13
暗闇の海の中に、小さくて頼りない灯りがひとつ揺らめいている。その中には二人の男女がおり、閑静とした通路に足音を響かせていた。
数メートル先すら暗闇に沈んでおり、ライターの灯りで照らしても壁の模様すらはっきりとは視認できない。顔を近付けて凝視すると、ようやく見える程の漆黒の闇だ。
現に、ライターを持つケルンは壁に二回肘をぶつけている。そんな彼の後方を歩くシャルに至っては、思いっきり痩躯を衝突させたのが三回、肩と膝を二回、肘や手を一回、計九回壁にぶつかっている。
もしも灯りが無ければ、二人はお互いの顔を見ることすらままならなくなり、不安に支配されたシャルは、いよいよ発狂してしまったかも知れない。
今の二人には、この気弱なライターの灯りだけが頼りとなっている。
ふとシャルが足を止める。前方のケルンはそれに気付かず、どんどんシャルから離れていく。
「ねえ」シャルが呼び止めると、弱々しい灯りがこちらに引き返してきた。「シャル、どうしたんだ?」
「わたし達、やっぱり誘蛾灯に誘い込まれみたい」
「え?」シャルの発言を理解してないケルンは、素っ頓狂な声を出した。「誘蛾灯?」
「わたし達がこの隠し通路を使う……、いえ、きっと外界へ脱出すること自体、筋書き通りだったんだわ」
シャルは、苦虫を噛み潰したように唇と眉根を歪める。ケルンには、もう少しでシャルの目から涙が溢れ出てくるように思えた。一先ずシャルの両肩に手を添えるが、すぐに弾かれてしまう。
「ごめんなさい。ありがとう」シャルの眉毛がだらしなく萎れる。「何か大きな存在があるの。わたし達は、その上で踊らされてるだけなの」
「大きな存在?」
「人為的で大きな存在よ。どれほどの大きさかは分からないけど、紳士が何かしら絡んでるはず」
「ゴアが?」ケルンが目をしばしばさせる。すぐに「ピサとかも?」と付け足す。
「ピサは分からない。でも、紳士は絶対よ」
ケルンが表情を堅くする。シャルの目を見つめながら、鼻息を小さく立てる。「どういうことだよ」
「わたし、紳士にちょっとした罠を張ったの」
「罠?」
「今絵本の世界にいる人間は、誰も脱出を試みたことがないって話になった時よ。わたしが『ピサとか、わたしがアパートの前で会ったあの人も?』と言ったの覚えてる?」
ケルンは釈然としない表情のまま、ゆっくりと首を縦に振る。「ああ、確かそんなこと言ってたかもな。でも、それがどうしたってんだ?」
「わたしのその質問に対して、紳士はこう言ったわ。『ピサさんやソフィアさんもずっとこの世界にいる』って。ソフィアさんって言ったのよ」
ケルンの表情が歪む。「それがどうしたんだ? ソフィアって、あの背が高くて派手な服着たキイキイ声のおばさんだろ?」
「ええ、多分ね」
「多分?」
「わたしはアパートの入り口で一回きりしか会ってないの。その時は名前も聞かなかったけど。だから、紳士の言葉からあの人がソフィアさんだろうって判断したわけ」
「なるほどな。だけど、それがどうしたってんだ?」
「わたしがアパートでソフィアさんに会ったことをあの紳士が知っているはずがないの。紳士とは既にパルテノンのいる公園で別れているんだから」
「確かにな」ケルンがゆったりとした語調で言う。そして片眉を吊り上げる。「じゃあ、どうしてゴアはそのことを知ってたんだ?」
「ピサやソフィアさんから聞いた可能性が高いけど」
「じゃあ、それだろ」
「それにしたって、把握し過ぎよ。不自然なほどに。よく考えてみて。この世界での『夕方』に例の公園でわたしとあなたがベンチに座っていて、そこにピサと紳士がわたしを捜してやってきた。あなたと紳士に別れを告げて、わたしとピサはアパートに帰った」
ケルンは段々疲れが溜まり始めたのか、億劫そうに頷くだけだった。そのまま二人はまた歩き始める。
「それでアパートの前でソフィアさんに会った。でもその時のわたしはとても精神的疲労が激しかったから、彼女やピサを無視してひとりでアパートに入った。自室に辿り着くまでの間、ピサやソフィアさんがわたしを追い掛けてきた雰囲気はなかった。だからアパートの入口以降、わたしはピサやソフィアさんの動向を知らない。でも、彼らにとってもその時間帯は『夕方』だった。いえ、もう夜に近かった筈。ピサがわたしを起こしにきた時に『朝』と発言してるし、彼らにとっても『夜』は寝て、『朝』は起きるということになってる。わたし達と同じ習慣。だとしたら、ピサかソフィアさんのどちらかは夜だというのに、その出来事をわざわざ紳士に報告しに行ってることになるの」
ケルンが右手で柔らかな髪をごしごしと掻いた。呆れ顔だった所為で女っ気が少し霞んでいたが、それでも女性であるシャルの頬を紅潮させるだけの効力はあった。
