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壁の庭  作者: 百瀬 和海
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 小さな円形の部屋は依然として三原色で斜線模様が描かれている。凝視をしていると目が痛む。室内に日光を与えないカーテンを尻目に、シャルは一番奥にあるベッドに近寄る。

 すぐにベッドへ潜り込んだ。間髪入れずに眠気が襲ってきた。戦う気など元より無く、呆気なく身を委ねた。


 ここは夢の中だ、とシャルには直ちに分かった。

 真っ暗闇な空間にシャルだけが突っ立っていた。足場は海面みたいに小さく波が出来ている。

 身体が異様に軽く感じる。うつむいて自分の姿を確認してみる。服を全く着ていない。裸では無いが全身が白く透き通っている。

 今ここにいる自分は魂なのかな、とシャルが思っている時だった。真っ黒い海からぶくぶくと気泡が発生する。

 海と混ざり合ったような、液状の身体をしたケルンが浮き上がってくる。

「受け入れることが大事なんだ」ケルンの声が言ってくる。

「ええ、それは理解したわ」とシャルは応える。

 それを聞き、ケルンの身体の所々が屋根から滴れる雨のようになって、真っ黒い海に吸収されていく。

 ケルンの体が泥のように崩れる。すると、今度は液体状の中年女性が浮かび上がってくる。これにはケルンの声では無く、シャルの声が当てられていた。

「あなたは、重要な鍵を手にしているのよ」

 喋っている顔は中年女性なのに、声は自分のもの。凄まじく違和感があり、心臓がロープか何かできつく縛られているようだった。

「あなたは、誰? どこの世界の、いつのわたしが知っているの?」

 中年女性は答えない。ただ、顔が少し歪みだす。元から年相応のしわがあるのに、歪み始めると顔が若干若返っているように見える。

 この中年女性の、「自分が知っている頃の顔」が混ざり出しているのだとシャルは気付く。だが完全に変化はしてくれず、そのまま黒い海面に溶けていってしまう。

 また、ケルンが姿を見せる。

「この世界の方が元いた世界より全然良い所じゃんか。それでも、無理やり戻りてぇのか?」

「……分からない」

「しっかりとした答えが出せないから保留ってか? 冗談じゃねぇ、俺はそんなに気長じゃないぞ」

「わたしは、どうすれば良いの?」シャルはついついケルンにすがってしまう。

「知るか。お前が決めることだろ!」

「わ、わたし、わたし、は……」

 シャルは下を向きながら、しどろもどろに言葉を探す。

「早く決めろよ、弱虫」

 ケルンの言葉を聞いたシャルはすすり泣いていた。子供の頃の顔で涙や鼻水を垂れ流している。

 ふと気が付けば、身体も子供の頃に戻っている。リボンを付け、前髪は一直線に揃っている。

 あどけない顔のシャルが母親と父親の手を握り締め、三人で公園内を歩いている。辺りにもたくさんの親子連れがいる。サッカーで遊んでいる父と子や、レジャーシートを敷いて手作り弁当を食べている家族の姿がある。そんな中、シャルは父親とバレーボールをしている。ゴム製のボールは良く跳ねた。母親は少し離れたベンチに座っている。シャルが時々手を振ると向こうも手を振ってくれる。

