第八章 その四
一九九九年 六月 二十一日 (月)
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6/21 一、中学生 山下 望美(その三)
大会当日。
ついに会場に足を踏み入れるときがやってきてしまった。
私にとっては選手に選ばれてから最初の大会。でも先輩にとっては……
……「なあ、山下。今度の大会でさ、俺、今まで培ってきた全ての力ぶつける気持ちで頑張るから。
だから、しっかりと見ていてくれよな……」……
そのときの先輩の言葉を思い出すだけで胸が熱くなる。
先輩は私のこと……
いや、やめよう。そんなことを考えるときじゃない。大会のほうに精神を集中させなきゃ……
開会式が終わり、一度控えの位置に戻ると競技を迎える。
比較的早い時間に女子一〇〇m走の予選は始まった。
私は三レース目の六コース。
今までうまくいったときのことを思い描き、順番を待つ。
二つのレースの結果が出て、あっという間に私の出番になった。両足を屈め、クラウチングスタートの体勢をとる。心臓がバクバクと動く。それを少しでも沈めるために私はゆっくりと深呼吸をする。 大丈夫だ。きっとうまくいく。そう心に念じかけて。
審判の声がかかり、ついにピストルの音が鳴り響いた。
私は走った。もう無我夢中で、何がなにやらわけもわからず、とにかく足を一瞬でも早く前に出そうと必死だった。
右の横の方の視界にチラリと人が映る。この人に勝ちたい。この人よりもちょっとでも短い時間でゴールのテープを切りたい。
だけど、現実にはそうもいかず……
予選八人中三位、惜しくも決勝までは届かず。
「あと少しだったのに残念だったな」
選手の控えの場所に帰ってくると、先輩がそういてくれたので私はエヘヘと苦笑いをした。
しかし、同じレースで走った他校の三年と思われる女子が会場の後者の隅で泣いている姿を目撃したとき、私なんかが本当に陸上をやってていいのかということを疑問に感じた。
その子は私の左のコースで、明らかにスタートをミスした様子だった。だから、一発勝負というものはとても恐い。
先輩は大丈夫だろうか……
そんな心配をする必要もなく先輩は楽々予選を突破した。
その間、澤田先輩が走り幅跳びで予選第一位の記録で決勝へと駒を進めた。
二人がお互いに励まし合い、嬉しそうに笑う。やっぱり二人はお似合いのカップルだなと思う。
私はこの場にいらないような気がしてくる。でも、選手として檄を飛ばし合えなくっても、私はいくらでも声をかけてあげることができる。
一〇〇m走の男子決勝の召集がなされ、先輩は選手控えから腰を上げる。
「先輩」
私は思い切って大声でいった。
先輩はこちらに気がついて振り向く。先輩は私のことを見つめる。その視線に私はドキッとする。私は、目を瞑りながら今までの気持ちを全て込めるかのようにその言葉を口にした。
「先輩、頑張ってください!」
私はゆっくりと目を開けると先輩がニッコリと微笑む姿が瞳に写った。
…神様お願いです。どうか、どうか先輩を勝たせてあげてください……
その先輩のレースが今、始まろうとしている。
先輩は五コース。何故だろう? なんだか先輩がいつもよりも小さく見える。…回りは先輩よりも大きい人が多いんだから当然といえば当然か。私は胸騒ぎを掻きむしるように胸の中で何度もワンフレーズを繰り返す。
先輩、負けないで。先輩、先輩……
ピストルマンの号令のあと、銃声があたりに木精した。
あ!! 先輩が、少し出遅れた……
でも、大丈夫、先輩の力なら何とか抜かせる。
だって予選であんなにダントツの一位だったんだもの。精一杯の力を出せれば絶対いけるわよ。
それに、約束したんだから。先輩、今までの培ってきた全ての力を出すって。そう、そうよ、先輩だんだん、追いついてきた。抜かせる。抜かせるよ……
え……!?
