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壁の庭  作者: 百瀬 和海
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 寸分の狂いも無さそうな程の綺麗なキューブ形の通路が伸びている。埃だらけの鉄壁には一定の間隔で平行に木枠が埋め込まれており、そこにカンテラが引っ掛けてある。

 深淵に誘導するように薄明かりが奥へ奥へと続いている。誘蛾灯(ゆうがとう)を彷彿させる。

 礼儀正しき紳士に案内された地下は、秘密の通路としては見事な演出が施されている。幼児の落書きした地上とは、雲泥の差だ。

 本来こちらの方が普通である筈なのに、十二色の景観に身を置いていた所為で、シャルは感覚がおかしくなっていた。普通が普通ではなくなっていたのだ。

 初めから警戒心を解くなどという事はしなかったが、シャルは過剰なほどの懐疑を抱くはめとなる。

「まさに隠し通路って感じだな」ポケットに両手をねじ込みながらケルンが言う。

「しばらく使っておりませんでしたからね。ほら、壁に埃が溜まっているでしょう」

 そう言って紳士は人差し指で壁に一文字を描き、指先に貼り付いてきた埃をシャルたちに見せつける。ケルンは感心するように指先を見るが、シャルは一切そちらへ視線を向けなかった。

 シャルは、未だにこれが紳士の罠ではないかと用心している。だが、端から彼を信用するなどという選択肢が自分の中に無いのを分かってもいた。

 シャルは、葛藤の渦の中でひたすらもがき続けている。這い出るには、この世界から抜け出す他ない。

「大丈夫か?」ケルンがシャルの顔を伺っている。うん、とシャルは返した。

 ケルンはまだ晴れない顔をしている。「じゃあさ、笑ってみてくれよ」

「どういうこと?」

「もうすぐこの世界から脱出できるんだぜ。自然と笑みが漏れてくるもんだろ」

 シャルは顔を歪ませる。「あなただって笑ってないわ」

「もらい泣きみたいなもんで、お前のふくれっ面が移ったんだ」ケルンは軽く舌を出し、子供のようにいたずらな顔をする。

「そう言えば、『お前』じゃなくて『シャル』よ」

 シャルは、真剣な眼差しでケルンの目だけを捉える。彼にはしっかりと名前で呼んで欲しかった。

 ケルンは照れくさそうにポケットから出した右手で鼻の頭を掻き、急に何かを諦めたように口元を弛緩させる。

「悪い、シャル」

「良いのよ、ケルン」

 ケルンが真顔で言う。「シャル」

「ケルン」

 茶番じみた掛け合いが終わり、二人の間にしじまが流れ込んでくる。紳士も含め、皆がその場に立ち止まっている。古びた通路に灯された光は、もがくように天井へと揺らめいている。

 ふと、二人が噴き出す。互いがほぼ同時に異口同音で言った。

「変な感じ」

 シャルは右手で口を覆いながらくすくすと、ケルンは大きく口を開いて豪快に笑った。紳士は居心地悪そうな顔もせず、ただ二人をじっと見つめ続ける。

「そう言えば、元の世界にシャルそっくりな女がいたんだ」ケルンが目を輝かせた。

「わたしにそっくり?」

「一見気が強いんだけど、本当は凄い甘えんぼだった。でもそんな所が可愛かった」

 ケルンはにやにや意地悪そうにシャルを見る。シャルは何と返答して良いか困り、鼻白んで顔を背ける。ケルンの顔を直視できる自信がない。ケルンの思惑通りだとは分かっているが、どうしても首が動かない。

 つい、言葉に棘を生やしてしまう。「それって指輪の彼女のことでしょ? こんな所でそういう話をするなんて、わたしを馬鹿にしてるの? 非常識にも程があるわ」

 ケルンは目を白黒させる。「彼女じゃないって言ってるだろ」

「いいえ、彼女に違いないわ。その女の話を始めた時のケルンの目、すごく輝いてた。あれは友達を越えた特別な感情を抱いてる目よ」

 ケルンは呆れた顔をし、両腕を組む。埃だらけの壁に遠慮なく寄りかかる。カンテラの光がケルンの体をオレンジ色に染める。彼の厳しい表情にオレンジ色が合わさり、妙な迫力を演出する。

 ケルンはポケットから銀色の指輪を取り出す。親指と人差し指で掴み、様々な角度に変えてみせる。

「妹の指輪なんだ」

「え、妹さんの?」

「ああ。左の人差し指にファッションとしてよくはめてたんだ」

 ケルンは人差し指でリングを弾く。指輪と爪が衝突し、小さく鈍い音がした。空中で何度も回転した指輪はやがて重力に抵抗出来なくなり、ケルンの手のひらにぽとりと落下した。指輪を強く握り締め、ケルンはしんみりと話した。

「この世界に来る前から数えて一年半くらい前、直腸癌に殺された」

 どっと重い空気がシャルの胸に流れ込んできた。通路の先に広がる闇は歪み、シャルを飲み込もうと手招きしてる。


 妹には結婚まで視野に入れてた男がいてさ、そいつに誕生日プレゼントとして貰ったんだと。あまりに嬉しかったようでさ、料理中や入浴中でも肌身離さずずっとはめてたんだぜ。

