宿願
特別な日は、唐突に訪れる。
努力して積み上げてきた結果が、どうしようもないほどの悲劇を生む事。
それを俺は理解していなかった。
彼女はそっと俺の横で、泣いた。
だから言ったのにと囁き、泣いた。
彼女は言った。未来などない。だからせめて幸福な今が欲しいと。そのためなら何でもやると。
そして死んだ。呆気無いほど簡単に。
人生で最も鮮明に記憶している試合はなんだろう。
何故だか分からないが、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。1年ながらマウンドを任され先輩を甲子園に連れて行けなかった屈辱の試合か。それとも今年2年になりその雪辱を果たした試合か。違う。2年前だ。
出会った時から感じていた。この男こそ俺のライバルだと。その男、今西球児を打ち取った試合だ。
2年前。関東シニヤ野球大会決勝戦。あの日の試合は鮮明に覚えている。あれに勝てたからこそ、俺は今私立明星高校のエースとして立っている。俺の宿命はあの日から、始まったのだろう。
甲子園。その舞台に立ち、そして頂点を勝ち取る。それは日本球児なら誰でも1度は志す夢。それは俺にとっても夢だった。その夢は抱いたころはあやふやな幻想に過ぎなくて、それでも日々の練習。苦汁を舐めた試合。やっと掴み取った勝利。その小さな1歩。その積み重ねで、やがて輪郭を持ち、確かな熱量を持ち、明確な結果。そう2年前の結果。そうして今俺は、明星の背番号1番を背負っている。あまりにも重く、重圧に押しつぶされそうな程、意味のある番号。この背番号を背負った瞬間から、俺の夢は夢から、宿願へと形を変えた。叶えたいのではない。叶えなければならないのだ。
普通の高校生活なんか求めてなんかいない。この夏、友人と駄弁り、昼間で惰眠を貪り、夜更かしに精を出し、夏の空気に当てられて彼女が出来たり。そんな普遍的な青春など捨てたのだ。結果だ。結果が欲しい。優勝という結果それ以外は何もいらない。そうじゃなきゃ病に伏せ、共に戦うと誓った親父に顔向け出来ない。この夏の主役は俺たちだ。この座は誰にも譲らない。
「集合!」
ロッカールームから立ち上がる。監督の指示を聞くために、主将の掛け声で集まる。
「今日は甲子園初戦だ。難しい事は言わない。いつもと同じ事をやる。甲子園だからと言って気持ちを昂ぶらせ過ぎるな。お前達の努力は俺がよく知ってる。だから結果だ。お前達の努力は結果を出さなければ評価されない。そういうもんだ。だから勝て。明星にとって初戦突破は悲願でも何でもない。ただのノルマ。通過点だ。いいな?」
「はい!」
「それじゃあメンバーを発表する」
そう言って監督は、打順を発表していく。
「4番キャッチャー水野」
「はい!」
坊主頭の、(と言っても俺を含め全員坊主頭だが)男が返事をする。水野悟。俺の親友でもあり、長年バッテリーを組んできた相棒だ。今年やっとの思いで、正捕手の座を掴んだ。
そして打順は9番を残すのみ。
「9番ピッチャー葛西」
「はい!」
自分の名前が呼ばれる。バッティングは苦手だ。だが俺にはピッチャーの才能がある。それだけを信じてここまでやって来たんだ。
「最後に葛西。相手は強打の札幌南だ。甲子園での実績もある。だがこの試合完璧に抑えてみろ。お前なら出来る」
「はい!」
胸が熱くなった。これは期待の現われだ。プレッシャーはかかる。けどそれとは比べ物にならない程、体の熱量が増している。今日は完璧に投げれる。そう確信した。
試合まで残り僅かとなり、ベンチに移動し、守備練習を行う。その間ピッチャーの俺は最後の肩慣らしをする。左手から放たれる球は、やはり調子がいい。誰にも打たれる気がしない。
ベンチに戻るとマネージャーから声をかけられる。
「塁君。ちょっといいかな?」
声を掛けてきたのは丹野美優だった。俺の幼馴染で、こうして今もサポートしてくれている。
「どうした?美優」
「うん。少しだけこっちに来て」
そう言われて美優について行く。ベンチの置く、ロッカールームへと続く道で美優は立ち止まる。
「どうしたんだ?美優」
「うん。ごめんね。もう試合始まるのに。でも聞きたいことが2つだけあって」
「2つ?」
1つは予想出来た。だがもう1つは何だろう。検討もつかない。
「1つは分かってると思うけど、甲子園の前に約束したこと覚えてるよね?」
「ああ。忘れてないよ」
甲子園が始まる前。美優にこの大会が終わったら話したいことがあると言われた。予想は出来る。だがそれは今考えることじゃない。
「そっか。よかった」
美優は優しく微笑む。その顔を見ただけで、頑張ろうと思える。
「そしてもう1つなんだけど、塁君」
美優は真剣な表情で。
「野球は好き?」
そんな当たり前の事を聞いてきた。
「集合!」
主将から号令が掛かる。もう行かなきゃ。その前に彼女の心に立ち込める霧を晴らしてしまおう。
「ああ。もちろん。野球大好きさ」
「そっか!よかった!」
美優は心の底から安堵した表情を浮かべ、笑った。
集合が掛かって監督から最後の指示を伝えられる。
「もう今更言うことはない。勝て。それだけだ」
「はい!」
試合に出る9人。それとベンチで出番を待つ9人。そしてベンチ入りすら叶わず、スタンドで見守る87人。そしてマネージャー陣。全ての総意に違い無かった。
「円陣組むぞ!」
主将を囲むように肩を組み円を作る。俺の左隣には悟がいた。主将の激が飛ぶ。
「俺たちは誰よりも努力してきた!誰よりもこの夏に掛けてきた!それを証明する!俺たちが最強だと証明する!そのための舞台だ!俺たちが主役だ!誰にもこの座を譲るつもりはない!結果だ!明確な結果!俺たちが圧倒的だと証明するぞ!」
「おう!」
声が1つに。気持ちが1つに。
「絶対勝つぞ!!!!!!!」
「おう!」
円陣は終わった。勝つ。それだけだ。左隣の悟に声を掛けられる。
「やっとだな」
「ああ。やっとだ」
思い返せば長かったような気がする。様々な障害。様々な苦境。それを俺たちは乗り越えて来たんだ。
「絶対優勝しよう。そのためにまず目先の1勝だ」
「ああ。分かってる。頼むぜ。相棒。今日の、いやこの夏の俺は相当イケる」
悟は高揚感を隠せない表情で。
「任せろ。何年お前を見守ってきたと思ってる。だから全力で来い。相棒」
「整列」
審判の掛け声でグラウンドに向かって駆け出す。始まる。長い長い夏が始まる。そう確信した。
そして頭の隅、その僅かな部分で、あの男。今西球児は今どこで何をしているのだろうと思った。