ふと、誰もが息をついた瞬間、先輩は苦しそうに顔を歪めて倒れ込んだ。
「先輩!!」
私はその名を叫び、無意識のうちにグラウンドの中へと駆け寄っていた。歓声がスローモーションに聞こえる。急がなきゃ。先輩が……
「先輩、先輩!」
私の声に気付いてか先輩はゆっくりと起き上がる。
「…山下、駄目だよ。こんなとこ入ってきちゃ、まだレースは終わってないんだから……」
先輩はそういって私の差し伸べた手を退けた。
「ごめんな、全力を出し切れなくってさ」
私はぶるぶる顔を振る。
そんなことない。そんなことないよ。
先輩……
足を引き摺りながらゴールへと向かう先輩の後ろ姿を見て、私は涙が止まらなかった。
こうして先輩の最後の大会は静かに幕を閉じた……
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6/21 二、原子力発電所勤務 原田吉造さんの帰宅してからの第一声
「ああ、今日も一日何事もなく業務を全うできた……」
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6/21 三、某ホームページ
タレント〓(注、この外字は丸秘)情報暴露サイト
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一九九九年 六月 二十二日 (火)
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6/22 一、荒川土手の鉄橋の下にて
僕は捨て犬。何日か前、僕を飼っていた君島さんが僕のことを段ボールに入れてこんなところに捨てていっちゃった。なんでも、この世が終わるかもしれないからもう飼えないんだって。ここ、殆ど人が来ないし食べるものもない。僕はどうやって生きていけばいいんだろうってすごく不安だった。そう、昨日までは。
昨日にね、僕の所に一人の男の子がやってきてくれたの。彼ね、大地君っていって何日も何も口に入れていないこの僕に給食の残りのパンを置いていってくれたんだ。それだけじゃない。帰り際に僕が男の子の家に住めるようにお父さんとお母さんにお願いしてみるって。僕、嬉しくて嬉しくて彼に向かってありがとう、ありがとうって大地君の姿が見えなくなるまで吠え続けた。今日は来てくれるかな。僕を飼ってくれるかな。
橋の上では小学生達のはしゃいでいる声が聞こえる。そろそろ、来る頃かな。あ、大地君が走ってこっちにやってきた!
「ごめんな、ポチ。家じゃ犬飼えないんだって」
大地君は僕の頭を優しく撫てくれた。
…そうか、やっぱり駄目だよね……。僕は「どうにかならない」のとクウーンと鳴きながら大地君のきれいな瞳を見つめた。
大地君は残念そうにいった。
「…それにね、もう少しで世界が終わっちゃうんだ」
その途端、大地君の目の色が変わった。
え!? 何をするの!?
僕の頭に大地君のランドセルが振り下ろされた。
「おいしい、おいしいよ、ポチ……」
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6/22 二、パン屋ヤラセにて(その三)
一時期あんなに売れた『死ぬまでに一度は食べておいたほうがいいパン』。しかし、最近になって、全く売れなくなってしまった。その後というものの、あれだけよくなってきていた俺達夫婦の仲も今まで通り冷え切ったものになってしまった。あの日の夜の燃え上がるようなひとときもまた、一夜限りのものでしかなかったのだろうか。
「暇だなあ。近頃金物屋が異常に繁盛してるっていうし、店変えようかなあ。…もう無理かあ。ったく、何で客が来なくなったのかなあ……」
カウンターでの俺の独り言に、女房がひょっこり姿を出してきて答えを返した。
「安直すぎたんだよ。それに他のお店も似たような名前の商品をどこでも売り出すようになっちまった。
『生きているうちに食べよう一流シェフのスペシャルディナーパン』やら『死ぬ前に食べると尚おいしいパン』やら『食べ物がなくなって死にそうなときに非常食として便利、乾パン』なんてのを他の店に出された日にゃもともと売れてないうちが適うわけないんだよ。
どうすんだよ、アンタ?」
女房の突き刺さるような視線が痛い。俺は腕を組んだ。
「お前は何が食べたい? 今まで誰も食べてような、世紀末ならではっていう食べる物」
「………そんなこと、聞いちゃいけないよ」
どうやら、女房には心当たりがあるらしい。
「そうかい」
俺は女房の後ろ姿を見つめた。
俺は丸々と肉の付いた女房の後ろ姿を見つめた。
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6/22 三、宗教法人養成セミナー(その三)
どうも、今日は様子がおかしい。先週と同じようにセミナーのビルに来たのだが、どうしてなのか入り口で早く来た同じセミナーを受けていたと思われる人間がもう帰る様子である。ビルの中を歩いているとそんな奴らと何人もすれ違う。なんだ? 今日のセミナーはないのか?
