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2. 決裂

少なく見積もっても負傷を、ひょっとしたら死ぬかもしれないという状況に心臓が跳ねる。怪我をしても治療するための道具はない。大量出血でもしたら取り返しが付かない事態に陥ってしまう・・・そう考えると背筋がまた冷えた。


おっさんが自分に殺気を向ける理由は、十中八九ここ家の無断使用と食料を食い荒らした事だろう。廃棄された家ではなかったのだ。なぜこんな所に居を構えていて何日も不在だったかは不明だが、何かをするための拠点だったのかもしれない。仕事を終え疲れて家に戻ったら、見知らぬ男が備蓄を食い荒らしている。そりゃ、自分でも怒る。


この場所に住み着く前、万が一家主が戻って来たら事情を話し許しを乞うつもりはあった。タイミングが悪い、よりにもよって、だ。頭の中の警告音は鳴りやまず「逃げる」の文字が乱舞する。


頭上、斜め4~5mの所におっさんが弓を構えている。あそこは水場に降りる為の通り道だ。それ以外は斜面の角度がきつすぎて登ることができない。頑張れば登れなくは無いのだが、この小さな体で弓を(かわ)しつつ安全な場所まで退避するのは不可能に近い。


向こう岸へ渡るのはどうか?

無理だ。向こう側もこちらと同じ位きつい斜面だ、登っている最中に背中を狙われる。


沢沿いに逃げるか?

無理だ。大きな岩を登り降りしながら逃げ切る事はできない。


今なんとか逃げ延びたとしてこの先どうなるか。落ち着ける所はあるかどうか分からないが、少なくとも上流には何もない事はわかっている。ならばおっさんは下流から来た人か。自分は山の上の方から降りてきたのだ、その可能性が高い。どこに逃げたとしても、その先でおっさんの仲間が待っており、囲まれて責められてしまうのではないか、と考えると気持ちが沈んでくる。重い脳でこれ以上あれこれ考えても何も浮かばない。許しを請うしか無い。土下座だ。


膝を折り身を屈する。自己最速をマークしたと思う。衣服が濡れ、水場にいた事を今思い出す。


構わない。

とにかく死にたくは無い。


おっさんが何かを叫んでいる。上手く聞き取れないが怒りは収まっていない様子。


すぐ横に矢が飛んでくる。やばい。


体を起こしおっさんを見る。目が合う。

2射目の準備をしている手が止まる。


「イネ」


誰?

自分の名前とは違う。そういえば名前、名前?

自分はなんと呼ばれていたか思い出せない。いや、そんな事は今はいい、おっさんは何を言っているのか。


「イネ!」


そう、いね。ひょっとしたら、これはおっさんの名前なんだろうか。人に名前を尋ねるときは自分からと、誰かが言っていた気がする。一度矢を放ってから名乗りを上げるとは武士の風上にも置けぬ、いや、武士ではないか。ならば自分もと思ったが名前がわからない。焦る。頭が回らない。自分にも親はいたはず。父はなんと呼んでいたのか。


2射目を止めたおっさんが右手の矢を下ろしながら2歩後退する。許された、のだろうか。いや、希望的観測に過ぎない。矢を持った手が沢の下流側、稜線(りょうせん)が開ける方向を指で示している。つまりはここから出ていけという事なのだろう。イネは名前ではなく「居ね」ということだったのだ。


ゆっくりと立ち上がり、これまたゆっくりと後退する。太ももまで水に濡れる。議論の余地はない、ここは素直に退散すべきだ。これからまた流浪の日が始まると思うと気持ちがどんどん沈んでいく。しかし、この地は元々借り物だ、家主が退去を命じているのであれば従うしかない。2歩、3歩と後退したあと下流へと歩みを進める。体が重い。そのまま最後までおっさんの方には振り返らずこの地を後にした。


---


陽が西の山に沈みかけた頃、歩いてきた沢から大きな川へと合流した。元は溶岩でも流れていたんだろうか、ひたすら黒い岩だらけの川辺が続いている。それでも両脇を斜面にに遮られた状況から景色が変わっただけでも気持ちに余裕がでる。川幅は7~8mか。広い所でも10mも無い。深さも膝までの所が多く深い所でも腰までなので渡れなくはない。所々流れが急になっているが、全体的には穏やかなものである。


さらに下流に向かって歩みを進める。小石の多い河原へ出る。今までの岩肌に比べ小石の上は素足でも歩きやすい。


空を厚い雲が覆いつつある。できれば日が沈む前に体を休める所が見つかればいいのだが。体一つで逃げ出してきた事もあり、何の道具も持ってきていない。河原に乾いた流木はあるが火も付けられない。探せばその辺に着火用の石もあるのだろうけれど、試す前に陽が落ちてしまえば闇に閉ざされる。濡れた体を温めることもできない。


歩く。だんだん足も痛くなってくる。視界は開けてきたが曲がりくねった川の先を見渡せる程ではない。


歩く。風が出てくる。寒い。


歩く。歩く。


日が沈み周りが暗くなった頃、遠くに赤い光が見える。小走りになる。全力で走れる体力は既にない。土手の上、明らかに人工物の柵の先に篝火(かがりび)が見える。葦原をかき分け先を急ぐ。


葦原を抜けようとした所に人影が見える。ズボンを下げ、腰を下ろしている。(はばか)りの最中らしい。

自分、人との出会い方の運が悪すぎる。


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