一話「最果ての森にて」
鬱蒼と茂る木々。幾重にも重なる枝や葉が陽の光を遮り、大地に暗闇を落としている。鳥達は聞いたことのないような声で鳴き、それがやけに鋭く耳朶を打つ。
「ハァ……ハァ……」
氷野佐江はそんな森の中を、地図を片手に歩いていた。
動きやすいよう、機能性のみを考慮された、少々不格好な軍服に身を包んでいる。左腕部の肩には数十年前まで現役で使用されていた甲冑の一部分が装備されていた。
既に都を出て一ヶ月。食料などは底をつき、己の知識のみを糧に野草などを貪ってその日をこなしている。
手元の地図は漠然と『この辺り』としか書いておらず、具体的な位置まではさっぱり分からない。
それもそのはず、この森は数々の修行者が行き着き、やがて果てる森、通称『最果ての森』として有名だからだ。
都ではそれなりの実力者として通っている佐江も、流石に体力と気力の限界が近づいていた。
「荒谷先生はきっと辿り着けると言っていたが、どうにもこれは堪えそうだな……」
足取りは重い。
きっとたどり着く、を延々と繰り返す毎日。それは精神を着々と確実に蝕んでいた。
太陽は見えない。だが、少しずつ下がっていく気温が、夜の訪れを告げていた。
開けた場所は無い。
佐江は仕方なく近場の木にもたれかかり腰を下ろした。
石ころを拾い上げ、空いた手に心剣を精製する。
「『麗羅』」
それが佐江の心剣の名である。
心剣。
それはこの大和という国が持つ特異性の塊だ。
大和の人間は誰もが身体の中に、心の強さの証である『心鉄』を持つ。そしてそれは成長していくにつれて、武器の形をとっていくのだ。それこそが『心剣』であり、大和国民が持つ『常在戦陣』の精神の発露である。
佐江の『麗羅』は細剣だ。鋭く、素早く、効率よく貫くことだけを思い、日夜修練に身をやつした結果、形作った修練の賜物だ。
佐江は枯葉の前でそれを音よりも早く石に擦り付け続ける。するとやがて断続的な火花が引火し、一つの炎となる。
それをそこら中に落ちている小枝を組んでおいたものに入れ、簡易的な焚き火を作った。
夜は冷える。それに野生動物にも警戒しなければならない、火はその為にも焚いて置いたものだ。
ガサッ……
どこかで草木が擦れる音がする。それは徐々に鈍重な足音を伴って佐江に迫ってきた。
(何が来る……?)
甲冑を纏う左肩を前に突き出し、心剣を低い位置で構える。連日の行脚で足腰に疲労は溜まっていたが、戦えない訳では無い。もとよりそのような状況でも戦えるように訓練しているのだから。
「グガァ……」
熊だ。それも大きい。爪には見たことのない、武器のような物が取り付けられ、剥き出しの牙は全てを噛み砕かんとばかりに鋭利だ。
「鉄獣か……」
心に鉄を持つのは人だけではない。
ごく稀に野性の獣にも心鉄を持つものがおり、それを鉄獣と呼ぶ。鉄獣は通常の獣など比類にならないほどに凶暴で、そして賢い。それこそ人に至るほどだ。
「やるしかない……」
ジリジリと距離を詰める。一歩、また一歩と間合いを狭めていく。そして二つの間合いの同心円が重なり合った刹那一一
「ちょっと待ったぁ!」
青年があいだに割って入って来た。
恐らくは佐江と同じくらいの十七、十八歳だろうか。しかし背丈は佐江より少し高いくらい、僅かに露出した素肌には、無駄のない美しい筋肉が垣間見えた。
そんな青年が、この圧倒的な修羅場の中に、なんの躊躇もなく入り込んできたのだ。
当然、鉄獣はその異物を除こうと爪を振り上げる。そしてその一撃は衝撃を以て青年を吹き飛ばし一一
「大丈夫だ。火が怖かったんだよな?」
青年はその一撃を片手で、尚且つ『素手で』受け止め、そして鉄獣にそっと抱きついた。
すると鉄獣は次第にその殺意の影を消し、力なく項垂れた。
「また会おうな。その時は一緒に木の実でも食べようや」
背中を摩ってやりながら、青年は優しく語りかける。
やがて鉄獣は森の奥へと消えていった。青年はそれを見守りつつ、ぶんぶんと手を振っている。
「一体何をしたんだ君は……」
目の前で起こったことが未だに理解できない佐江を他所に、青年は心配そうに佐江の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「う、うむ、問題ない。つかぬ事を聞くが、君はこの辺りに住んでいるのか?」
「そうです。良かったら泊まっていかれますか? 狭い小屋ですけど」
「ご好意痛み入る」
「それじゃあ、付いてきてください」
そう言うと、青年は緩やかな坂道になっている獣道をゆっくりと登っていく。既に日は落ち、一寸先も見えはしないが、青年は一切惑わずにその歩を進めた。
(何者なんだこの男は……?)