ん? なんか奴ら持ってるなあ。なんなんだろ? 気になるなあ。
でも、声掛けられるか? こんな変なセミナーの受講生たちだぞ?
…まあ、会場に行ってみるしかないかあ……
セミナーのガラスの扉を明けると、そこにはもう既に青井が立っていた。
「あ、受講者の方ですか? 今日はセミナーはありません。ただ、十万円で、一つの本を買ってもらいたいのです。この本には今までの受講のほか、弱者の見極め方、洗脳の仕方なんかが載っています。どうぞ、手にとって見てください」
青井はたくさんある中の一冊を俺に差し出した。
ーー『トランジスター』ーー
その本の表紙にははっきりとそう書いてあった。
青井のほうを見ると、奴は不適な笑みを浮かべた。
一九九九年 六月 二十三日 (水)
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6/23 一、父親 唯野 繁樹(その四)
こんな安直な名前の胡散臭いところ、誰も来ないのではないかと思っていた。しかし、当の<家族関係修復屋>はそれなりに成果を出しているらしく、私は電話をしてからこの日まで待たされた。
現場は古めかしい神社の中であった。予約待ちの人達がもう随分並んでいるところから見ても、ここが如何に繁盛しているかがわかる。
…大丈夫、ここなら信頼ができる。私はそんな風に自分にいい聞かせた。
その行列の中に混ざって一時間。ついに境内の前にやってくる。私は胸元を手を当てる。
やがて、さっき中に入った人が出てきた。
「はい、次の方、唯野繁樹さん来てますか? どうぞこちらへ」
引き戸の隙間から作務衣姿に坊主頭の男が出てきた。
「えーっと、どんなことでお悩みでしょうかな?」
料金を受け取った後、不用意に笑顔を見せ続ける作務衣の男はいった。
…この男はお坊さんなのだろうか? 人の教えを説くことができると。しかし、何故頭に切られたらしき傷があるのであろう? …謎である。
まあ、とりあえず話さなければ始まらない。私は用件を口にした。
「あのう、娘を更生させたいんです。私、妻を死なせてしまって、娘を一人にしてしまったんです。それで……」
私は話しながら自然と俯く。
「そうですか、娘さんを」
男は突然調子外れの声を出してきたので、私はきっと男を睨んだ。だが、男はそんなことにも気付かないらしく、とんでもない質問をしてきた。
「何で娘さんを更生させたいと思ったんですか?」
何を訊くのだ、この男。私がここに来る理由がわからないとでもいいたいのか?
「家族だから、掛け替えのない家族だからです。だから、また元に戻って欲しくて……」
私は本心をいった。
「じゃあ、代わりがあったらどっちかいらないんですか?」
私は「ぶっ」と噴き出した。
この男、何がいいたいのだ?
「…田舎の両親とは、きちんとやっています。娘だけとうまくいってないのです」
「あるじゃないですか、代わりが。それだけでいいんじゃないですか?」
何をいうんだ。ヤクザか、こいつは。
「どちらか一方ーーつまり、私の父親、母親と私で一つ、私と娘で一つの家族があるわけじゃなくって、両方で私の家族なんです。同じ屋根の上で暮らしていなくっても、です。あなたは何を考えているんだ!!」
男はまだ、ニッコリとした表情を変えない。
「わかっていますって。いってみただけですよ。ジョークですよ。ジョーク。一緒の家にいる人だけが家族ではないんですよね?
