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壁の庭  作者: 百瀬 和海
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10

 公園内は、白昼と何ら変わらない明るさを保っている。今は本当に夜中なのだろうか。シャルは不安になってくる。

 昼間にあれだけはしゃいでいたパルテノンたちの姿が一切見当たらない。ピサや紳士、謎の中年女性、それどころか人っ子一人姿がない。

 今現在が夜中だからなのだが、暗幕のかからない人工の青空や単色のオブジェクトの中にいると、この世界にいる全ての生物が突如手品のようにぱっと消えてしまったのではないか、という錯覚に陥る。

 自分が真夜中の海で自殺した時に似ているな。シャルはいつかも知れない過去を思い起こしながら、ぼんやりとした表情で足を運び続ける。

 あの世界に自分だけしかいない気分だった。いや、どちらかと言えば、自分があの世界から弾き出される形だったのかも知れない。

 シャルが様々な思いを巡らしていると、約束を交わした真っ白なベンチに辿り着いていた。そこには、赤褐色のショートヘアをしたケルンの姿があった。足を組んで堂々と座っているが、やはり艶めかしい霊気を存分に放っている。

「よお」と細長い右手を挙げてくる。

 シャルは顔には決して表さなかったが、思いもよらない事態に困惑していた。

「どうして、もういるの?」

 ベンチに深く腰掛けたケルンが一笑する。紅潮した鼻の頭を恥ずかしそうに掻きながら言う。

「何となく、来る気がしたんだ」

 ケルンのその言葉を聞き、シャルは破顔一笑する。頬がピンク色に染まっている。心を砕かせていた全ての要素が、完全に取り払われた。

「わたしも、そんな気がしてたの」


 世界の壁は相も変わらず、遠方に屹然(きつぜん)とそびえ立っている。やはり、不気味な霊気も霞むことなく健在だった。

 だがシャルは昼間と全く違い、決然とした態度をしていた。今は、ケルンが傍らにいる。根拠など露ほどもないが、ケルンと一緒ならばどんな苦難も乗り越えられると、自信を持っていた。

 緑色の芝生に引かれた、これが最後のチャンスだと言わんばかりの赤い境界線が見えてくる。相対した色で目に立つようになっている。

「ここを踏み越えたら、どうなるか知ってるか?」

 ケルンがふと立ち止まっては尋ねてきた。

「熊みたいな奇妙な生物に捕まって、奈落に落とされる」シャルは即答する。

「そうそう、あいつ厄介だよな。まともに戦っても勝てねえだろうし」

「でも、あいつを何とかしないと駄目よね?」

「ああ。駄目だろうな」ケルンが他人ごとのように頷く。

「何か秘策でもあるの?」

 ケルンが真剣な眼差しを向けてくる。シャルは、ケルンの輝くように生気が漲った瞳にうっとりしながら、どんな奇策が出てくるのだろうか、と内心わくわくしていた。

「とにかく捕まるな。それしか言えねえ」

 シャルは、とてもがっかりした。眉根が不細工に歪んだ。

「あの熊みたいな奴は捕まったらどう仕様もないけどな、動きはてんでのろまだ」

「それって無計画過ぎるわ。脱出なんて出来るわけない」

 シャルが諦観の滲んだ台詞を吐くと、ケルンの顔が急に強張る。つい数十秒前、期待を寄せすぎると後悔すると学んだばかりだったから、シャルは邪険な表情で構える。

「俺が囮になれば良いんだ」

「え?」堅い表情が(ほぐ)されるのに差して時間は掛からなかった。シャルは鼻白む。

「俺が頑張ってあの化け物から逃げる。一秒でも長く引きつけるから、お前はその間に壁を登るんだ」

「でもそんなことをしたら、あなたが」

「お前が助かれば、それで良いんだ」

 シャルは、ケルンの強靭な眼をしげしげと見つめることしか出来ない。

「それで、あの壁をどうやって登るかだけどな」と、ケルンは数十メートル先に佇む世界の壁を指差す。

「そうよ、あんな高さの壁をよじ登るなんて無理だわ。ねえ、やっぱり諦めましょう」

 シャルは、ケルンが付いてこないのならいっそのことこの計画を中止にさせてしまおう、と企てていた。

 ケルンが口の両端をにっと吊り上げる。シャルは悪寒がした。

「実は、全部が同じ高さじゃないんだ」

 ああ、やっぱり。シャルの心の奥底で二つの感情がこんがらがる。それはどちらかと言えば、どす黒い現実がシャルを一生手放さない為に纏綿(てんめん)してくるようでもあった。

