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人類全てが殺し合う  作者: 熊谷次郎
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第九章 その二

 人間には欲望がある。


 権威欲。


 性欲。


 金欲。


 睡眠欲。


 繰り返す。その全ては自己顕示欲である。


 権威欲は、その名の通り、自分の存在を際立たせるものである。


 この欲を満たすために、ときに人は物をつくり出し、ときに人は物を破壊する。


 言葉、歌、物語、その他全ての芸術は、それを他の存在に見せることで、他の存在に自分の存在を魅了させ、自分を権威として見なさせ、結果自己顕示を促す。


 性欲、今ではいくらか意図が変わってしまったが、これは人間が自然界にいるとき、自分達の種族を多く残すことがつまり自己顕示であった。


 食欲。これは自分の存在を際立たせるための他の生物の否定である。


 多くの生物を食べたということは、要するに多くの生物を否定したということであり、無論、その欲が満たされたのだから心が沈静化するのは当然のことである。


 金欲は、それをより多く持つことでその三つの欲を全てを満たすことができる。人間だけが手にできる具体的な欲望の数値である。


 睡眠とは、その自分の自己顕示をなすべき方法の確認である。


 この行為によって、ときには忘れかけていた性欲の確認をするために、性に対する夢を見て擬似的に性欲を満たりする。


 また、遠足前の子どもなど、自己顕示の方法がはっきりとわかっている人間は興奮して眠れないという状況が起きるし、徹夜で麻雀を行うときなどいくらでも眠らずにその行動を繰り返すことが可能である。逆に、もはや不安の感情に駆られ、自分の為すべき行動を見失ったものは、自己顕示の確認の拒否ーーつまり、不眠の状態が起きる。


 睡眠中の無意識下の夢が、その方法の確認を促すのである。


 人は皆、この欲望にしたがって生きる。


 自分の存在の形成を自らの得。


 自分の存在の否定を自らの損。


 得を得て、損を排斥する。


 その二つの行動が人の心理の全てを決定する。たったこの二つの行動が、人々を揺さぶり、壊していく。


 


 まず仮に小学校高学年程度の年齢のクラスが一つあるとしよう。このクラスを社会の一つの縮図と当て嵌るといい。


 そこにAからMまでの男子が十三人。NからZまでの女子が十三人、計二十六人がいるとする。


 この中で役割分担をする。


 まず、人間というのは大きく分けて二種類のタイプの人間がいる。


 他人から受けた損益を自分が勝てると思う人間に返すことでゼロに戻そうとするタイプと、他人から受けた損益を二度と受けないように避けようとするタイプである。


 実は生まれたとき、もともとは全ての人間が前者のタイプなのであるが、ある条件を満たした一定の人間が後者のタイプへと変化する。


 弱者が弱者へ、その弱者が更なる弱者へと損益を吐き出す。


 その図式を繰り返していくうちに、どこかで弱者となる人間がいなくなってしまう箇所ができる。そうなってしまった人間は損を避けようとするのである。


 どうしてそうなるのかはその弱者への損益吐き出しの一番底で、どちらかが一方が負けになる、ならないという堂々巡りが起こっているシチュエーションを考えると説明しやすい。


 小さい子がお互いを交互に一発ずつ殴りあうといった状況にお目にかかったことはないだろうか?


 一方が殴ったら、その分をもう一方が殴り返す。その殴られたのを受けてまたもう一方が仕返しをする。またその殴られた分をやり返す……


 結局、最終的にはどちらかが妥協して殴る手をやめなければならない。


 この場合、取っ組み合いの喧嘩になって、身を張った殴り合いでもしない限り、最初に殴られたほうが手を引っ込める。そして、そういう風に殴り合っても、最後は自分に返ってくるだけ無駄だとわかって、もう二度と同じことが起きないように殴った人間自身を避けるようになるわけである。そして、その先に殴る相手を見つけた者は、そこで損を解消し、見つけられなかった者は永遠に避け続けるわけである。


