お菊との出会い
瓦屋根の下敷きになった人が、わたしの目の前で燃えている。
彼らがわたしに助けを求めて、必死に手を伸ばす。
白目を剥いて燃えている人が歩きながら叫んでいる。
わたしは立ち尽くしていた。
炎が熱くて、近づくことさえできない。
「死にたくない! 助けてくれ!」
燃えながら苦痛に歪む男。
「身体が熱いよぉ」
少女が苦しそうに手を伸ばしている。
「誰が火を消してくれ!」
白目を剥いて燃えている人がわたしの懐を掴む。
わたしの着物に火が燃え移る。
手が燃えて、やがて身体が燃える。
熱い。身体が熱い。身体が溶ける。
「うわぁぁぁぁぁ!」
わたしは熱くて声を上げた。
そこで瞼を開ける。
高鳴る鼓動、夢だとわかる。
汗を掻いているのか、汗で布団が身体にくっついて気持ち悪い。
さっきの夢が蘇る。
恐ろしい夢だ。飯屋の火事の光景が、頭から離れてないな。
見慣れない天井が視界に映る。
小鳥の囀りが聞こえる。
どこだ、ここは。
わたしはゆっくりと上半身を起こす。
辺りを見回すと、ここは日本家屋の客間らしく畳部屋だった。
客間の縁側の庭先に、竹の物干竿に洗濯物が干してあった。
洗濯物が、気持ちよさそうに風に揺られている。
その時、額に載せてあった、白い濡れタオルが布団に落ちる。
タオルを持つと、ひんやり冷たかった。
わたしは上半身裸で、右肩の傷に丁寧に包帯が巻いてあった。
巻いてある包帯から、消毒液と薬の匂いがした。
「うっ」
起き上がろうとすると、右肩に痛みが走り、わたしは唸る。
わたしは額を手で押さえる。
斎藤と一悶着の後、わたしは気を失ったのか。
おまけに熱を出したようだ。少し頭痛がする。
それにしても、誰がわたしの傷の手当てを?
もしや、魔術を唱えた、あの女か?
いや、待てよ。わたしが気を失う際に、女の声がしたような。
彼女が、わたしを助けたというのか?
今日は何日だ?
新聞があればいいのだが。
それより、大学に行かねば。皆が心配している。
わたしが起き上がろうとした時。
庭の物陰から、着物を着た若い娘が鼻歌を歌いながら現れた。
わたしを見るなり、手に持っていたじょうろを驚いて落とす。
「無茶はダメですよ!」
慌てて縁側の踏み石に草履を脱ぎ捨て、わたしの元へ小走りに寄る。
「誰だ!? わたしに寄るな!」
わたしは、若い娘に近寄るなとばかりに、手で制して若い娘を睨み据える。
見たところ、彼女は丸腰だが油断はできない。
「わ、私は、あなたを助けた者です! お菊と申します」
若い娘は、わたしの布団の横で、膝を折って両手を畳に添えた。
額を畳につけんとばかりに深く頭を下げた。
まるで、旅館の女将が旅人を歓迎するように。
……彼女に敵意はないみたいだな。
そうか。彼女がわたしを助けたのか。
ここは、彼女の家か。
その瞬間、安心したのか、わたしの力が抜けた。
「お菊か。わたしは大学に戻らねばならん。こうしている間にも、この国は……」
わたしは無理に起き上がろうとして、右肩に痛みが走り、また唸る。
わたしは態勢を崩して、片膝を布団につく。
右肩の痛みを歯を食いしばって我慢し、布団を握り締める。
「大丈夫ですか!?」
お菊が慌ててわたしの身体を支える。
心配そうに、わたしの顔を覗き込んでいる。
「なんとしても大学に戻らねば。お菊、わたしの身体を起こせ。頼む」
わたしはお菊の肩に手を置いて、お菊に縋り、頭を下げる。
次の瞬間、お菊が平手でわたしの頬をぶった。
わたしは唖然として、わたしの眼がさざ波のように揺らめく。
「なにをする! わたしは、一刻も早くこの国を正したいだけだ!」
わたしは握り拳で、畳を思いっきり叩いた。
お菊を睨み据える。
「国を正すことが正義なんですか!? あなたは、人一人を本気で守ったことがあるんですか!? 目の前の人間も守れないで、そんなこともできない人間が、気安く国を正すとか口にしないでください! 目の前で死んでゆく人を見たことがあるんですか! 笑わせないでください!」
お菊が涙を滲ませて、わたしの前に屈み込む。
わたしの両肩に手を置いて、訴えるようにわたしの両肩を揺らす。