ええと、あなたは娘がいなくなって心配なんですよね? じゃあ、あなたは自分と同じように、遠くのご両親が自分の姿を見ないでいても寂しくないとお思いですか?」
私は眉毛をピクリと動かす。
「…もう私は大人なんです。社会な地位もあるし、両親だってわかっているでしょう」 作務衣の男は、ますます口元を緩ませる。
「本当に? 本当にそう思いますか?」
そう問い詰められると、断定はできない。もしかすると寂しがっている可能性だって考えられなくもないだろう。
私は固まるしかなくなる。
「わからないでしょう? そんなもんですよ。
実は、自分の中で当たり前だと思っていたことが、他人にとってはイコールでは結ばれないケースがある。
ついでにいうと、そういう自分の中では普通のことが、他の家族にとっては不利益なものと感じられるものがあると思うんです。
例えば、父親の立場からは家事をやるのが母親の役目だと思う。しかし、母親にとっては休日もなくやることなのだから、しんどい。たまには休みたいな、なんて考えるでしょう。しかも、子どもは、大人の比較的悪いっていうか、楽に、面白おかしく行動している姿を見ていたりする。で、子ども達の感覚でも、家事は母親のやる役のが当たり前になってしまっていたりする。そうなると母親の負担が高くなりますね。それが母親の中でも家事は私がやるのは当たり前だって認識しているのなら別にいい話ですけど、もしそんな母親に育てられた子どもが大きくなって母親になったりしたら、絶対にそうではなくないわけですよね。そうしたら、その母親は自分がすべきことを損と感じるようになるでしょう。そんな風に家族の中で、誰かが損をしている、得をしているという感情が出てきてしまうことが家族の不協和音を呼んでいる原因だと私は考えています」
いきなりのこの男のまともな科白に私は少々面を食らった。しかし、男のいっていることは結構的確に家族関係を指し示しているように思えた。
そうか、私は仕事一本でバリバリ稼ぐのが、普通のことーー家族のためなんだとばかり思い込んでいた。
しかし、妻や娘にとっては、それは単に常に家に一家の大黒柱がいないという不安材料を持たせていたのかもしれない。
「それで、娘にも損と感じられることがあったから家から飛び出してしまったと……」 作務衣は、笑った顔のままでコクリと頷く。
「娘さんに説得は試みたのですか?」
「いや、一応やってはみたんですけど……」
立ち去られてしまった。ろくに話も聞いてくれずに私は置いていってしまった。
「…そうですか。それは大変ですなあ。
実はですねえ。両親が構ってくれないような孤独な子どもはナルシストになりやすいという話があるんです。…まあ、子どもといっても四歳ぐらいの子の話なんですが。
これは新聞にて専門家が話していたことなんですが、私は正直同意しかねるんですね。 私はね、孤独な人間がそのようになるには一つのメカニズムがあると思うんですね。
まず、両親が構ってくれないような孤独な子というのは、周囲の人間と自分を比べるわけですね。そうすると、周りの子は親に頼って生きていたりする。でも、孤独な子というのは親に頼らずとも一人でやっていけたりする。その子は寂しい反面、『僕は一人で何でもやれる。でも周りの子達はできない。だから僕の方が偉い』っていう風に思い込むわけです。
一種の寂しさ紛れの苦肉の策ですね。
そんな状況で、いざ、両親が甘やかしてくれる談になると、『僕は一人で何でもできるのに親に甘えてしまうと、彼らよりも僕は偉くはなくなっちゃう』っていう考えが働いて、自分で壁をつくってしまうんです。
こういう段を踏み越えていくと弱みをみせるということに対しても、結構見方が変わってくるのではないでしょうか?
多分、弱みを出すということは誰にとってでもある程度の勇気が必要なことなんだと思います。
だけど、そんな風に一段他人より上だと思いながら生きていると、他人がそのように弱みを話しているところを見て、『こいつはこんなに俺がかわいそうな環境で頑張っているんだ』って自慢しているんじゃないかと思うようになってしまったりする。自分がちょっとでもやろうしていたことでも、他人がやると俺はやったりするもんかって思うんですよね。上に立ちたいから。そういう思考が働いてしまうことで、他人になんにも話せなくなってしまったりね。
それが、だんだん泥沼に入ってしまって、人恋しいときでも自分で収拾が付かなくなってしまうのではないでしょうか?」
私は目を瞬かせた。
「娘がそういう状況に陥っていると?」
「…まあ、そういう可能性がないとはいい切れませんよね」
男は首をぐるりと回した。
「…どうすれば、どうすれば娘は……」
私は男の作務衣にしがみつく。男は私の肩をポンポンと手で叩く。
「娘さんは、その暴走族に入るっていうことを本当に好きでやっているのかという意志を確認すること。その後、あなたが娘さんのことをしっかりと受けとめることができるということを、娘さんにきちんとした形で示すしかありませんね」
「それはどうやって……?」
私は男の顔を下からを見上げる。
「あなたは娘さんに今まで損をさせてしまった。しかし、それもあなたにとっては不本意ではないんですか? ならば、あなたは娘さんにその損を補ってあげられるということ、その損を解消させてあげられるということを見せるのです。
今まであなたは娘さんを一人にしてしまったんでしょう? あなたはどうしてそんなことをしてしまったんですか? それは娘さんのことを思ってとってしまった行動だったんじゃないですか?