 「やられたらやり返せ」、「やられたらもうやられないようにしろ」、その感覚はその人間の中で無意識下で学習され、今後、当然の感覚としてそれに気付くまで永久に変わらないものとして認識される。


 その避けるという行動に対してもう少し具体的に説明しよう。


 避ける、という行動であるが、何を避けるのかというと、実は損益を受けさせれられた人間を、というわけではない。


 どちらかというとその損を受けたシチュエーション自体を避けるのである。


 高いところで自分の損をする、自己否定させられるようなシチュエーションに遭った場合、高所恐怖症になり、暗いところでそのシチュエーションに遭った場合、案所恐怖症になる。


 つまり、恐怖とは自己否定の拒否の感情なのだ。


 また、親の躾というものがある。


 「あれをやってはいけない、これもやってはいけない」


 それを我が子などへと教える行為。


 これはいい換えるなら、我が子にその行為を行うことがいかに自分に損益になるかを教え込み、以後ずっと子どもにその行為を損となるシチュエーションとして避けさせる行為なのである。


 さて、本題に戻ろう。


 A君からZちゃんまで、この中で、男の子はK君とL君とM君の三人が、女の子では、VちゃんからZちゃんまでの五人が先ほど説明した損を避ける側の人間で、残りが損益を他人へと押しつけることでその感情をゼロにしようとする側の人間だとしよう。


 これで大まかな役割分担は終わりだ。


 また、この二十六人がどういう形かはまだ詳しくしないが、必ず何人かずつグループをつくる。何故なら自分を他人に認めさせようとする自己顕示欲を満たすためだ。


 後の細かな役割は文章中で説明していく。


 さて、A君がいる。


 彼はこのクラスでリーダー的存在、昔でいうところのガキ大将的立場にいるとしよう。 彼はイライラしているようである。


 早い話がこのイライラのとは、自分の損の感情が溜まっているということである。それがきちんと得を得て、普通の状態に戻ればイライラしなくなる。


 どんなヒステリックな人間でもいいことがあった日には機嫌がいい。そんなところである。


 では、何故A君は損の感情を得てしまったのだろうか?


 A君は父親、母親、弟の四人暮らしであった。


 まず、彼は八百屋の店主である父親に勉強しろと詰られた。


 しかし、彼は勉強などしたくはない。やりたくないことを強要された彼にとってその忠告は不利益なものであった。彼はこれで損の感情を一つ得た。


 そこで彼は損の感情を晴らそうと弟を殴る。A君はそこで得をし、ゼロに戻る。だが、A君の弟は意味もなく殴られたわけでーーここではそうだが、たとえ道理のいく殴られ方をしてもーー損の感情を得る。


 そこでA君の弟は損の感情を晴らしてもらおうと母親に怒ってもらうようにいい、母親はA君を殴る。


 A君の弟は、そこで損の感情を解消し、またA君のもとに損の感情は戻ってきてしまった。


 A君は結局、家では損の感情を解消し切れなかったのだ。


 B君がいる。


 彼もまたイライラしている。


 彼はどうして損の感情を得たのだろうか?


 B君はいつも三時のおやつとしてお母さんにケーキをもらっていた。


 彼は毎日ケーキ一個分の得をしていたことになる。


 ところが、昨日、お母さんが出かけてしまってB君はケーキをもらえなかったのだ。


 この場合、普通なら、普段得ていた得がなくなっただけと考えてしまうかもしれない。 しかし、彼は毎日ケーキをもらえていたのである。何もせずとも、それは今までずっともらえていた。彼の中で、ケーキをもらえるのはもはや当然の感覚として彼の認識の中にインプットされていたのだ。


 つまりケーキ分はもはや彼の中ではプラスにはならない。逆にもらえなかった分が損となってしまっているわけである。


 毎月もらえていたはずのお小遣い千円が突然五百円に減ったなら、小遣いをあげる側から見ればもらえるんだからありがたく思えという感覚を持つだろうが、もらう側から見ればかなりガッカリするだろう。それと同じことだ。