「!? 国を正すことが正義じゃない? わたしは、人一人さえ守ったことがない……夢を見ていたのかもな……すまない、お菊。わたしが間違っていた」
わたしはやるせなくなり俯いた。
ただ、悔しくて泣いていた。涙の粒が布団に零れ落ちる。
何度も、涙を手で拭う。
「あなたは、右肩に深手を負っています。右肩の傷が完治するまで、私が看病します。それからでも、話を聞くのは遅くないでしょ?」
お菊は、わたしの手を優しく握った。
お菊の口調は優しかった。まるで子供をあやすように。
「ああ、そうだな。わたしがどうかしていた、すまない。わたしは、木下信二だ。世話になる、お菊」
わたしも、お菊の手を握り返す。
そして、そのまま命の恩人に土下座をした。右肩の痛みを我慢して。
「もしかして、木下佑蔵さんの息子さんですか!?」
お菊が声を輝かせて、わたしの身体を揺すり、嬉しそうにわたしに訊く。
「あ、ああ。そうだが……」
わたしは顔を上げて、訳がわからなかった。
気まずそうに、お菊から顔を背け、人差指で頬を掻く。
「木下佑蔵さんが開発した武器、凄いですよね! 憲兵団の新聞、毎号読んでますよ! 憲兵団に憧れてて、私、憲兵団に入隊したいんですけど……」
お菊が表情を曇らせて、わたしから顔を背ける。
お菊は胸に手を当て、瞳が悲しそうに揺れている。
「どうかしたのか?」
わたしはお菊の肩に手を置き、お菊の顔を覗き込む。
お菊は、今にも泣きそうな顔をしている。
胸に当てた手を握り締める。
「実は、おとっつあんが賭博で借金作っちゃって。それで私、大学中退して必死に働いて借金返してるんです。おとっつあんも、あれから賭博もやめて、真面目に畑仕事してるんですけどね。母は幼いころ病気で亡くなって、おとっつあんが男手一つで私を育ててくれて、本当に感謝しているんです。だから、おとっつあんに恩返しもしたいんです」
おもむろにお菊が立ち上がり、縁側から庭を見つめた。
わたしは、寂しそうなお菊の背中を見つめる。
そうか。
この娘は、わたしより強い子なんだな。
それに比べて、わたしは何不自由なく育った。
わたしの場合、幼い頃から使用人がいたからな。
「お菊、お前は強い娘なんだな。わたしとは大違いだ。ところで、仕事はなにしている?」
わたしは、お菊の背中に微笑む。
「おとっつあんには内緒なんですけど……私、朝から夕方まで遊郭で働いているんです。夕方にはおとっつあんが畑仕事から帰ってくるので。おとっつあんには心配掛けたくないんです。借金を返すには、それしかないと思って。でも最近、変なお客さんに付け回されてて、困ってるんです……こないだ、そのお客さんが家まで来ちゃって、おとっつあんが追い払ってくたから良かったけど。私、怖くて……」
お菊が泣き崩れる。
お菊の涙の粒が、畳に染みる。
「お菊。キミは充分に、父親に心配を掛けている。仕事で知らない男に抱かれるのを、父親が知ったら、どんなに悲しむか。お菊は、そんなことを考えたことがあるか? お菊のお母さんが、お腹を痛めてキミを産んだ。簡単に、自分の身体を許すな! どんなに時間が掛かってもいい。ちゃんと真面目に働いて、父親の借金を返すんだ。父親は真面目に働いているのに。そこまでしてキミは、父親が知らないところで迷惑を掛けてまで、寄り道するのか? それこそ、親不孝者だ」
わたしは、お菊に強く優しく語りかけた。
「!? す、すいません。信二さんの言葉で目が覚めました。私、真面目に働きます」
お菊が涙を拭いながら、鼻を啜る。
その時、玄関の扉を乱暴に開ける音が聞こえた。
お菊が驚いて、身体が飛び上がる。
「おーきーく、ちゃん。今日は休みなのかい? 店でお菊ちゃん待ってたのに。家まで来ちゃったよ。へへっ」
玄関で男の声が聞こえたかと思うと、男は遠慮なくずかずかと家に上がり込んだのか、どたどたと騒がしい足音が聞こえる。
「し、信二さん。あの男が来ました。助けてくださいっ」
お菊が立ち上がる。
怖くなったのか、わたしの傍まで来て、わたしに強く抱き付く。
お菊を付け回している例の店の男か?