戸惑いながら佐江はその跡を付いていった。
(やっべぇぇ! 女の子助けちゃった! どうしよ!?)
青年、安土銀助は途方もなく困惑していた。
最後に女の子と話したのは本当に幼い頃、それこそ七つか八つの頃以来だ。
(てか、この人女でいいんだよな? 髪長いし、胸は、わからん。男みたいだ)
しかし男が着るような服を着ている。見たことはなかったが、何となくそんな感じだ。
師匠曰く、女という生き物は着飾ることを是とするもの、と習ってはいるが、果たしてこのよく分からない服は着飾っているに含まれるのか。
(何を話したらいいかわかんねぇ……どうすっかな)
女性? はずっと黙って付いてきている。とりあえず今晩は泊めやりたいが、それは色々といいのか。こう、あれな感じにセーフなのか?
(待てよ? 全ての女が話上手とは限らんぞ。もしかしたらそういうのが苦手なのかも……)
ちらりと振り返るが、何かを考え込んでいるのかずっと俯いたままだ。
(話しかけづれぇー! なんならなるべく話しかけたくねー!)
小屋までの道中、結局二人が口を開くことは一度もなかった。
(やはり、なにか特別な訓練でもしているのだろうか……)
思案しながら歩く山道。気がつけば少し先に、仄かに明るく火が点っているのが見えた。
「あ、ここです。着きました」
小高い丘の上に立つそれは本当に小さな小屋だった。屋根と壁さえあればいいとばかりに、戸は付いておらず窓すらもない。
横手には庭のような物があり、小屋よりもそちらの方が重要視されているのか、よっぽど手入れがされていた。
「師匠ー! 起きてますー?」
青年が声を張ると、中から老人がのそのそと這い出て来た。
「馬鹿弟子ィ……今何時だと思ってやがる……」
「まだ申の刻だ」
「おや? そのべっぴんさんは誰じゃ」
慌てて佐江は頭を下げる。すると老人もゆったりと小さく頭を下げた。
「名は?」
「氷野佐江と申します」
胸に手を当てながら、佐江は丁寧にお辞儀する。しかし今度は返事が返ってこなかった。
「おい、氷野と言ったか? ひょっとして、士道の関係者か?」
「おじい様の知り合い……? すると、貴方が安土金時殿ですか!?」
安土金時。東国武帝と呼ばれた伝説の武芸者だ。戦に出向けば生きて返すことは無く。彼の後には死体の山が富士よりも高く積み上がっていると謳われる程の人外。
西国武帝であり、佐江の祖父である氷野士道とは同門であり天敵で、幾度も拳を交えており、二人が争った跡は『武帝合戦跡地』として全国各地に点在している。
「ああ、ついでに嬢ちゃんの横で突っ立ってる木偶の坊が息子の銀助だ」
「都の荒谷先生から書状を預かってまいりました」
荒谷の名と共に、佐江は懐から封筒を取り出す。
すると金時老人はあからさまに面倒くさそうな顔を見せる。
「荒谷絡みか……まぁ構わん。とりあえず立ち話もなんじゃし、中に入りなさい」
どうやら荒谷先生の知人らしい。
荒谷リョウ、通称荒谷先生は都で心剣使いの養成学校を開いている貴人だ。それだけ聞くと教育熱心な聖人のようにも聞こえるが、ところがそうではない。
常に何かを企み、何かしら問題を起こす。誰かが困れば高らかに笑い、自分が困れば最大級に不機嫌な顔をする。だがどこか憎めない、そんな人だ。
小屋の中はやはり外から見た感覚と同様で、ちゃぶ台と囲炉裏しかなかった。
囲炉裏を囲むようにして佐江と金時老人は座る。先程まで側にいた青年は席を外しているのか、いつの間にか居なくなっていた。
金時老人は受け取った書状を、つらつらと読み進めていく。あまり文字を読む機会がないのか、はたまた老眼なのか眉間に深い皺が刻まれていた。
そしてそれを読み終わった途端一一
「カッハハハハ!!!」
大声で笑い始めた。
「如何致しましたか!?」
「いや、すまんすまん……嬢ちゃんこれ読んだか?」
「いえ、失礼に当たりますので、読んでおりません」
「ここにはな? お前の所の餓鬼をよこせと書いてあったんじゃ。これを笑わずしてなんとするか」
金時老人はそう言って、囲炉裏へ手を翳す。いくら東国武帝といえども夜の寒さは堪えるようだった。
「餓鬼、と申しますとあの銀助殿でございますか?」
「駄目だ、どうにもあいつは駄目だ」
「何故です?」
「戦いだとか、争うだとかのことが心底嫌いなんじゃよ」