 そうして彼の中でケーキ一個分の損失が残ってしまったのだ。


 二度も見慣れないであろう言葉が出てきたのも関わらず素通りしてしまったが、この先重要になるので厳密な説明をしておこう。


 『当然の感覚』。これには二つの意味がある。


 一つ目は各個人が、今まで経験してきたことの中で、自分が気持ちがいいと思ったことは得、自分の中で愉快な感じがしたものを損として認識し、得することはどんどん体験し、損だと思ったものをなるべく避けようとするその感覚のこと。


 二つ目は、各個人が得と認識しているものの中で、さらに周りの状況から普段得られて普通だと無意識下で認識するものがあり、その得を得られた普通の状態からさらにプラスマイナスしたものが、各個人の中で損が今まで多かったか、得が今まで多かったかの判断の基準になる。そのプラスマイナスゼロのときの基準そのものを指す。


 先程A君の件で、「損をゼロに戻す」と書いたのを思い出していただきたい。彼の場合、弟を殴り損を吹き飛ばしてイライラしなくなった状態が、そこから損が多いか得を多いかの判断の基準となる場所、「ゼロ」であり、これが一人一人によって「1」だったり、あるいは「3」だったり、はたまた「8」だったりするということなのである。


 これを踏まえたところで、次に進む。


 C君がいる。


 C君はとても頭がよく、クラスで一番の成績の持ち主であった。


 そのためにいつも授業中先生に誉められていた。


 それを見るD君がいた。


 D君はそんなに頭が良くなかった。


 その横で頭がよくて誉められているC君がいる。C君が持っているものを彼は持っていない。


 D君もC君と同じ位の頭の良さがあれば同じくらい誉められるであろう。そう、これはD君にとって、C君と自分の頭の良さを差し引いた分損をしているということになる。


 D君のほかにも、C君以外の全ての生徒がこの点でいくらかの損をしているということになるだろう。


 その損失を埋めるためにE君はみんなの気を自分に向けることを考えた。


 E君はクラスで一番流行に敏感だ。クラスのみんなが夢中になって集めているというカードをたくさん持っている。


 E君はそのコレクションを周囲に自慢するということで自己顕示欲を満たした。


 それを見るF君はちょっと納得いかない。


 彼は親から小遣いをそんなにもらっていないから、それほど多くカードを集められるわけがないのだ。


 E君を横目で睨みつつ、F君はE君との自分のコレクションの枚数の差の分損したことになる。


 その他のクラスのみんなも同様に損をしたということになる。


 C君とD君、E君とF君のケースのように何か比較対照があり、どちらか一方、その数値及び価が大きいほうが得をしたということは、もう一方も同じことをした場合、同じだけの得を得れたということである。つまり小さい数値及び価しか持っていなかったほうはその数値、価の差額だけ損をしたということになる。この場合はD君はC君の成績の差だけ、F君はE君のカードの枚数だけそういうことになるだろう。


 また、D君はC君の成績を、F君はE君のカードの枚数を、「負けるものか」と思って目指すかもしれない。


 しかし、一方の、C君、E君にとっては、別にもはや努力の必要のない、自分達にとっては当たり前の数値、価である。そう、彼らC君、D君の中で、その数値及び価は当然の感覚として認識されているのだ。


 その数値や価をD君やF君は目指すわけである。つまり比較対照がある以上、彼らにとってはその目標に向かうことはある意味当然のことになっているわけだ。


 そこで彼らの意識の中で一つの変化が始まる。誰かそれとは関係ない上から客観視する人間ーーC君、D君の成績なら教師や親、その他の生徒、E君、F君のカードならクラスメイト達のことーーがいる以上、C君、D君の数値、価が実は当たり前のことで、少ない数値、価しか持っていない自分は異質なのではないかと思い込んでしまう可能性があるのだ。