不味いな。こんな時に。
わたしは、なにか武器になる物はないかと、客間を素早く見回した。
布団の傍にある棚の横に、一本の竹刀が立て掛けてあった。
お菊が大学生の時に使っていた竹刀か?
まあいい。ないよりはマシだ。
恐らく、男は刀を持っているだろう。
力ずくで、お菊を奪うつもりかもしれん。
「お菊。棚の横に立て掛けてある竹刀を取ってくれ」
わたしは、布団の傍にある棚の横に立て掛けてある竹刀に手を伸ばした。
が、右肩に痛みが走り、痛みで手を伸ばしきれない。
「は、はい」
お菊は立ち上がり、布団の傍にある棚の横に立て掛けてある竹刀を取って、わたしの手に竹刀を握らす。
わたしは、竹刀を布団の中に隠した。
そして、お菊を抱き締めた。
「あれれ~。店に来ないと思ったら、男と寝てるじゃないか。いいなぁ。誰だい、その男は?」
ボロボロの単衣に、ボロボロの袴を着た、中年の親父がわたしたちの前に立っていた。
中年の親父の頭が禿げ、頭皮がつるつるに光っている。腰には、鞘を下げている。
ひょうたんの酒を飲みながら、しゃっくりをした。
よろけながら、口許の酒を手で拭う。
客間に酒の匂いが充満した。
「私の彼よ。もう遊郭で働かないから、出て行ってちょうだい。私は、彼と幸せになるの」
お菊はわたしの懐を握り締めて、酔っ払い中年男を睨み据える。
「おい、お菊。話がややこしくなるだろう」
わたしは頭の後ろ掻いた。
わたしは、酔っ払いの中年男が腰に下げている鞘を見る。
やはり、刀を持っているな。
なんとしてでも、お菊を守らねば。
「へぇ。お菊ちゃん、わしが知らない間に男作ったんだ。悪いけど、お菊ちゃんはわしの物だから。お菊ちゃん、わしに艶やかな身体を見せておくれぇ~」
酔っ払いの中年男が、腰に下げた鞘から刀を抜き、お菊に刀を振り下ろす。
酔っ払い中年男の太刀風が、わたしとお菊を包み込んだ。
「きゃっ」
お菊が瞼を閉じて、声を漏らす。
わたしは、布団に隠してあった竹刀を素早く取って、酔っ払いの中年男の刀を受け止める。
この男、斎藤よりは剣の腕はないが、刀が厄介だ。
幸いにも、刀の切れ味がなくて、竹刀が切れなくて助かった。
「へぇ。あんた、右肩怪我してるんだ。お菊ちゃんに看病してもらっていいなぁ。もう、お菊ちゃんを抱いたのかい?」
酔っ払いの中年男は、わたしの右肩の怪我を見て、顎に手を当てて妙に感心した。
しゃっくりが出て、中年の酔っ払い男の身体がふらつき、酔っ払いの中年男は首を横に振った。
この男、相当酒を飲んでいるな。
仕事は何しているか知らないが、遊郭と酒に溺れたようだ。
所詮、賭博と一緒だ。溺れたが最後。
男がふらついている今がチャンスか。
それに、わたしは右肩を怪我している。
さすがに戦えない。受け止めるのがやっとだ。
せめて、男の視界を奪えば、なんとか勝機があるかもしれない。
わたしは布団に目を落とす。
そうか。布団を奴の頭に被せれば視界を奪える。
枕でもいい。固い枕を奴の顔に当てるのもいい。
