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「お前が助かれば、それで良いんだ、か。飛んだ茶番だったわね」
シャルはぶすっとした表情をする。ケルンはそんなシャルと目を合わせないように、申し訳なさそうにベンチの横で縮こまっている。
「まさか、複数いるとは思わなかった」ケルンは両手で頭を抱える。
奈落に落とされ、シャルの意識は瞬く間に遠ざかった。目を覚ますと、公園の芝にケルンと仲良く伏していた。前回、黒い化け物に捕まった時と同じシチュエーションだ。
「全てを返してよ」
「全てって?」
「全ては全てよ。わたしに抱かせた感情の全て」
「感情?」
「もう、どうでも良いわ」そう言い残し、シャルはベンチから次第に離れていく。
ケルンが慌てて追いかけてくる。しりえからシャルの肩に手を載せるも、すぐに弾かれてしまう。
そのままシャルが先頭を、ケルンが後尾を歩く形となる。ねずみ色の舗道にピサの姿を発見したのは、それから数分後だった。
「朝食を食べる為にわたしの部屋へ行ったのに、肝心なわたしがいなくって焦ったでしょ?」
シャルの第一声にしょげてしまったのか、ピサはうつむいたまま何も言わない。
また恩着せがましい言葉が飛び出すんだろうなと考えていたシャルは、逆にその重いしじまにたじろいでしまう。それはケルンも例外ではなかった。
公園内を生暖かい風が吹き抜けていく。それと同時にピサが視線を上げる。シャル達を空虚な瞳で見つめながら、弱々しい声で言う。
「シャル達は、この世界から脱出したいんだね?」
「ええ。わたし達は、この世界からどうしても脱出したいの。わたし達、よ」
シャルは強調するように、わたし達、を更にもう一度言う。ピサを始めケルンも別段その意味を問い詰めることはなかった。
「ねえ、シャル」そこでピサは言い淀む。
シャルは、その次に出てくるのは「絶対に壁の向こうに行っちゃダメだよ」だと思っていた。やれやれと鼻息を鳴らしながら、眉間にしわを寄せる。
もう煩わしいから、土下座で「絶対行くな」とピサに懇願されても、けんもほろろに断らなきゃ、と胸の内に決めておいた。
だから、「僕の頼みを聞いてくれたら、脱出する方法を教えるよ」などとピサに言われ、しばし開いた口が塞がらなかった。
紳士の部屋はとても大きくて洒落ていた。床はフローリングになっており、どこからか湿り気の多いジャズの演奏が流れてきてはすうっと耳に入ってくる。
玄関の時点で数点の絵画が飾られており、リビングに行けば更に数が増していく。山の後方から朝日が登る絵が一番のお気に入りらしく、誇張するようにソファーの正面の壁に掛けられている。ガラステーブルの上には中身が飲み干されたワイングラスが置かれている。
お気に入りのジャズが静かに部屋を包む中で、自分はソファーに腰を深く沈ませる。お気に入りのワインをじっくりと味わいながら喉に通し、お気に入りの絵画をまったりと鑑賞する。それが人生で一番の楽しみだと紳士は言う。
大理石のはめられたダイニングルームには透明なガラスケースがあり、これ見よがしに沢山のワインが並んでいる。
シャルは、この紳士の見栄っ張りな部屋にうんざりとしていた。とても居心地が悪く、何よりピサの頼み事が気になって仕様がなかった。
「どうですか。なかなか立派なものでしょう?」グラスにワインを注ぎながら、紳士は堂々たる風采で笑う。
「ああ、立派だな」気だるそうにケルンが応える。
「それはそうと━━」
「分かってるよ」シャルが言い終わる前にピサがこっくりと頷く。
「じゃあ、早く頼み事ってのを聞かせてよ」
「頼み事の話なんだけどね。と言うか、頼み事とは言ったものの、実は僕も頼まれてる方だったんだ」
「あなた、何を言ってるの?」
「私がピサ君にお使いをさせたのですよ」紳士が真面目な表情で言った。
「じゃあ、わたし達に用事があるのは、あなたの方だったの?」
紳士が顎を引く。「あなた達のことが気になって仕方がなかったのです」
シャルの後方からため息がした。振り返ると、ケルンが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「胡散臭いな」
肯定する動作こそしなかったが、シャルも同感だった。あまりにも都合がよすぎる。
「私のことを疑っておられますね?」
これにはシャルが応える。「つい昨日、わたしの記憶を否定した人だし」
「勿論、私は自分の考えが正しいと思っていますよ」そこで紳士が伊達のステッキをくるくると回す。
「しかし、あなた達が外界に出たいと言うのならば、最大限それを尊重したい」
シャルはいまいち納得のいかない節があったが、ケルンが首を縦に振るのでそれについては納得しておくことにした。
「それで、わたし達にどうしろと?」
「何故外界へ出たいのか。その訳を聞かせて頂きたいのです」
どんな無理難題が飛び出してくるのかと構えていたシャルには、拍子抜けな質問だった。ケルンに脱出の主旨を伝える時の為に、既に考えを纏めていた。