 つまり、一番頂点にあった筈のC君、E君の感覚の基準が、D君、F君の中でも当然の感覚として認識されてしまう場合もあるわけである。


 他のクラスのみんなも同様の手順で当然の感覚が備えられてしまったりするのである。 そうするとクラスのみんな自分の損を認識し、どんどんどんどんイライラすることになるだろう。


 その中で、友達付き合いの悪い、先ほどの説明で損を避けるタイプの人間と決めたK君がとんでもない発想をする。


 C君との成績の差はそんなになかった彼であったが、D君達のカード集めの輪の中には全く入れなかった。


 そこで彼は自分を優位に立たせるために、こう思い込むのだ。


 カード集めなんかをする奴は子どもだ。僕はしないから大人。だから僕のほうが偉いと。


 これは、自分の中で下の存在になる人間をつくり、その上に立った気になるわけである。つまり自分の頭の中で自分を顕示し、一方で他己否定の意味を為す効果があるのだ。


 自己形成と他己否定。K君は極めて狭い範囲であるが、その考え方によって自分を際立たせることに成功した。


 しかし、その分、彼は友達がいなくなり、結果自分の首を絞めることになるということにこの時点ではまだ気付いていないようだ。


 ここでやっと女の子の登場。クラスの女子の中心人物Nちゃん。


 彼女はとっても目立ちたがり屋で、その損の感情を高いブランド物の服を自慢することで解消しようと試みた。集団の視線を集めることによる自己顕示欲の成就。


 さすがは女子の中心人物Nちゃん、女の子のMちゃんからUちゃんまでの女子七人がうらやましがった。勿論、この子達にとっては、損の感情を植えつけられたことになり、その後彼女達には、Nちゃんを目指すことが当然の感覚として認知されることになるだろう。


 しかし、VちゃんからZちゃんまでの五人はNちゃんの服に食いつかない。


 彼女達は、ブランドの服になんか興味がなかったし、第一その高い服はNちゃんには似合わないと思っていた。


 所詮、ブランド品といえどもただの服。「これは高いものだ。その値段に見合う価値がきちんとある」と人々が認識できなければ、着る意味もそれを見せる意味も成り立たない。


 そこで怒ったのはNちゃん。残った五人も絶対に自分をうらやましがるようでなければ、こんな高い服を着る意味がない。損の感情の発生である。


 そこでNちゃんがとった作戦はこうであった。


 「この服の価値がわからないなんてサイテー。人間として価値が低いのよ!!」


 つまり、自分と、それを誉めたMちゃんからUちゃんまでを上の存在、「何それ?」と無関心だったVちゃんからZちゃんまでを下の存在と勝手に認識し、罵り始めるわけだ。 これで自己の形成と他己の否定ができ、やっとNちゃんの気持ちが晴れるわけである。 ここまででNちゃん以外のみんなが一通りは損の感情を胸に宿したことになる。


 しかし、Nちゃんの心の中には、自分は周囲の人間の中で目立って当たり前という感覚が植えつけられている。


 自分は他人に誉められるもの、誉められているということが普通、誉められていなれればいけない。


 これは逆をいうと、他人が少しでも自分をけなしたり、あるいはNちゃんのプライドの高い心の中でそれと同等の行為があったと認識されれば、Nちゃんはすぐに損と感じるのである。つまり、Nちゃんは自分の中で知らず知らずのうちに他人よりも自分が損と感じるものの基準が広く、さらに敏感になってしまっているのである。


 また、損の感情が他人からやってくるということは決して一過性ではない。永久的に続くものである。そのまま放っておけばスパイラル状に増えていくことであろう。


 みんながどこかしらで損の感情を抱えたこの教室。さて、ここではいったいどんなことが起きうるのであろうか?


