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壁の庭  作者: 百瀬 和海
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 もう八時だよ。

 その第一声と共に、掛け布団が勢いよくはぎ取られた。少女は温かい感触を手放したくなく、無意識のうちにしがみついていた。

「ほらシャル、起きなよ」

 はきはきとした若さ溢れる男の声だった。まだ眠気の方が勝っており、シャルは目を瞑っている。

 どこからか漂ってくる香ばしいパンの匂いを嗅ぎながら、重たい瞼を徐々に開いていく。すぐに金髪の少年が映った。顎が少し角張っていて頬に小さなニキビが沢山あるが、笑顔が可愛かった。シャルと同じ十八歳くらいの顔だ。

「もう、シャルったらお寝坊さんだね」

 無垢な微笑みを浮かべながら、少年が言う。シャルの眠気を吹き飛ばす程に快活な発声だった。

 シャルはゆっくりと上半身を起き上がらせる。右手で、ブラウンの髪越しに頭を触れた。まだ、だるさが残っている。

「どう? 良い夢は見れた? ほら、早くこっちにおいでよ」

 シャルが何も言わないうちに少年は、近くにある白い正方形のテーブルに着く。

 シャルは額を押さえて、ぼうっとしながら辺りを見渡す。小さな部屋で円筒形になっていた。壁は赤青黄と、三原色でひたすら斜線の模様が描かれている。

 窓らしき所は、全てにカーテンが閉めてある。外からの光を寸分も侵入させない真っ黒な生地に、無数の黄色い星が描かれている。

「ねえ、どうしたの? まだ眠い? 朝食、先に食べちゃってるからね」

 少年は両手を合わせ、それから食事を始めた。オレンジ色のフォークで、水色の皿に載ったウィンナーを突き刺す。

「ねえ」

 シャルが、起きてから初めての声を出した。右手でまなじりをこすっている。

「あ、やっと眠気取れたんだね」

 そう言ってから少年は緑色のコップで何かを飲んだ。次に口元が見えた時、白いひげができていた。

「ねえ」真剣な表情で、シャルはもう一度言う。

「さっきからどうしたの?」

 ピンク色の皿に残っていたスクランブルエッグの欠片が、少年の口の中へと消えていく。

 シャルは少年の澱み無き目を見つめながら、数多ある疑問の中で最も重要だと感じていたものを、おもむろに訊いた。

「あなた、誰?」


「え?」フォークを握る少年の手が瞬時に止まった。呆気に取られて口が半開きになっている。

「シャル、何を言ってるの?」

「あなたこそ、何なのよ」

 シャルが顔をしかめる。大体、何でそんなに馴れ馴れしいのよ。鋭い目つきで言い続ける。

 少年の口が僅かに動くが、そのままそっと閉じてしまう。おどおどした仕草は、想像だにしなかった事態が起きて言葉を必死に探しているようだった。

「僕の事、覚えてないの?」

「全然」シャルの淡々とした返事には、少年への警戒心が顕著に現れていた。覚えてる覚えてない以前に、「知らない」ような気がしていた。

「じゃあ、ここが何処か、とかも?」

「全然」首を左右に振る。肩まで伸びたブラウンの髪が、微かに揺れる。

 こんな円筒形でカラフルな部屋など、絵本の中のようで、人生で何度も拝見できるものでは無い。否応なしに脳裏に焼きつけられてしまう。それを忘れるなど、どうして出来ようか。

「『パルテノン』も?」

「全然」何関連の単語だろか、とシャルは思った。全く聞き覚えの無い言葉だった。

「じゃあ、やっぱり『世界の壁』とかも?」

「全然」もはや、事務的な答え方になっていた。何を尋ねられようが、単調な回答しか出来ない。今のシャルは、無知なのだから。自分の置かれた状況に呆れて溜め息を吐く。

「自分の名前まで、覚えてないの?」

「それは分かるわ。わたしは、シャルトル」そうそう愛称はシャル、とすぐに少年が声を上げる。

「名前はちゃんと覚えてるんだね」少年が頷く。でも、一体全体、どうなってるんだ。独り言のように呟いては長い首を傾げる。

 少年が、テーブルの中央に置かれた、焦げ目の入ったパンに一瞬視線を下ろす。

「一先ずさ、シャルもテーブルに着きなよ。食事しながら色々と話してれば、何か解決するかも知れないし」

 食事したって何も解決しないわよ、とシャルは言いたかったが止めておく。少なくとも、シャルよりは少年の方が多くの情報を持っているからだ。

 無知な状態で、自分の意見を(かたく)なに主張することほど愚かなことは無い。それをしたいのならば、ある程度の情報を仕入れるのは必要最低限な事項だ、と。

 今は少年の言うことに従うほか無い。よそよそしく紫色の椅子に腰を下ろすが、少年が掴もうとしていた(かんば)しいパンを掠め取る。

「僕が先だよ!」少年が、頬を風船みたいに膨らませる。


 まだ幼さの残る少年はピサと言った。端正な顔では無いが、可愛らしい雰囲気が漂っている。絵本の登場人物のようだとシャルは思った。

 次に、自分がいる円筒形の部屋は何処なのかを尋ねる。「ここはシャルの住んでる部屋だよ」と返された。

「全く覚えが無いわ」それならば、どうしてあなたが、当たり前のようにわたしの部屋にいるわけ、とピサを睨みつける。

「僕は、シャルと朝食を食べるのが習慣なんだ」

「そんな習慣、全然知らないんだけど」

「随分と前からこうしてるじゃん」ピサが嘆く。シャルは無垢な少年に対して不快感を抱いた。

 シャルの記憶は、白紙の状態なのとは少し違い、記憶の一部が喪失された状態だった。

 父親が十三歳の時に、母親が十六歳の時に病気で逝去したこと。それから養子縁組があって、遠い親戚の家での養女としての生活に困惑していたこと。

 しっかりと、自分の辿ってきた人生は存在している。なのに、今ここに至る経緯がシャルには全く分からない。その部分だけが、丸ごとすっぽりと抜けている。

 シャルの人生の中にピサの存在は無い。そんな見知らぬ人間に「習慣」などと言われると、畏怖せざるを得なかった。

 もしかしたら、記憶喪失などというのは少年のでっち上げた嘘の話なのかも知れない。親しい人間になりすました誘拐犯ではないだろうか、とさえ思えた。自分は正常で、何も知らないのはピサの方では、と。

「やっぱり、僕のこと疑ってるね」ピサが眉を下げる。過敏だった。

 嘘をついている人間は、ターゲットの話に敏感になる。己に落ち度は無いかと、必要以上に神経を研ぎ澄ます。そして、墓穴を掘る。シャルが一度ピサに抱いてしまった疑念は、濃くなるばかりだった。

「僕が、嘘ついてると思う?」

「ええ、そうよ」何の躊躇いも無く、シャルは冷たく即答する。見知らぬ他人より、自分の方が信用できるに決まっている。

 未知なる物への口出しは好ましくない。だが、常識を超える程に未知が過ぎるのならば、外部から口出しをしていいだろう、と。

「じゃあ、外に出ようよ」少年がフォークをテーブルに置き、星空を連想させるカーテンを指差す。

「わたしを人質から解放してくれるの?」

「違うって!」少年の顔の色が赤くなる。

「僕以外の人も、シャルの頭がおかしいって証言してくれる筈だよ」

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