眠る林檎
白く細かいタイルを、一面に貼りめぐらせたバスルームはつぼみの気に入りで
この家を建ててからというもの、日に二度は必ず湯船にお湯を張り、
薄桃色の入浴剤でやわらいだお湯に浸かるようになった。
その都度、丁寧に掃除もする。目地にカビが生えるのは許さない…
つぐみは神経質に、タイルの水滴を拭き取った。
夫のたくは、つぐみは掃除の天才だと言う。
結婚して四年、新婚当事に暮らしていた社宅のマンションでも、二年前に新築したこの家でも
たくは未だに埃ひとつ、髪の毛一本見たことがなかった。
朝は、真っ白な皿にトースト、フルーツ、卵料理などをきちんと並べ、熱々のほうじ茶なんかを
絶妙のタイミングで用意するし、たくが起きて来る頃にはもう洗濯も干し終えていて、機嫌よく
鼻歌なんか歌いながら、庭のグリーンに水を撒いたりしている。
それは、日曜日でも、祝日でも、変わることなく、だからと言って機械的なわけでもない。
つぐみはあたたかな妻だった。
「なぜ、朝はほうじ茶なの?」
たくはかなり気を遣いながらつぐみに尋ねる。
「だって、珈琲は身体を冷やすのよ。朝はあったかいほうじ茶を飲まなくっちゃ!」
つぐみは、当然でしょと言う風に、真顔で返した。
自宅を出るのは毎朝七時二十分。それを少しでも過ぎるとつぐみはそわそわする。
本当は、四十五分でも充分間に合うのだが、もし電車が遅れた時のために…、
もしバスが来なかった時のために…
つぐみは譲らなかった。
毎朝、三十分近く予定を早められるたくは、バスに乗らずに駅まで歩いていくこともあれば
駅の珈琲ショップで、ゆっくり新聞を読みながら、好きな珈琲を飲むこともあった。
結婚して四年。つぐみは専業主婦として家庭に入り、申し分なく家を守ってくれている。
それに対して、たくは何の不満もないはずなのだが、今朝はどうも違和感を感じないではいられなかった。
というのも、本当はもうちょっと家にいて、出勤するまでの時間を楽しみたいし、見たいニュースだってある。それに、珈琲だって本当は家で飲みたいのだ。つぐみが淹れてくれる珈琲を…
「よし。」
たくは、思い切ってつぐみにこのことを話すことに決めた。主は俺だ。ガツンと言ってやる!
その日たくは、同僚と居酒屋で飲んでから帰ると、つぐみに電話を入れた。
つぐみは相変わらず機嫌よく、はいはーいとのんきな返事をする。
「お茶漬けでもつくって待ってるね。」
そんな気が利く一言も、今日のたくにはなんだか鬱陶しく感じられた。
「先に寝てろよ。何時に帰れるか分らないんだから。」
思いがけずきつい言い方になる。
一瞬の沈黙の後、つぐみが言う。
「何言ってるの?飲んだ後は、アルコールで身体の水分が蒸発しやすいのよ?
ちゃんと、塩分と水分の多いものを食べないと!先に寝ててと言うなら、
自分でラーメンでも食べてきてよね!まったくもう!」
たくは笑い出しそうになった。つぐみにあっちゃかなわないのだ。
そこが好きで結婚を決めたし、今でもつぐみのそういうところが愛しかった。
たくは、はいはいと笑いながら答え、こう付け足した。
「じゃぁ高菜のお茶漬けでお願いします。」
「いやよ。もう作る気なくしちゃったもん。林檎でも置いておくから、
自分でむいて食べたら?」
ガチャリ。
つぐみが受話器を置く時には、お互い笑っていた。
帰るときっと、きちんと皮をむき、塩水に浸かった数切れの林檎が、冷蔵庫に眠っているはずだ。
夫婦にしか分らない、二人の間に流れる空気というものが
あると思います。
二人の決め事、二人の常識。相手に良かれと思ってすること、でもなかなか通じないこと。
あ、これって幸せなんだって気づく瞬間を大切に・・・
夫婦という人間関係を築いていけたらいいなと、書きながら思いました。