 わかるだろう。損の感情の発散、損の感情の擦りつけ合いである。 A君はリーダー格の人間なので、誰かに暴力を振るうことで、自分の損の感情を吐き出そうとするかもしれない。


 D君は自分よりも頭のいいC君を妬んで、C君の勉強以外の部分の悪いところを罵ったり、C君をいじめたりすることで自分の損の感情の宿るところを誤魔化そうとするかもしれない。


 F君は、E君と同等のコレクションがあると嘘をついたり、また嘘がばれて皆に非難されることを懸念して、E君のコレクションを奪うことでの損の部分を満たそうとするかもしれない。


 Nちゃんは力がないので、まず気に入らない人物がいたら、自分達のグループの中で徹底的に否定しようとするだろう。


 『ムカつく』という言葉がある。


 その言葉は「自分は損の感情を感じた。できることならば誰か


 この場合の誰かは損の感情を受けさせられた当事者が多いーーに仕返しをするぞ!」という宣言でもあるのだ。


 そうして、人はどんな方法を使ってでも自分達の損の感情を解消しようとする。


 しかし、結局はもともと一人の人間の中にあった損の感情が他のどこかに移ったというだけで消えてしまったわけではない。


 また、さっきも述べたように損の感情は流動的である。さらにNちゃんなどは先ほど述べたように損の感情が発生しやすい人間なので、損の感情はどんどん現れ、どこかへと流れていく。


 さて、どこへと流れるのか?


 彼、彼女らが例えばカラオケなどをして他人がつくった自分達を魅了する方法に陶酔することで損の感情を発散できればそれでいい。


 しかし、カラオケなどはごく一時的にしかできない。それ以外の場で損の感情が出たときはやっぱり損はなるべく早いうちに処理したほうがいいので、その時は別の方法で発散するだろう。


 実は最初に説明した、他人から受けた損益を二度ともらわないように避けようとするタイプの人間のところに最終的に流れ着くわけだ。


 避けよう避けようと行動したところで、人間として集団の生活を余儀なくされている以上、損益を避け切るということは到底無理なことなのだ。


 先ほど説明した中でそのタイプの人間は、K君、L君、M君の男子三人と、VちゃんからZちゃんまでの女子五人だった。


 彼ら、彼女らはいったいどんな方法で自分達に降りかかる一方的な損益に対処するのであろうか?


 K君、カードを持つのは子ども、持たない僕は大人、だから僕は他の奴らよりも偉いという認識をした彼。


 彼はまた、「悪口をいうような奴は駄目な人間だ、いわない僕は偉い」という自分は特別だという認識を持つことで自己形成、他己否定をし、少なからず対処できたようである。


 L君はどうするか?


 L君はテレビゲームが好きだった。


 彼はテレビゲームの中の擬人的な人間と戦いをし、それに勝ち、自分を凄い存在だと際立たせることで増え続ける損の感情を吹き飛ばすことに成功しているようだ。擬似的な弱いものへの損の擦りつけともいえるかもしれない。だが、本来ならばその対象が人でない分、別段文句をいいようもない筈である。


 Vちゃん。


 彼女は本を読むという行為によって心を魅了されたり、自分の損の感情を反らず考え方に出会うことで乗り切ったようである。


 Wちゃんはスポーツで、Xちゃんは絵を描くという行為で同じくそれぞれ損の感情を吹き飛ばしていた。


 要するにこの四人は人々が英知を結集して作り出した今存在している自分達を魅了させる方法で、損の感情を根絶やしにしようと考えたわけである。


 Yちゃんはというと極めて特殊な方法をとり始めた。自分自身を弱者と見立てて、要するに自己を他己として否定し始めたのである。


 自分を駄目な人間だと思い込む。あるいは自らの肉体を傷つける。一種のアレルギー、アトピーなどで発疹ができて自分の体を引っ掻くということもこれにあたるだろう。


 その行為を繰り返すことで一時は気が紛れる。繰り返す、一時は。 Zちゃんはというと、そのどの方法も持ちえなかった。


 損の感情の解消の破綻。どんどん積もりくる損の感情を前にもはや対処ができず、彼女はついに破損の感情の湧き出る場所そのもの、つまり学校からの脱却を余儀なくされた。 Zちゃんの場合はあくまで損の感情が湧き出る器が学校だと気付いたために不登校という形となった。


 しかし、もしその器が学校ではなく、社会全体であるという認識がなされたらどうなるか?


