14
エレベーターの動きが止まった。網目の隙間には「部屋」があった。沢山の書棚にはびっしりと本が詰めてあり、中央の小さな丸型テーブルには灯の点ってない新品らしきろうそくが二つと書類の束が載っている。
どうやらこの部屋は書斎のようだ。あまりにも生活感が埃のように所々に残っており、今でも誰か人が住んでいそうだ。
紳士やピサたちを統べ、自分たちを弄んでいる黒幕張本人の部屋なのだろうか?
「この部屋でのんびりとくつろぎながら高みの見物をしているのかもな。良いご身分なことだ」ケルンが舌打ちをする。
果たしてここが本当に黒幕の部屋なのだろうか。それにしたって、エレベーターでここに繋がる意味が分からない。黒幕が高みの見物をするような人間ならば、それは臆病者であり、あくまで自分たちとの接触だけは避けたい筈だ。
それなのに、この部屋は一直線に辿り着いてしまう。自分たちがこの部屋に来ることはやはり相手側にすれば、規格内なのだろうとシャルは思った。
だが何にしろ、先ずは目の前にある書斎らしき部屋を色々と探索してみる必要がある。自分たちの現状がどれ程不利なのかはそれから考えればいい。
それなのに、本来開く筈のエレベーターの扉がずっと沈黙を続けている。
「やけに長く閉まってないか?」ケルンが訊いてくる。シャルは頷く。
ケルンが試しに「閉」のボタンを押してみる。何も反応がない。長く押してみても変わらなかった。
その時、書斎の奥の扉が女の呻き声のようなけたたましい音を立てて開いた。シャルとケルンの目線がそこに向かう。
黒い塊がずっしりとした足取りで書斎に入ってきた。シャル達はすぐに例の「熊みたいな生物」だと気付いた。
それと同時に、冷徹なエレベーターの扉がきりきりと悲鳴を上げながら開いた。先程扉が閉まった時は全くこんな音などしなかった。
「畜生、試合のゴングってことかよ!」ケルンが怒鳴り声を上げる。
しかし、それは銀眼の生物の威嚇する声に掻き消されてしまった。書斎全体がバイクのエンジンみたいな音が支配している。
「わたし達を捕まえて、またあの公園に戻すつもりかしら」
「だったらまだ良いんだけどな」
二メートル程の黒い塊が二足歩行で書斎の本棚の隙間を進んでくる。世にも不気味な光景だった。
公園に現れた奇形生物と同じ姿形をしているが、中身は全くの別物だ。あちらは「侵入者を穴に落とす」という明確な理由を持って事務的な態度をしていた。まるでロボットのようだった。
しかしこちらは、餌を目の前にした獣の眼をしている。
シャル達は一先ずエレベーターから出るが、次の行動が閃かず困惑した。部屋の中は一般的な書斎の一点五倍くらいの広さはあるが、書棚以外に物が殆どなく、逃げ道がない。
黒い獣がよだれを床に撒き散らしながら立ち止まっている。シャル達の動きをしっかりと生気漲る銀眼で追っている。
来るぞ。
ケルンが声を発した瞬間、シャルの視界の中の黒い体躯が、何倍にも膨れ上がった。
シャルが己の身に降り懸かった出来事に気付いた時には、もう彼女の痩躯は散らばる本の上に転がっていた。
目の前にある、腐朽し始めた木製の天井の上を赤い飛沫のような物が通り過ぎた。それと同時に、シャルの頬に生暖かい感触が付着した。
シャルは自分の頬を腕で擦る。白い腕の中にペンキを垂らしたように赤い模様が加わっていた。シャルはすぐにその体勢のまま辺りに目線を走らせる。
すぐ間近に大きな本棚が二つ、お互いを支え合う形で傾いている。中身は全て飛び出し、本棚の真下に山を作っている。シャルは山の中に人影が潜んでいるのを発見した。瞬く間にそれがケルンだと分かった。
シャルが叫びそうになったのと同時に、別の本棚が中身があるにも関わらず勢いよく倒れた。書斎に地震のような大きな振動と音がした。
本棚が元あった所には、黒い化け物の姿が佇んでいた。どうやらシャル達の姿を見失ったようだった。
シャルは慌ててケルンの埋もれている本の山の方へ転がっていく。ちょうど本棚の影になっていて見つかりにくいだろう場所だ。
「シャル、俺が物音を立てて奴を引きつけるから、その間に本棚の影を通って脱出するんだ」本の山に埋まったケルンが小声で言った。必死に腕を伸ばし、黒い生物がやってきた入口の方を指差している。
「何言ってるの、二人で脱出するのよ。ケルンを残していける筈ない」シャルも囁くように言う。
「俺はこの通り、素早く動ける状態じゃない。この本の山から脱出するだけでも音を立てちまうから、奴に気付かれる。もう、俺は足手まといでしかないんだ。な、だからお前だけでも助かれ」
シャルは声が出そうなのを必死に抑えた。だが、瞼が熱くなるのを我慢出来なくなり、目から涙が溢れ出た。
シャルの顎から滴った涙がケルンの血だらけの腕の上で跳ねて散った。本の隙間から覗くケルンは、苦痛に顔を歪ませながらも、口の端をにっと吊り上げる。
「何度も言ってるだろ。お前が助かれば、それで良いんだよ。それだけが重要なんだ。他のプラスαはおまけでしかない。どうやらおまけを付けれる余裕はなかった、それだけさ」
書斎全体にまた鳴き声が響いた。地の底から届いたような迫力だ。シャルは涙や鼻水を拭うことができないまま震え上がってしまう。