「どんなに想定外な出来事があっても、それがそこに実在しているのならそれは現実で、否定するのではなく、受け入れないといけない」
その発言にケルンは片眉を吊り上げる。自分が主張したことを、否定的だったシャルがなぞっている。シャルの発言の真理を見抜こうと凝視する。
「確かに、受け入れることが大切かも知れない。みんながそういうことを出来ないから、いつまで経っても『壁』が無くならないのかも知れない。でも……」
そこでシャルは言葉を嚥下する。ピサも紳士もケルンも、その場にいる全ての人間が、固唾を飲んでシャルの言葉を待つ。
「でも、自分のことだけは、絶対に信じないといけない。どんなに現実だと言われても、受け入れちゃいけない。そうしないと、自分が自分で無くなるから!」
シャルの主張が終わり、気詰まりな沈黙が室内を満たした。当のシャルですら話の継ぎ穂を失って当惑する。そんな中で紳士は眉をひそめて言う。
「確かに、自分以外の存在に託せるほど安価なものではありませんね。万一にもそれを手放してしまったら、取り返しがつかなくなってしまう。後から己の持ち物だと主張するのはよろしくない。真理を追究しようなど、野暮な行為でした」
シャルさん、すみません。紳士は被っていたシルクハットを取り、丁寧にぺこりと頭を下げる。無言で不本意そうな顔をしていたが、ピサも頷く。
それを確認すると、シャルはおもむろに振り返る。紳士やピサの反応など正直どうでも良かった。ただ、現在のケルンの表情だけが重要だった。
ケルンは照れくさそうに頭を掻いていた。その仕草は女性が手櫛で髪を解かすようで、非常に強烈な色気を撒いていた。
「立派だと思うぜ。壁をひとつ越えたな」
「ええ。後は、本物の壁だけね」
「それでさ」ピサの快活な声が、和む二人の間に割って入ってくる。「外界に行く方法だけど……」
「ああ、ゴアも納得してくれたんだし、さっさと教えてくれよ」
ケルンは急かすように顎をしゃくる。ピサは、奥歯に物が挟まったかのような苦い表情で紳士と相槌を打ち合う。
「何やってるんだよ。早くあの熊みたいな奴をどうにかする方法を教えてくれよ」
「あの熊はどうにも出来ないんだ。世界の壁を越えようとする者を必ず阻止するよ。確率なんか最初から無くて、絶対に、だよ」
「まさか、最初から外界に行く方法なんて無かったってこと?」
シャルの眼球には赤い感情が浮かび上がっている。「つまり、わたし達を騙したのね?」
「騙してなどいませんよ」紳士が冷静な口調でシャルを制止しようとする。
「白々しい! よくも無駄な手間暇掛けさせたわね! あなた達は、わたしの覚悟を弄んでいたわけね!!」
シャルは全ての鬱憤をその怒声に込めた。ダイニングルームによく響き渡り、ワインを飾ったガラス戸が少しばかり振動した。
ピサが、まるで微震でも起きているかのように足をびくびくと振るわせ、言葉に出す。
「外界に出る方法は、壁を乗り越える以外にもあるんだ」
「どんな方法よ」
「下から外に出れば良いんだよ」
シャルはケルンの顔を窺う。自分と同じように目を白黒とさせているのを確認し、ピサに視線を戻す。
「それは、地下ってこと?」
「ええ」これには紳士が答えた。「今から私が案内致します」
「え、ええ」シャルの返事に力は籠もっていない。
今まで散々外界への道を摘んできた熊の化け物。退けるなんて選択肢が無いことは最初から分かっていた。
しかしそれにしても、地下から外界へ出るというのはあまりにも気抜けな答えではないだろうか。
紳士とケルンは、既に玄関へと歩き始めていた。シャルは半ば放心状態で突っ立っている。
ケルンがそれに気付き、踵を返す。遠慮なくシャルの肩にぽんと手を置くが、先程のように不躾に弾かれることは無かった。
ケルンは、シャルの不安を取り除こうと優しく微笑む。
「二人とも脱出できるんだ。良かったじゃんか。結果オーライさ」
ケルンの優しさが、その言葉に包容されていた。シャルは深く頷くも、表情はまだ堅いままだった。
まだ気を引き締めてなければと分かっていても、心の奥底に安心し始めている自分がいた。とても恐ろしいことだと思った。
それは断じて弱さなどではない。強さなのだ。そう信じたかった。でも、踏ん切りがつかない。
大丈夫。そんな言葉をケルンに囁かれたら、無理やりにでも歩を進めるしかなかった。ケルンの小さな背中を追うように、シャルも紳士の部屋を後にする。
紳士の部屋には、無言で立ち続けるピサの姿だけが残されていた。口を閉じ、目は虚ろ。ただ、その場に棒のように立っているだけだった。
それが突然、自分を支える力を失って、勢いよく床に倒れ込んでしまう。
ぷつりと糸の切れてしまったマリオネットのように、腕や足、首など全ての関節をグニャグニャに曲げている。ピサは呻き声のひとつも上げない。ただ、フローリングの床に貼り付くように伏している。
日の出を描いた絵画が額ごとひとりでに裏返り、電光掲示が現れる。沢山の文字が、無音でゆっくりと浮かび上がってくる。
床に伏した少年が立ち上がることは、なかった。