 おそらく社会という器からの脱却、つまり自殺という方法をとることも考えられなくもないであろう。


 さて、残るM君、彼は避け切れない損の感情にどうやって対処したのか?


 自分よりも弱者がいなかったから避けるしか方法がなかったわけである。つまり、教室の中では自分よりも弱者がいなかったから、そう対処せざるを得なかったということなのだ。


 そう、別段、擬似の弱者に矛先を向けなくても、教室の中以外の場所に自分の弱者となりえる人間が存在していさえすれば、その人間がM君の損の感情を吐き出す対象となりうるのである。


 その対象となりうるのが、主に家族などである。


 M君は家族の中で自分の弱者となりえた存在、母親なり父親なり、兄弟姉妹、祖母祖父なりを損の感情を吐き出す存在として認識し、暴力を振るったり、M君の年齢がもう少し高ければ、ときには性欲の対象として見なしたりするであろう。


 L君、それにVちゃんからXちゃん。彼、彼女らは一通り趣味で損の感情を吐き出す方法を持ってはいる。


 だがしかし、自分で解消できる損の感情の量が、もし受けてしまう損の感情よりも多かったとしたら?


 また、A君からJ君、NちゃんからUちゃん。彼ら、「損を擦りつけるタイプ」の人間達がなんらかの理由で一番の弱者になり、「損を避けるタイプ」の人間に変わる可能性もある。


 その場合、彼らはどんなふうに損の感情を吐き出すのだろうか?


 …これはもう、M君、Yちゃん、Zちゃん、のとった方法、そして、もう一つ、殺人という手段をとらざるを得ないであろう。


 


 殺人。


 この国家では倫理上、あるいは法律上、殺人をやってはいけないという風に定められているのは周知の事実である。


 殺人を犯せば十四歳以上なら死刑以外の実刑を受けるだろうし、二十歳以上ならば二人以上の人間を殺せば死刑、強盗殺人であれば一人殺しても死刑である。


 また、十四歳未満であったとしても、少年院送りになることは間違いないし、世間の目によってその後の人生でもそのことが社会生活を行う上で大きく伸し掛かってくるであろう。


 つまり、殺人を犯すということは、個人にとって多大な損失な筈なのである。


 では、何故、殺人を犯す人間が現れるのであろうか?


 K君がいる。


 彼は「他の人物はおかしな真似をしているが、自分はしていない。だから僕は偉い」という自己形成と他己否定をすることによって自己顕示欲を満たし、それによって損の感情を払拭しようとした。