熊型の奇形生物はその声を最後に、のっそりとした足取りで書斎を後にした。凶暴な口から落ちた生臭いよだれが、奇形生物の軌跡を床に残していった。
本棚の影からそれを確認したシャルはふと安堵から、その場に崩れてしまう。相変わらず涙や鼻水をだらしなく垂らしながら、ケルンの方に向き直る。
「お前が助かれば、それで良いんだよ、か。飛んだ茶番だったわね」シャルは声を詰まらせながらも屈託のない笑みを浮かべた。
「結果オーライさ」ケルンも笑った。
その後、シャルの助けによりケルンは本の山からの脱出に成功した。シャルはケルンが全身から相当量の出血をしていると予想していたが、案外右の二の腕を怪我するだけに止まった。
とは言え、二の腕からの出血は激しく、止血する必要があった。シャルは急いで書斎の中を探索し始める。
机の引き出しを片っ端から開けていき、カッターナイフを発見した。それを使ってカーペットの一部を切り取り、ケルンの傷口に巻きつける。カーペットの切れ端に赤色が染みていった。
今度はケルンも加わって、二人での書斎の探索が始まった。先の熊みたいな化け物が戻ってくる可能性があったが、何の対抗策もなしにこのまま進むよりは幾らかの情報を入手する方が有意義だという結論に至った。
書棚にある本や卓上の書類、黒い化け物の所為で床に散らばった書物にも目を通していく。いつあの熊がふらっと戻ってくるかも知れないので、ひとつひとつを書見している余裕はない。シャル達は本に関しては目次に目を通す程度にした。
机の上の書類をぱらぱらとめくっていたケルンの手が止まる。「おいシャル、これを見てみろ」
シャルは持っていた辞典ほどのぶ厚い本を棚に戻し、ケルンのいる机の方へ移る。ふと書類の束を握るケルンの右手に視線がいく。そこには真っ赤に染まった布が巻きつけられていて痛々しい。
「ほら、これだ」ケルンの綺麗なままの左手が一枚の書類を指し示した。
そこには絵本みたいな世界の大まかな地図がクレヨンで書かれていた。例の世界の壁の配置もしっかりと記載されている。
そして、紙面の上の端には大きな文字で『壁の庭』と書いてある。
「壁の庭」シャルとケルンは同時にその言葉を口にする。
しかし、その単語が何か自分たちの現状の助けになるかと言えば、全くそれはないので無視することにした。それよりも、この世界の地図に何か素晴らしい手掛かりはないかと念入りに調べたが、結局何も得られなかった。
今現在自分たちがいる地下の地図があれば、これ程役に立つものはないだろう。シャル達は再び書を漁り始める。
シャルは本棚の片隅に丸まっている萎れたファッション雑誌を見つけた。表紙を飾るモデルに覚えはなかったが、服装からして相当昔の雑誌だと推測できた。
雑誌の背表紙の所を調べてみる。色褪せていて更には染みだらけで読み取り難かったが、どうにか製造された年を確認できた。案の定、シャルが幼い頃の物だった。
これだけ堅固な部屋でこの雑誌だけが浮いている。この雑誌から有力な情報を得られるとは思わなかったが、シャルは中を開いてみる。
何ヶ所かはページとページが古くなったインクによって貼り付いていた。丁寧に剥がそうとしても破けてしまう箇所や、剥がせてももうインクがぐちゃぐちゃに滲んでしまって読めない箇所もあった。
雑誌の中でポーズを決めながら全ての歯を見せるよう笑うモデルたちは、皆同じにしか見えなかった。彼女たちの目元には何かが滲んでいた。
そうしてパラパラとページを捲り、シャルの手が雑誌の巻末の辺りまで近付いた時、ケルンが雑誌の上に手を載せた。「サボってないで手伝ってくれよ」
シャルの眉間にしわができる。「真面目にやってるから」シャルはそのまま雑誌を床に放り投げた。
結局、書斎から有力な情報は出てこなかった。二人は酷く落胆し、頼りないカッターだけを持って書斎を出る。部屋の外は廃墟の屋敷のように大きくて暗い廊下が左右に伸びていた。窓は全く付いていないようだった。ジッポーの灯りを走らせてみるも、廊下の端までは到達しなかった。
シャルたちは左右どちらに進もうか悩む。熊みたいな生物がこの辺りを徘徊している可能性が高いので、早く選択しなければならず、二人は焦燥感に駆られた。そんな時に僅かに左手から物音がしたので、二人は音を立てないように右の廊下を駆け始める。
十秒ぐらい経つと、走っているにも関わらず、背後から雄叫びだけが迫ってきた。化け物が走ってくる音はしないので、振り返りはしなかった。
雄叫びが一切聞こえなくなった頃には、シャルたちはどれだけ廊下を進んだか分からなくなっていた。廊下は主不在の書斎から出たときから何ら変化を見せていない。
自分たちの選択は果たして、正しかったのだろうか。シャルたちには分からなかった。ただ一つ言えるのは、左を選んでいれば、身を隠すなど不可能な場所であの化け物に遭遇していたという事実だけだ。
息をはあはあと弾ませながら、ケルンがいきり立ったように言った。「こんな殺伐とした廊下にずっといたら、いつあの熊に出会すか知れねえ。どこでもいいから、早く入れる部屋を探すぞ!」
その部屋が、熊との遭遇よりももっと酷い部屋だったら、どうするの? これ以上の混乱を避けるため、シャルは言いたくなるのを必死に堪えて走り続けた。