わけがわからない。
戦いこそが武芸者の務めであり、生きてゆく上での目標ではないのか。それも男だというに、そのように女々しいとは、中々情けないものだ。
佐江は内心で溜息を零す。
自分はそんな情けない輩に助けられたのだと思うと、たまらなく不愉快だった。
「だからあいつは間違いなく断るじゃろうな。そこで儂に考えがある」
「その考えとは?」
「嬢ちゃん、見たところかなり出来る口だな? 氷野の孫なら箔もある。どうじゃ、嬢ちゃんが勝ったなら銀助を好きにすればいい、ただし銀助が勝ったならこの話は無しだ」
「乗らせていただきます。そもそもあのような情けない男子に負ける道理がございません」
「良し。ならば明日の明朝、隣の庭にて組手を行う。それで良いな?」
「かしこまりました」
その返事を聞くと、金時老人は満足そうな笑を浮かべ立ち上がった。
「それじゃあ儂らはこれからちょっと日課をこなすでな。寝るなり好きにしておれ」
「……? ありがたく」
「ではな」
金時老人は小屋を出ると、深い森へと消えていく。
「日課……?」
気にはなったが、とても追う程の気力は残っておらず、佐江は横になるとすぐに寝入ってしまった。
何かが頬をつつくような、ムズ痒い感触を覚えながら佐江は目を覚ました。
耳元から小鳥が飛んでいく。佐江を起こしたのはこいつらしかった。
まだ疲労は残っているが、昨日に比べれば幾ばくかマシだ。軽く飛んでみるが、昨日とは雲泥の差だ。
小屋を出て、『麗羅』を手元に精製し、軽く素振りをする。
(三瞬!)
同じタイミングで、三回同時に敵を突くこの技は、佐江が独自に生み出したものだ。今までこれで破れなかった相手は士道を除けばいない。
(腑抜けに負ける訳にはいかない)
一突き、一突きに気合が入る。
するとそこに金時老人が帰ってきた。
服はやけにボロボロになっており、所々擦り切れていた。
「お、やってるのう。それじゃあやろうか」
「はい」
金時老人は振り返り、後方にいるらしい銀助に声をかける。
「おい、銀助。今から嬢ちゃんと組手をやるんじゃ」
「なんで!? 俺はもう誰とも戦わない、争わない、競わないって決めてんの! あとめんどくさい!」
そう言って姿を現した銀助に佐江は驚愕した。
目元にクマ、身体は擦り傷まみれで、息を切らしている。
「何を、してらしたんですか?」
「組手、夜通しじゃがね」
「夜通し組手!? そんなの聞いたことありません!」
「そりゃ普通はやらんからのう」
金時老人は疲れた様子で、その場に腰を下ろす。
「師匠! 俺、やらないからな!?」
銀助が駆け寄るが、金時老人はどこ吹く風だ。
「実はな?」
金時老人はどんな約束をしたのかを簡潔に説明した。
「いやふざけんなよ! 俺、絶対嫌だからな!」
「別に構わんが、その場合儂がお前を気絶させて都まで運ぶぞ。そうなったらもう大変じゃ。今よりもっと戦わなきゃならん。ところが今嬢ちゃんを倒せばそんなことは無い。好きにいつも通り、これまで通り過ごせばいい。さて、どうする?」
「ぐっ……汚ぇ」
銀助は不満げに吐き捨て、しばしその場で考え込んだ。
そして、
「分かった! やる! ただもうこれっきりだ! 」
渋々だが、銀助はやる気を出したようだった。
しかし佐江はそのやり取りを聞いてすらいなかった。
(同じだけの疲労を背負ったつもりか? 舐められているのか私は? あの腑抜けに?)
怒髪天を突くとはこのことだった。
どうしようもないほどに腹が立つ。これほどの不愉快、生まれてこの方味わったことはなかった。
「……やりましょう。ただし、場合によっては命を奪ってしまうやも知れません。そのこと重々承知のほどお願い致します」
「それじゃあ庭に行こうか」
庭は十間(約18メートル)四方で、なにも植えられていない、庭というより空き地という表現が正しかった。
「それじゃあ向かい合って立つんじゃ」
怒りを通り越し、殺意すら抱いている佐江のことも露知らず、銀助はさぞかし嫌そうな顔で佐江の向かいに立つ。
「銀助……殿。殺されぬよう、せいぜい身を守って頂きたい」
「……なんでそんなにやる気まんまんなんだよ」
零す銀助。怒る佐江。
二人の間に立ち、そして金時老人は高らかに手を振りあげ叫んだ。
「組手開始ッ!」