 しかし、こんな方法で果たして損の感情を全て払拭することなんてできるのだろうか? 無論、答えは否である。


 たとえこの方法で一つの損の感情を拭い去ったところで他の損の感情が出てきてしまうのである。


 他の人間は、友達付き合いというものをしている。しかし、自分には友達が一人もいない。


 先ほども述べた理由でK君の中にも、友達がいるのは当たり前、いない自分は損であるという認識があるとする。


 そこでK君、友達が欲しいと思って、G君からJ君までの四人のグループに話しかけてみた。


 そこで、G君は仲良くしようと、まず手始めにK君の好きなものはないかと訊ねた。


 K君、嬉しくなって、つい、本当に好きなもの、例えば、少女マンガが好きだということを彼らに話した。


 びっくりしたのはG君からJ君までの四人、無口で偏屈だと思っていたK君がまさか少女マンガが好きだとは。彼らは思わずゲラゲラと笑い始めてしまった。


 その笑い、K君には、自分が好きなことを彼らによって否定されたものと認識された。つまりK君にとっては損失なのである。


 今まで一度もそんなことをしたことがなかったK君。一番最初にそういう出来事にでくわした彼は、今までの経験がない以上こんな風に受けとめる可能性もある。


 「他人と付き合うということは自分にとって損益である」


 そして、それがK君の心の中で当然の感覚としてインプットされてしまう可能性があるのだ。


 つまり、K君はその出端でつまずいたことにより、「人はみな自分にとって優位に働かない。だから避けなければいけない」と認識し、K君は二度と感情を表に出さないで一人殻に閉じ込もるようになる可能性があるのである。また最初でなくても、何回か同じようなことが続けば、このような認識することがあるだろう。


 勿論、必ずしも、K君が最初からそのような認識をするとは限らない。「自分の感情を表に出すことは損」ぐらいの妥協された認識をする可能性もある。それだけであれば、「自分の感情を押し殺しさえすれば他人と接触できる」と考えることも可能ではあろう。


 しかし、これまでの時点でK君は「他人は自分の悪口をいうもの」という認識を強く持ってしまっている。全員がそうではないにしろ、彼が見てきた、目に写った人間の多くがそうであれば、人全体は信用できないものという見解はできあがってしまうことがあるのだ。


 損を解消したいのに、それは避けるべき行為として自分の中で認識されているジレンマ、そうなればK君はもう自分の力では損の感情が払拭できそうにない。


 では、M君とYちゃん、Zちゃんの三人のうち、誰の方法で損を吐き出すか?


 ここで、K君、Zちゃんと同じように不登校という道をとったとしよう。


 不登校。


 しかし、K君の気持ちの上ではずっと学校に行きたかった。


 他の人間が全て同じ道を通っているというのに、自分だけが奴らの所為で取り残されてしまった。もはや、K君の人生自体に何の保障もない。


 K君にとって、自分の今の状況は、損も損、大損である。しかも、それは自分の所為ではない。教室にいた人間達の仕業なのだ。


 K君は今度こそ怒った。


 この何をやっても拭い切れない損の感情をどうやって解消すればいいのだろう?


 もう一度、おさらいをする。K君は「一度受けた損の感情を二度と受けないようにするタイプ」の人間である。


 Yちゃんのとる方法は自分が痛いのでK君はやらなかった。


 損の感情の出る器からのさらなる脱却ーーつまり自殺ということは、K君の何としてでも損の感情を晴らそうというポリシーに反した。


 またK君の両親は厳格だったので、M君のように家族を攻撃の対象にするようなことはできなかった。


 残るもう一つの方法……


 さて、ここでどうしてK君は損を避けるようになったのだろうか、それを思い出していただきたい。


 幼児の殴り合い。


 いくら殴っても、殴り返されるのがわかっているのである。だから、妥協して手を引っ込めるしかなかったわけだ。


 そう、K君には損を返そうとしても、すぐに損が戻ってくる可能性があることを知っていたわけである。


 だからK君が損の感情を拭うためには損の感情が自分へとまた跳ね返ってくることを防ぐ必要があるのだ。


 それを満たすにはどうすればいいか?


 そう、損の感情を晴らす相手がこちらの損の感情を植えつけたその後すぐにいなくなればいいのだ。


 平たくいえば殺人である。


 このように社会生活内で受ける損益と、法的な罰則として受ける損益とを、個人の中で天秤にかけ、社会生活内で受ける損益が大きくなった場合、損の感情の沸く社会への脱却の際の巻き添えとして、人が殺人を犯す可能性があるわけである。


 K君の殺意、それは全て損の感情の払拭から来た。M君の家庭内暴力、Yちゃんの慢性的な手首切り、Zちゃんの不登校、その先の自殺も原因は一緒である。


 しかも、損の感情を吐き出せなければ、結局なんらかの形で体調不良が起きるので、損失はどこかしらで必ず解消しておく必要があるだろう。勿論、出来れば、の話ではあるが。


 そして、このたとえは小学生ということであったが、もしこれが中学生、高校生と上がるとなると、たとえ何もしなくても性欲という損と得の感情を大きく揺るがす存在が降って沸いてくる。


 K君がもし、その恋愛感情で賑わう教室の中で一人ポツンと取り残されたなら一体どうなるであろうか?