 そんな、幸せな風景。


 瞬く間に風景が変わった。家の中だった。家族三人だった頃と違い、古臭い家内になっている。自分の体は先程よりも少し成長している。

 玄関のチャイムが鳴った。やつれた頬をした母親が帰宅した。

 父親が死んでからは母親が女手一つでシャルを養っている。仕事と家事を両立する母親は、疲労の蓄積が顕著に現れていた。


「シャルちゃん、よろしくね」

 叔母の声だった。両親とも死に、叔母と叔父に養子として迎え入れられた時の風景に変わっていた。

 自分の体もかなり成長している。格好や髪型もしっかりと思春期らしく意識し始めているのが分かる。

「シャルちゃんの母親のようにはなれないけど、精一杯頑張るからね」

 叔母の覚悟の入った台詞。それからのシャルは叔母や叔父を受け入れられず、家族のように接することが出来なかった。

 そんなある日だった。シャルの大事にしていたゴムボールが捨てられてしまった。大事に残しておいた、両親との思い出が詰まったゴムボールだった。

「どうして捨てたのよ」と泣き叫ぶシャル。

 叔母は何度も謝ってきたがシャルはそれを許せず、家を飛び出した。


 そして、シャルは海のほとりを歩いている。灯台の光と海道に設置された電灯だけが薄らと足元の砂浜を照らしている。

 夜中だった所為か、辺りには人っ子一人いない。世界に自分一人だけしか存立していないような、そんな孤独感が襲う。

 海気はひんやりとしている。シャルは空き缶などのごみに注意しながら砂浜に腰を下ろす。静寂の中で唯一の音を発している夜の海を眺めてみた。真っ黒い海上が大きな口を開け、うねり声を上げている。油断をすれば、すぐに飲み込まれてしまいそうな雰囲気が漂っていた。

 肌寒い海風が吹いた。シャルの髪を波のリズムに合わせて小刻みに靡かせた。

 粟立つのと同時に、何故か温もりを感じた。

 海は全ての生命の母親で、その胸に飛び込めば、例外なく我が子を優しく抱きしめてくれるのではないか。

 そう考え始めると芋づる式に記憶が蘇ってきて、目頭に熱が溜まり始める。手招きする海の中に両親がいるような気さえしてきた。

 シャルは砂浜から腰を上げる。スカートの尻に付いた砂をはたき落とさずに、そのまま海に向かってふらふらと足を運びだす。

 波跡を越える時、最後のチャンスと言わんばかりの突風が吹いた。揺れる前髪が視界を悪くしたが、シャルは気にすることなく歩き続けた。

 渚が目前にやってくる。生まれる前に戻るようで、身に纏っている全ての衣服を脱ぎ捨てた。

 冬なのに、体の全てを撫でる風が温かく感じた。快楽を味わっている気分すらした。

「ママぁ、パパぁ」と幼かった頃のような声で呟きながら、水際(みぎわ)の中に体を入れていく。


 夢から覚めると、目尻から頬にかけて湾曲を描くように何かが伝っていた。頭で考えるよりも先に右手がそれを拭っていた。その数秒後になって漸く涙だったと気付く。

 全身が汗だくになっており、寝間着が肌にべっとりと張りついている。

 気持ち悪かったのでシャルは湿った寝間着をベッド横に脱ぎ捨てる。どうにもそれだけではすっきりしそうも無かったので、シャワーを浴びることにした。

 シャルは浴室の扉を開けながら、海で自殺する直前にも服を脱ぎ捨てたことをぼんやりと思い起こす。

 蛇口の水がなかなかお湯にならない。苛立ちを覚えつつ、吐息を頻りに吐き出していた。

 憂鬱が糸状となって、脳内で複雑に絡み合っている。自分の過去を思い出してしまったのもその一因だが、何より今の自分が何者なのかが気になって仕方がなかった

 自分は死んだ筈なのに、生きている。何で助かったのか。それとも本当に死んでいて、ここは天国だったりするのだろうか?