 そんな幸せの中、突然直腸癌が発覚しちまった。残念ながら、早期発見とはいかなかった。生存確率はゼロではないが、非常に危険な状態だと言われた。

 男は、すぐに失踪した。

 本当に信じてた人間に裏切られた。人生の絶頂からいきなり地の底まで落とされるってのは、どんな気分なんだろうな。その凄まじい落胆は、躁鬱(そううつ)に繋がってたのかな。

 妹は、手術をすれば助かったかも知れない。でも、受けなかった。

 海に身を投げた。


 ケルンの話を聞き、シャルは自分も海に身を委ねた事を思い出した。海にはやはり、危ない魔力が宿ってるのだろうか。

 そして、ケルンの持つ指輪の意味も理解し、彼に謝った。

 紳士は長く伸ばした口髭を指で引っ張り、目を細めながら二人の事を黙って観ていた。壁に張り付けられた橙色の中には、紳士の影が静かに佇んでいた。


 しばらく通路を進むと、両端に整然と並んでいたカンテラが絶えた。それでもなお狭い通路は続いており、シャル達の足元には卑しさを帯びた影が忍び寄ってきている。

 既に、自分たちは誘蛾灯の罠に誘い込まれてしまった蛾なのではないか。シャルの胸の鼓動が小さく加速してくる。

 紳士は漆黒のスーツの胸ポケットから金色のジッポーを取り出し、ケルンに手渡す。「私が案内できるのは、ここまでです」

「どういうことよ」シャルが間髪入れずに尋ねる。「何でこんな所で案内が終わりなのよ」

「それが決まりだからです」

「決まり?」ケルンも尋ねる。

「ここから先は、外界に出たい者だけしか足を踏み入れてはならない決まりなのです。何故なら、この先へ行けば、もう後戻りはできなくなるから」

 紳士の真顔の発言にシャルとケルンは言葉を返せない。唾を飲み込む。喉が膨らみ、ドクンと音をさせた。

 後戻りはできないなどという事は元から覚悟していた。しかし、このように改めて言われると、心の奥底に重石を吊された気分になる。

「後戻りができなくなるって、あの熊の時みたいに公園に放置してもらえないってこと?」

 シャルが問うと、紳士は無言のまま首を枝垂れる。「はい。もうこちら側の世界に帰ってくることはありません。外界への脱出が成功しても、失敗しても」

「それはつまり、排除されるってことか? 脱出しようなんて人間は、殺してしまえってことなのか?」

 紳士は、ケルンの問にはしばらく反応しなかったが、少ししてから顎を引いた。

「その可能性は大いにあるでしょう。脱出を試みた方々がこちらに戻ってきたことは、一度たりともないのですから。しかし、それが真実だという根拠は全くございません。なぜなら、私はこの先に行ったことがないのですから。つまり実のところ、今まで脱出を試みた方々が成功したのか失敗したのかすら把握できてない。それを知る術はないのです」

「ピサとか、わたしがアパートの前で会ったあの人も?」シャルが訊く。

「ええ、ピサさんやソフィアさんも。その他の方々も含め、今こちら側の世界に住む人間は誰ひとりとして脱出を試みたことがありません」

 シャルが目をぱちくりと瞬かせた。何か疑問符が浮かんだ顔だった。しかし、数秒後には満足そうな顔に変化した。

「それじゃあ、そろそろ行くことにしましょう」シャルが背後のケルンに向き直って言う。

「もう良いのか?」

「ええ、もう十分よ。こんな気だるい話を聞くより、さっさと光り輝く未来の方へ歩き出したいわ。それともケルンは、まだこんな紳士に未練があったりするの?」

 ケルンは紳士の顔を全く見ずに答える。「いいや、俺ももう十分だ。満腹だ」

「それじゃあ、行きましょう?」

 ケルンは釈然としない様子のまま頷く。そのまま二人は、紳士と別れの挨拶を交わさないばかりか、彼の顔を一度も見やらないで歩を進め始めた。


 二人を包むライターの灯りが暗闇の中へ潜っていくのを確認し、紳士は辛そうにため息を漏らした。

 それから一分ほど物思いに(ふけ)るように目を瞑り続けた。それからすぐに、こおろぎに似た無機質な機械音が紳士の体の中で鳴った。急かすように慌ただしい間隔で鳴り続ける。

 ジッポーが入っていたのとは逆のスーツのポケットから、丸い小型の通信機を取り出す。赤いボタンが円形の真ん中にひとつあるだけのシンプルな通信機だ。

 ずっと鳴り続けていた機械音は、紳士が赤いボタンを押した瞬間、途絶えた。代わりに、籠もった男声がした。

「どう?」

 紳士は右手で口髭をさすりながら「順調ですよ」と答える。くぐもり声の通信相手は、すぐ様「そうか、いよいよだね」と言った。

 紳士は通信機の先の相手には穏やかな話し方をしていたが、顔つきは険しくなっていた。声だけでコミュニケーションを取る相手が、それを知る由はない。

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