そして、その隙に体当たりを食らわせば。
「お菊! 枕を男の顔に思いっきり投げろ!」
わたしは、酔っ払い中年男の刀を竹刀で受け止めながら、お菊に怒鳴った。
「は、はいっ!」
お菊が返事をするや否や、酔っ払い男の顔面に枕が当たる。
固い枕なので、男の顔面に当たるや重い音がした。
「ぐわっ! ちくしょう! いてぇぞ!」
酔っ払い中年男が、顔を手で押さえた。
わたしの竹刀から、酔っ払い中年男の刀が離れる。
「お菊! 男の顔に布団を被せて、思いっきり体当たりしろ!」
わたしは、右肩の痛みで片膝をつく。
竹刀を畳に突き立てる。
「は、はい!」
お菊は返事をすると、布団を乱暴に取って、酔っ払い中年男の顔に布団を被せた。
そして、酔っ払い中年男がふらついて布団を取れずにいるところを、お菊が思いっきり体当たりした。
酔っ払いの中年男は縁側に吹っ飛び、吹っ飛んだ衝撃で刀が畳の上に落ちた。
わたしはそれを見逃さず、無理に身体を引きずる。
すぐにお菊が支えてくれて、お菊が刀を拾い上げ、わたしの手に刀を握らせる。
そして、お菊はわたしに抱き付いた。
「なにしやがる! あーあ、酒がなくなっちまったい」
酔っ払いの中年男が布団を乱暴に取って投げ捨てた。
畳の上に染み込んだ酒を見て、頭の後ろを掻いて愚痴を零す。
わたしは、酔っ払い中年男の喉元に、刀の刃先を突き出す。
「ひっ。わ、わしが悪かった。お菊は、お前の女じゃ。い、命は助けてくれ」
酔っ払いの中年男はさすがに酔いが覚めたらしく、尻餅をついたまま後退る。
命ばかりは助けてくれといわんばかりに、手を伸ばして。
「お前の悪行、見逃すわけにはいかない。今逃げれば、見逃してやる。どうする? 牢に入るか、今逃げるか」
わたしは真っ直ぐに、酔っ払いの中年男を冷たく見下ろす。
お菊は無言で、酔っ払いの中年男を、わたしの胸の中で見下ろしている。
酔っ払いの中年男は額に冷や汗を掻いて、引きつった顔でわたしとお菊を見比べた。
「ひ、ひぇ~。お助けを!」
酔っ払いの中年男は悲鳴を上げて、玄関に飛んで行った。
「うっ」
わたしは右肩に痛みが走り、片膝をついた。
竹刀を畳の上に突き立てる。
「し、信二さん。ありがとうございました。なんとお礼を言っていいか」
お菊が頬を紅く染めて、わたしを抱き締める。
「これで、あの男は二度とお菊を付け回さないだろう。お菊はわたしが雇う。わたしの屋敷の使用人として。父に手紙で知らせよう」
わたしもお菊を抱き締め返した。
お菊の頭を優しく撫でる。
「えっ? え~!? い、いいんですか!?」
お菊が驚いて顔を上げる。
「もちろんだ。これから、お菊に世話になるからな。わたしからの恩返しだ」
わたしはお菊に微笑んだ。
「もぉ。信二さんったら~」
お菊がわたしの右肩を強く叩く。
「お、おい。わたしは怪我人だぞ!?」
わたしは唸る。
「す、すいません」
お菊がわたしから離れて、膝を折り、両手を畳の上に添えて、深く頭を下げた。
わたしは、それが可笑しくて笑った。
お菊も顔を上げて、笑った。