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木のドアは想像以上に軽く開き、軋む音が響いた。部屋から出ると一直線に緩く下る階段があった。その先に扉らしき物が見えるがそれなりに距離がある。
ここの壁も光の三原色で塗られたものだった。シャルの部屋とは違い、縦線のきらびやかな模様が描かれている。
窓はひとつも設置されていない。ここは、地下なのかも知れない。
人が住む場所というよりは、監禁場所と考えた方が理屈も通っていてしっくりとくる。
シャルは部屋の中にいる時、カーテンを動かそうとしたが微妙だにさせられなかった。何かが引っかかっているのではないかと、カーテンレールを見上げる。本来レールがあるべき場所には、何も無かった。
金具も付けられておらず、まるで、天井から床に向かってシルクのカーテンが生えてきたかのように繋がっている。
ピサは、最初から完全に固定されていると言った。元からそういうデザインなんだ、と。
カーテンの横から窓を覗く。窓にはシャッターが下りていた。これも固定されている。外に出なければ、日照を拝めないらしい。
次の部屋も円形でカラフルだったが、シャルの部屋よりは大きかった。中央には巨大な螺旋階段があり、部屋の半分以上を占めている。
天井や床にもそれを通す為の巨大な穴があけてある。実は円筒形ではなく、ドーナッツ型の部屋なのかも知れない。
「このアパートの階段だよ」
「ここ、アパートだったの?」
「うん。無駄に大きいけどね」ピサは誇らしげに胸を張っている。
確かに、シャル達が入ってきた扉以外にもいくつかある。螺旋階段を挟んで反対にひとつ。左右にもふたつある。東西南北に設計されているようだ。
「ここは三階なんだよ」螺旋階段の中央部分を少年が指差す。そこには数字で「3」と書かれた看板が吊されていた。
無駄に大きな螺旋階段を下りる。閑散とした空間に足音が響く。途中で、また広い空間が現れた。
やはり東西南北に扉があり、看板には「2」と書かれている。これが、ここでの「階」なのだろう。
やがて「1」と書かれた看板が現れるが、広い空間は無かった。落莫とした狭い空間に質素な扉がぽつんとあるだけだ。
扉は木造だが、少し重みがあった。レバーを右手で引き、左手を扉に添えて、押す。すぐに、柔らかな日差しがシャルに降り注いだ。
絵本のようなデザインのアパート。その外には、やはり絵本みたいな光景が広がっていた。十二色の絵の具で色づけしたかのような、シンプルな色のみで構成された世界がそこにはあった。
緑の芝生が辺り一面に広がっている。茶色の巨大な樹木のような物がいくつも広い間隔を空けて佇んでいる。枝条と比べると樹幹はとても大きい。振り返れば、視界に入りきらない程の巨木がそびえ立っていた。
「このアパートは巨木をイメージしてるんだよ。僕達はさっきまで、この中にいたんだ」
ピサの声には感情が籠もっていない。もう、「当たり前過ぎる」のだ。
巨大な樹幹に螺旋階段や部屋などの全てが入っているのだと、ツアーコンダクターさながらの丁寧な解説をされた。
「これで、少しは謎が減ったでしょ」とウィンクをしてくる。なるほど、とシャルは頷く。謎が余計に深まっただけだった。
ミステリーツアーならばきっと、両の手を叩いて大いに歓声があがるだろう。シャルは、自分の頬を両の手で強く叩いてやりたかった。それで、いつものベッドの中で目を覚ませたならばどんなに幸せだろうか。
シャルは改めて巨木型のアパートを見上げる。この中に人の住処があるんだ……。北欧神話に出てきたユグドラシルを思わせる。
空は色紙なのかと錯覚させる程の完全な水色。その中に、羊を連想させるもこもことした真っ白い雲がある。形も大きさも、全ての雲が同一だった。
「この空、作り物?」シャルの人生においてこのような青空はあり得なかった。
「うん」ピサの表情が沈む。明るい景観とは不釣り合いだった。
ピサはしばらく黙り込んだ後に、「凄く綺麗でしょ」と言う。笑ってはいるが瞳は陰ったままで、シャルには空元気に思えた。
遙か彼方に壁が見えた。ずっと真横に伸びている。シャルは精一杯に首と眼球を動かしたが、切れ目は発見できなかった。
「あれが、『世界の壁』だよ」既にピサの表情は明るく、心情は読み取れない。
「世界の壁って、隣国との境界線ってこと?」
「いいや。そもそも国なんて概念は存在しないよ」
「国が無い?」シャルには全く意味が分からなかった。国が無いなど、あり得ない。あの世とかいうわけ、と半ば投げやりに言葉を吐く。
「ここは、そのものが『世界』なんだ」
「セカイ?」シャルはまるで初耳だったかのように片言で尋ねる。
「そう、世界。とても平和なんだ。」
「ここ以外にも、世界があるってこと?」
「うん。いくつも存在する世界のうちのひとつ。壁で区切られた世界。ただし、ここは外界との交流を完全に切ってるんだ」
シャルが目を大きく見開く。「外界、交流」と、定期試験を控えた学生が単語を暗記するように繰り返して呟く。
ピサはそんなシャルの様子を見て、「僕も外界については知らないよ。行ったこと無いんだから」と先手を打った。
「外部との交流を断つなんて、まるで鎖国みたいね」シャルが皮肉るが、少年はぽかんとした表情でいる。
「サコク?」
「わたしの祖母が日本人でね。昔、教えてくれたの」
「ニ、ホンジン?」間違えた発音で、ピサが訊いてくる。
「ジャパンのことよ。アメリカにべったりしてる。まさか、それも知らないの?」
案の定ピサは「アメ、リカ?」と知らないようだった。
日本や米国すら遠い存在とは。自分が生きてきた世界とは全くの別物であることを、シャルはいよいよ実感してくる。