 しかしすぐにシャルは、こんな色彩感覚のおかしい天国ってのも嫌だな、と肩をすくめる。

 とにかく、自分自身で元いた世界を放棄してしまったのにまた戻りたいと駄々をこねるのは、利己主義にも程があるのではないだろうか。

 そもそも、あちらに戻った所で何か良いことがあるというのか。こちらの世界にいた方が幾分か幸せではないだろうか。

 ふと、シャルの耳に何かが跳ねる音が侵入してきて思考を遮られた。既に湯気が浴室内を存分に包み込んでいた。手のひらには蛇口から流れ落ちる湯水の温もりがある。

 ああ、お湯になるのを待ってたんだっけ、と今更思い出す。室内に充満するもやもやは、今のシャルの心が形となって現れているようだった。

 今は考えれば考えるほど、頭がこんがらがってしまいそうだった。シャワーから飛び出てくる温もりを全身で受け止めながら、ただその気持ちよさのみに意識を向けた。

 肌触りのよい川の本流が頭から首筋を流れ、肩の辺りからたくさんの支流となり全身へ広がっていく。そして、最終的には足元の浅瀬に混ざる。

 汗と一緒に全ての深憂を連れ去ってくれればどれだけ幸せだろうか。シャルは小さく願った。


 バスローブしか羽織っていないが、まだ体が火照っている。シャルは浴室付近にある冷蔵庫を覗いてみた。紫色のコップを使い、牛乳を喉へ通した。

 ベッドへ向かう時、星空のカーテンに目を配っていた。全く日光が入らないのだから、現在が何時なのかは分からない。

 そこで、ふとシャルの頭の中にあの言葉がよぎった。

「もう、八時だよ」

 おそらく昨朝、ピサがシャルを起こした時に言った台詞だ。

 この世界に朝昼晩は無い。時計なども無く、時間帯という概念は存在していない。

 なのに、ピサは『八時』と言った。毎朝一緒に食事をするのが習慣だと言っていたこともシャルには引っかかった。「毎朝」とは、何を定義して言っていたのか。いつも同じくらいの時刻に目が覚めるから、だろうか。朝昼晩が見た目で判断できない世界において、予期せぬ事態が訪れたとしたら、果たして修復は可能なのだろうか?

 まさか、機械のように体にタイマーがセットされていて、一秒たりとも計画が狂わないようにプログラミングされているわけでも無いだろう……。

「やっぱり、この世界ダメだ」

 自然と言葉にしていた。シャルの内側で、ガラス玉のようなものが勢いよく弾けた。胸の鼓動がどんどん加速していく。

 この世界には穏やかな幸せが溢れていて、元いた世界には苦痛しか残っていないのかも知れない。端から見る人間には、「馬鹿だな」と揶揄(やゆ)されるかも知れない。

 だが、この世界に馴染んでしまったら、何かとても大事なものを失ってしまうのではないか。シャルにはそんな気がした。

 この世界の真相は掴めなかったし、中年女性の正体も全然分からず仕舞いであった。しかし、シャルはそれでも良かった。どこからか湧いてきた自信に満たされている。ケルンと共に、即刻この世界から脱出しよう。

 仮に百歩譲って、ふたりは元の世界に戻れなかったとする。この狭い世界で一生涯を終えることとなり、いつの間にか何か大切なものが錆びていき、シャルの体から剥がれ落ちていくのかも知れない。

 それでもシャルは、後から「こんなことやらなければ良かった」などと後悔しないことを誓えた。

 先程まで凍てついていた脈が、今は弾んでいるのが分かった。清々しさすらあった。

 シャルはすぐに外出用の衣服を身に纏う。早く早く、と心臓の鼓動が急かす。

 しかし、レバーに手をかけた所で動作が止まる。

 ピサが起こしに来ないことからして、おそらく今は夜中なのだろう。いくら外が白昼の景観のままでも、ケルンがこの時間にひとりで公園にいるとは考えにくかった。

 だがそれでも、シャルはレバーを傾ける。

 もしベンチにいなかったら、ずっとそこで待ってればいいんだ。このまま睡眠に入ってしまったら、今のこの熱い気持ちがどこかに消えてしまう。

 シャルが勢いよくドアを開ける。なだらかな階段が先に見える。

 覚悟を帯びた力強い眼差しで、シャルは最初の一歩を踏ん切った。


 シャルが外出し、部屋の中は閑静に満ちていた。開かれた扉が、年代物らしい枯れた唸り声をさせながら、ゆっくりと元の位置に戻る。

 すると、扉に電子掲示板のようなものが、無音で薄らと浮かび上がってくる。

 大量の文字が、画面を覆い尽くした。

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