 恋愛は得て当然なもの、セックスはしなければいけないもの。


 その当然の感覚に操られたK君。人間と付き合うこと自体を損と感じているのに、恋愛に参加しない自分自身も損と感じる。


 K君は自分の思い通りの、自分の都合のいい恋愛の方法として、ストーキング行為や、レイプという手段を行うことも考えられるだろう。


 もはや、人の心を潤す言葉など、存在しないのかもしれない。


 


 人間。


 人間は偏に自分達の欲望を満たすことに専念し、世の中を発展させてきた。


 最初はいかにどれだけ米が多く獲れるのかという研究をし、農具が発展した。


 次に、戦いのため人を殺すための武器が発展した。


 やがてどきなどの日用品が発展、人々はいろいろなものに様々な工夫を凝らした。


 そして、いつしか、一つの大きな発明がなされる。電気である。


 電気はその後、モールス信号、電球、電話と次々と人々の間で応用されていった。


 いつしかモーターが発明され、車が走るようになり、飛行機が飛び、新幹線が高速を行くようになる。そうして乗り物はだんだん進化していった。


 電気の普及はそれだけではない。


 家庭での生活を一新させた。


 ラジオ、レコード、電気掃除機、冷蔵庫、白黒テレビ、ステレオ、クーラー、カラーテレビ、ビデオ、CD……




 新しい技術の開発は人々の生活を豊かにしていった。


 ここに一つの技術の進化の頂点がある。


 パソコン、インターネット。


 画面上で人と人とが文字で会話をする媒体。


 自分を隠し、他人と対話できる優れた技術。


 …それに比べて、人と人とが直接対話することに極めてデメリットが多くないだろうか?


 他人に自分の容姿を認識されることによって、他人が自分のことを拒否するという事態が起き、それによって損の感情も出現することであろう。


 一方、インターネットにはそれが防げ、更には自分がいくらおかしな行動をしてもハッキングでもされない限り、知られることがないという得、つまりやり返されずにいくらでも損感情を吐き出すことが出来るというメリットがあるのである。


 どう考えてもインターネット上で会話することの特典は大きいのだ。


 現代の大半の人々には、人と直接対話することが当たり前の感覚として認識されている筈である。だから、もし万一、インターネット上で会話することに慣れ切ったところで、人と直接会話するという方法も当たり前のこととして行うことができるだろう。


 しかし、今の小さい子ども達、彼らがまだ直接人と対話するということが当然の感覚として認識される前にインターネットという特殊なコミュニケーションの取り方に慣れてしまった場合はどうなるのだろうか?


 余りにもメリットの大きいインターネットでの会話、それに比べて余りにも魅力のない人との対話。


 彼らの中でいつしか、インターネット上でとるコミュニケーションが当然の感覚として受け入れられ、人と人との直接の対話が極めて異質なものとして認識されてもおかしくはないのではなかろうか?


 彼らがやがて大きくなり、人と人と肌を重ね合わせたいというごく自然な欲求に駆られたとき、彼らは一体どうするのであろうか?


 また、このインターネットというコミュニケーション方法が一方的に損の感情を吐き出すことが出来るものだと先ほど述べた。


 つまりインターネットは損の感情に極めて染まりやすい媒体といえる。


 人とまともに顔を合わせることすらできない。そして、さら損の感情に染まった人間達の多い社会……


 そんな未来がすぐ目の前にまで近づいているのかもしれない。


 


 全ては人の欲望から始まった。


 この世の全ては損の感情の擦りつけ合い。


 損得感情によってのみ固執された、孤独な戦い。


 いつ終わるともわからない、無意味な戦い。


 人はそれを、ただ延々と繰り返すーー





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