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近付く程に世界の壁は巨大になっていく。質素ながらずっしりと構え、シャルを出迎えた。
正確には、シャルはまだ壁に触れられる距離までは到達していない。世界の壁が発散する不気味な霊気が、シャルの頭を撫でてきたのだ。
この壁の先には、別の世界がある。自分の元いた世界が、待ってくれているかも知れない。
辺り一面に広がる緑の風景は堂々とその場に留まり、ただただ巨大な壁だけが大きくなっていく。
壁の先には神異で美麗な青空が広がっている。確かにこちらとは違う。しかし、本当に乗り越えただけで「別の世界」に移動したことになるのだろうか。
シャルはふと緑の芝生の中に赤い色を見つけた。互いに補色を為していて、くっきりと目に立つ。慎重にそこへ歩を進め続ける。
芝生に幅広の赤い線が引かれている。それは世界の壁のように、どこまでも横へと広がっている。
シャルは一旦歩みを止め、辺りを見渡した。無知な世界では観察を怠れない。致命的な失敗を起こしかねない。
赤い線を越えた少し先に穴があるのを発見した。人ひとり入れるくらいの穴が、緑の芝生の中に見事に紛れ込んでいる。一つや二つでは無い。散在している。落とし穴だろうか。
今時、こんなのに引っ掛かるわけ無いでしょ。シャルはそう高を括り、再び歩を刻み始める。
シャルの右足が、赤い線を越えた先にある緑の芝を堂々と踏み締めた。別段、問題は発生しない。
やっぱり、単なる思い過ごしだったのね。世界の壁は、もう目と鼻の先だ。
シャルは世界の壁を間近で見上げてみる。背はマンションの三階分くらいはありそうだ。
「世界」なんて大それたものを区切る境界線が、マンションの三階分程度の高さとは。やけにお粗末ではあるが、シャルの地力で登りきれるものでは無い。
そんなぁ。シャルは長嘆息する。何か他に方法は無いのだろうか、とその場で考え始める。
レンガ色の壁は垂直にそびえ立っており、人間の手で登るなど不可能だろう。当然、はしごやロープなどは掛かっていない。
シャルは、このまま壁に沿って歩いてみようかと思いついた。水平にずっと横へ続いてはいるが全ての箇所が同じ高さとは限らない。もしかしたら、人が乗り越えられる程の極端に低い場所があるかも知れない。
小さな希望を抱きながら、シャルは壁と平行に歩き始める。
その時だ。
突如、背後に気配を感じた。シャルは間髪入れず、体を後方に捻る。
そこには、二足歩行で二メートルほどの大きな図体を持つ、熊と人間を足したような黒い生物がいた。
全身の黒色の中で、銀眼が不気味にぎらぎらと輝いている。しっかりと、シャルの姿だけを捉えている。
「な、なによ!」
後退りながら、シャルはか細い声で精一杯に威嚇した。
だが黒色の生物に通じることはなく、こちらに堂々と悠然とした足取りで近寄ってくる。
自分の半分くらいの背しか持たない紫色のパルテノン。今は対称に、眼前には、自分を鳥瞰するように目線を下ろす黒い大きな奇形生物がいる。
シャルは小刻みに身震いをした。総身に粟が生じた。汗が、こめかみの熱を冷ますように出てきては頬へと伝った。
黒色の奇形生物はじりじりと、確実にシャルとの距離を詰めてくる。
威嚇や警戒といった様子など一切見せず、ただゆっくりと事務的な態度で足を運んでいる。
シャルは倉皇としながら、震える両脚へ精一杯に力を込め、素早く後ろへ動かした。
焦燥感の所為か、なだらかな芝生に躓いた。
体が一瞬、宙に浮いた。地に足がついていない、人間と一生を共にする重力から免れたような不思議な感覚だった。
「きゃッ」背中と後頭部に電流のような痛みが走り、肌には芝の冷たさが伝わってきた。
途端に、造られた蒼空が視界の一面に広がった。そこに大きな黒い塊が割り込んでは影をつくる。
影の中に光る銀眼の鋭さは先程から微々たる変化もせず、シャルの怯える顔だけを映し出している。
激しい呼吸の波音を口内に留められない。心臓が早鐘を打っている。
「や、やめて! なにするつもりなの!!」
銀眼の魔物が作りだす暗闇が、シャルに覆い被さる。気が付けば、体が宙に浮いていた。
黒い生物に抱きかかえられていた。異常な腕力だった。
やめて、と叫び声をあげながら、シャルは必死に黒い生物の腕から逃れようとじたばた抵抗した。
しかし、黒い生物の腕は微動だにしない。まるで、無機質な機械にがっちりと固定されているようだった。
黒い生物は事務的な動作で付近の穴まで静かに歩み寄る。
これから何が起きようとしているのか。ようやくシャルは理解した。
黒い生物は穴のすぐ手前で立ち止まり、腕を伸ばす。シャルの体は、穴の真上にある。黒い生物の立派な太い腕だけが支えとなっている。
シャルが再びじたばたと暴れる猶予も与えずに、黒色の生物は腕を大きく広げた。
シャルの意識は、身体と同じように、深く真っ暗な奈落へと落ちていった。