「一箇所だけ背の低い所があるんだ」

 ケルンは眼前の赤い境界線を越えないように、線に沿って歩き始める。壁で唯一背の低い箇所へ案内してくれるみたいだ。

 もう心の内で結論を出していたが、シャルはケルンに従って後を付いていく。


 確かに、壁には不自然なほど低くなった所があった。ケルンの言うとおりだった。

 シャルは壁の天辺に視線を這わせる。真っ直ぐ横に続いていたのに、突如深い凹が現れる。巨大な生物に壁の頂点を噛み砕かれてしまったようにも見える。

 あれならば、わたしでも登れるかも知れないな、とシャルは思った。

 凹んだ壁の先には他よりも多めに本物の青空が覗いている。瑠璃色の海や風浪に弄ばれる白い船を一隻確認することも出来た。間違いなく本物の海と空が、元いた世界が、ほんの数十メートル先に存在している。

「あそこなら、何とかよじ登れそうだろ?」

 ケルンは自慢げに胸を張る。自分は登れないというのに。

「……うん。多分大丈夫」

「そんなに暗い顔するな。お前は堂々と壁の先に行け」

 罪悪感のあるシャルだったが、壁の先に待ち構える生気濃き景観を目にしてしまうと、体中の脈が高まり始めていた。

 しかしそれでも、ケルンを置いて自分だけ悠々と助かるのは……。シャルは葛藤する。

 その時だった。

 例の熊に似た生物がいつの間にか現れては、シャル達の方へ寄ってきていた。黒い体毛の中で銀眼がぎらぎらとこちらを睨んでいる。

 シャルは狼狽しながら傍らのケルンに視線を移す。ケルンはうろたえることなく化け物と睨み合っている。一切視線を外さない。

「赤い境界線越えてないのに、現れやがった」

 シャルはぶるぶると身震いしながら、消え入りそうな声でケルンに相槌を打つ。シャルの視線は化け物でなく、ケルンだけに向けられている。

「何だか納得いかねえが、無理やりにでも実行出来るから良かった。結果オーライだな」

 ケルンがやんわりと微笑む。

 駄目、それじゃあ嫌! シャルは必死にかぶりを振る。ブラウンの髪がケルンの首筋をくすぐる。

 しかしそれでも、ケルンは返事をしない。ただ一方的に喋る。

「いくら俺でも、そんなに長時間は引きつけていられねえ。速やかに壁を登ってくれよ」

「……嫌」

「多分、一分が限度だろうな。前に挑んだけど、あいつ、走ることも出来るんだぜ」

 シャルは眉を八の字にして泣いていた。真っ赤な両頬には涙が伝い、光り輝いている。

 ずっと化け物だけを見つめていたケルンだが、鼻水をすする音が肩脇から聞こえてくると目を細める。

「俺はこの世界に残っても良いけど、お前は違うんだろ? 早く行けよ」

 突如、シャル達二人に大きな影が落ちてくる。黒い化け物が二足歩行で、シャル達のすぐ目の前に立っている。

「ほら、行けよ」

 ケルンがやや乱暴に言う。シャルは、ケルンの華奢な腕を小さな手で掴んでは離さない。

 黒い化け物は、腕を伸ばせばケルン達に触れられる所まで来ている。

「行けよ!」

「嫌!」

「行け!!」

 ケルンは全力でシャルの腕を振り解く。その反動で、シャルは芝生に倒れ込んでしまう。

 黒い化け物は眼前のケルンでなく、完全に無力化したシャルの方へ歩を進め始める。シャルは急いで立ち上がろうとするも、全身が震えてしまい力が入らない。

「やっ、やめてっ」シャルがうわずった声を出す。

 それでも黒い化け物は、もったいをつけることなく、事務的な動作でシャルに歩み寄る。シャルは、その場から全く動けない。

 黒くて太い腕がシャルに触れようとした時だった。ケルンが黒い化け物に渾身のタックルをした。しかし、黒い化け物はバランスを崩す所か微動だにさえしなかった。ただ、ケルンだけが弾き飛ばされる形となった。

 黒い化け物の視線は、完全にケルンの方へ移る。ケルンはすぐに芝生から立ち上がり、元来た方向へと走り出す。地面を大いに揺らしながら、黒い化け物もその後を二足歩行で追う。

 ひとりその場に残されたシャルは、瞳から溢れ出る涙を服の袖で拭う。次の瞬間には決然とした表情となり、世界の壁目掛けて全力で走り出す。

 決してケルンの逃げた方向へ振り返らないようにした。届きはしないが、最大限の敬意だと思った。自分は、とにかく壁を越えなければならないのだ。

 遂に、シャルの手が壁に触れた。凹んだ所はシャルの背とほぼ同じ高さだった。

 もう少しで戻れる。全身が脈打つ。青空が、瑠璃色の海が、腕を広げて出迎えてくれている。

 壁に手を掛けた時、背後から大きな闇が覆い被さり、シャルの身体を持ち上げた。シャルには何がどうなっているのかさっぱり理解出来なかった。

 視界には、シャルを捕らえんとやってきた『黒い化け物たちの群れ』があった。

 シャルはただ呆けた表情のまま、奈落の底へと落ちていく。

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