせるんじゃないか、というほどの力を受けたチョコレートは台所一面に飛び散り辺りはさながら爆発事故の現場さながらの惨状になる。アリさんはきっと大喜びだね、母ちゃんになんて言って謝ればいいかな。
兄の威厳をもって弟を叱りつけた俺は、再び弟にチョコ作りを開始させる。ちなみに、既にこの時点で板チョコを数十枚くらい使っている。もう今月は昼食も買い食いも抜きだな、母ちゃん怒髪天だぜイェイとか思いつつ俺はなんとかテンパリングの段階まで再トライする。
「ラム酒を入れると高級感のある、大人な味になるぞ。……待て! それはウォッカのスピリタスだ!」
大火災を未然に防いだ俺を、誰か褒めてほしい。ついでに世界一アルコール度数の高い酒を愛飲している親父を、ちょっと叱ってほしい。
そうこうしているうちになんとか、チョコレートを型に詰め「後は固めるだけ」という段階にきたのだが……
「よーし、冷蔵庫に入れるぞー!」
「やめろぉぉぉっ!」
溶けたチョコレートを急速に冷やしたら脂肪分が出てきて、ファットブルームと呼ばれる白い粉のようなものが浮き出てしまう。
そもそもできたてほやほや、温かいものを冷蔵庫に入れたら冷蔵庫が壊れちゃうだろ。これ以上、母ちゃんを怒らせたら俺たちは兄弟揃って家から追い出されるぞ。
そんなこんなで弟はなんとか、手作りチョコを作り上げたのだった……。
◇
ドキドキのバレンタイン当日。弟の恋は成就しただろうか、なんとか形になったチョコは相手の女の子に喜んでもらえただろうか。そう思っていると弟が玄関から、俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
「兄ちゃん! 兄ちゃんのおかげで俺、彼女ができたよ! 手作りチョコ、喜んでもらえた!」
「初めまして! 弟さんからお話は聞いています! とっても素敵なお兄さんですね!」
淑やかに笑う彼女は——正直に言おう、「彼女」と気づくまでかなり時間がかかった——筋骨隆々で、見上げるほどの巨体をしている。マッチョな弟と共に並ぶとその姿はさながら、世界遺産として名を馳せるアメリカのグランドキャニオンやオーストラリアのエアーズロックのようだ。そんな世界の中心な二人は、これから始まる初々しい恋人との日々にきゃっきゃとはしゃいでいる。
……この子なら、熊でも良かったかもしれないな。
大地の恵みを受けすぎたとしか言いようのない弟とその彼女を前に、俺は乾いた笑みを零すしかできなかった。