「俺たちを紳士の家に連れていこうと、ピサが公園に来ただろ? と言うことは、ピサはアパートの件よりも後に、ゴアに会ってる。夜だろうがゴアとピサが会った事実が存在してる」
「でも、ピサが公園に来たのは夜中か早朝よ。わたしの部屋を覗いてから来たとしても、やっぱり紳士と会ったのは夜遅くから早朝の間。それに用事を頼んだのは紳士よ。通常なら紳士がピサの家に行くか、自宅にピサを呼ぶかする筈。だとしたら、あの礼儀正しい紳士が夜中に人の家を訪問するか或いは呼び寄せるなんて、やっぱり不自然よ」
ケルンはまだ何かを言いたげな表情をしていたが、両手を挙げ、ため息を大袈裟に漏らす。お手上げです、という意味のようだった。
「まあ何にしろ、シャルが言ってることが正しいと仮定する。纏めると、この世界にいる奴らは皆して俺らを監視し続け、ほんの些細な出来事があるだけでも紳士に報告を入れてる。そういうことか?」
シャルの目元に力が入る。「ええ、そういうこと。紳士が司令塔かは分からないけど。とにかく、あの落書きの世界の住人は、みんなグルよ」
そこでケルンが足の運びを止める。今まで同じ尺を保ってたケルンの背中が大きくなるのを察知し、シャルもすぐに止まる。
ランプで照らされたそこには、大きな鉄製の扉が佇んでいたいた。ケルンがゆっくりと灯りを近付ける。扉の表面に張り付いた埃を左手でささっと弾く。そこには旧約聖書の時代において、神への捧げ物とされていた羊の顔が彫られていた。
ケルンはそのまま数秒間動きを止めた後、肩をすくめた。そしてシャルの方にゆっくりと振り返り、苦笑する。
「どうもシャルの説が正しかったようだ。俺らに、『自ら誘蛾灯に飛び込んでこい』って言ってるみたいだぜ。たちが悪いな」
シャルは言葉を発せず、顎を引くだけした。ケルンがまたため息を吐く。
「シャル、どうする? まだ後戻りできるぞ。それでも誘蛾灯に突入するのか?」
シャルは心外だというように鼻息を漏らす。「出会った時からずっと何度も言ってるじゃない。わたしは元の世界に戻る。戻りたいんじゃない、戻るのよ」
ケルンはにやにやと笑いだす。「そりゃあそうだな。シャルが引き返すなんてあり得ないか。シャルのそういうところ、嫌いじゃないな」
「どうもありがとう」シャルが鼻高そうに笑う。
そうして二人は蝶番を片方ずつ持ち、羊のドアを思いっきり開け放った。
扉の先は行き止まりだった。
扉を開いた瞬間、僅か三メートル程前に壁があったのだ。左右にも平行な壁があり、面積九ヘイホーメートルくらいの正方形の空間がそこにあるようだ。
ここまでの道中暗がりが多かったとは言え、抜け道なんてものは一切なかった。そんなものがあれば絶対に気付くほど通路は狭かった。つまり、この正方形の空間は行き止まりではなく、『通過すべき正式な地点』なのだ。
「シャル、ここで待ってろ。俺が調べてくる」ケルンが先行してその正方形の空間に足を踏み込む。
別にこれほど小さい空間なら扉の前からでも調べられるのにとシャルは思ったが、ケルンの行動は早かった。真っ暗闇な箱の中で灯りが所狭しと走り回る。
シャルは不安から左手を胸に当てて見ていた。もしかしたらこれは開閉が自由な獣の口で、いきなりケルンが食べられてしまうかも知れない。
しかし、シャルがそうやって胸のうちをざわざわさせているのとは裏腹に、ケルンはえくぼをこさえながら箱から出てきた。「来てみろよ」
シャルはケルンに付いて箱の中に慎重な足取りで入る。箱の中は特に何かがある訳でもないように思えたが、入口側に振り返ると脇にボタンが一つあった。
ボタンは埃が付着してはいたが、その下にはカビや傷がほとんどないことから比較的新しい物だと判った。ボタンには「閉」という文字が刻んである。この正方形の箱はエレベーターなのかも知れない。
もしエレベーターだとしたら、他に「開」や階数のボタンがある筈なのだが、これには「閉」のボタンしかない。罠の臭いがぷんぷんするが、シャルには「閉」のボタンを押すしか現状打破する方法はなかった。
案の定、入口が鉄の扉で塞がれた。そのまま箱がエレベーターのように上昇し始める。それからしばらく、網目模様の扉の隙間からは下降していく闇だけが覗いていた。
シャルとケルンは言葉を一切交わさない。シャルにはまだケルンに話していないことがあった。ソフィアに見覚えがあることだ。これはシャル自身にも全く答が出せそうになかった。話したらケルンを混乱させるだけだと思い、胸のうちに閉じ込めておくことにした。
しかし、これが何かとても重要なことに繋がっている気がしてならなかった。