多分、自分の気持ちとそれに準ずる行動を相手に一〇〇%わかって欲しいと求めてはいけないのでしょう。…まあ、悲しい話ですが。
それがあなたと娘さんの阻隔の理由でしょうはないでしょうか?
娘さんがどうすればあなたの元へ戻るのか?
本心を口にしてあなたが求めいて、かつ娘さんもまた求めていることを提示すること、それがここでは一番大事なことではないでしょうか?」
そうだ、自分でもわかっていたような気がする。
しかし、それはこの男がいうほど簡単なことではなさそうだ。
今、私は眞知佳に何をいってやることができるのだろう?
私が求めて、眞知佳もまたそれを求めているもの。
それは……
「そうですか。わかりました。ありがとうございました」
私は作務衣の男に向かってお辞儀をすると、その場から立ち去った。
「いえいえ、こちらこそ、これからが肝心ですよー」
*
誰もいなくなったお寺の中、一人の男が私に近づいてきた。男はいった。
「どうですか?」
私は三週間前に知り合ったばかりのその顔に声を掛けた。
「あ、青井さん。いやあ、一人二万円で今日一日で二百万円まで達しましたよ」
青井さんは眼鏡を押さえながらにこりと笑った。
「そうですか、割と上々ですね。じゃあ、これからもよろしくお願いしますよ」
青井さんが私の肩を叩いた。
「…は、はい」
彼と知り合ってから、三週間、マニュアルを繰り返すだけでこんなに簡単にお金が儲かるということを初めて知った。
一九九九年 六月 二十四日 (木)
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6/24 一、とあるホテルの一室にて
俺はプロのボディーガードだ。
これから俺は大物政治家の護衛を任されることになる。
おそらく名前を聞けば子どもでも答えることができる、どこかの柿落としの会場などに出てはニコニコ、選挙の演説の時もニコニコ、どんなときでも笑っているのがトレードマークの中堅代議士である。この男は今はまだ党内の位置はそれといってぱっとしないが、評論家の間ではこのまま何十年も経てば必ず総理の椅子も座れるだろうと目される注目株でもあった。
報酬は二千万円、値段は破格だが、それだけ重要な任務だと聞いた。これから俺にその資格があるかを調べるという。
どんな試練が待ち受けているのかわからないが、俺はプロのプライドをかけて何としてでもこなしてみせる!!
俺はそう心に固く誓った。
俺はホテルの一室にて待たされる。他にも同業者と見られる男どもが胸にプレートを付けられて二十名ほど椅子に座らされている。
ちっ、俺だけじゃあ信用にあたらないっていうのか。だからこんな奴らと競わさせて、三、四番目までの成績を収めた奴にその業務を託そうっていうのか。望むところだ!!
俺らの目の前に、代議士の秘書らしき人物がやってきた。
「えー、これから皆さんに先生と面接を行なってもらいます。この面接で合格水準に達した方に、こちらから改めてボディーガードとしての要請を行ないます」
面接? 技量を調べるわけでもなく、それだけで全てが決まる? …一体何をする気なんだ?
「では、一番の方どうぞ」
一番のプレートを持った奴が部屋の中へと招かれていった。
待ち時間がとてつもなく長く感じる。他の奴らもやはり自分たちが比べられるのが気に入らないらしく、何だかピリピリしている。
最初に入った男が出てきた。何故か面接の前よりも顔つきが険しくなっていた。
奮起を固めさせらたのだろうか? いや、そんな風には見えなかった。
その後、二番目の奴も三番目の奴も眉を顰めて部屋から出てきた。もともとボディーガードは感情を外に出さないようにする筈なのに、どうなっているのだろう?
「はい、五番の方、どうぞ」
俺の出番になった。俺はその問題の部屋の扉の前に立つ。中を開くと向かい合わせに置かれた高級そうなソファーの一方に問題の男が座っているが伺えた。そのソファーの間には大理石のテーブル、その上に何やら重たそうなものが乗っかっていた。俺は部屋に足を踏み入れるなり遠方の代議士に向かって礼をする。
顔を上げたとき、ふとそのテーブルの上のものに注意がいった。
おい、あれは何だよ!?
「ああ、ご苦労さん、そこの椅子に座ってテーブルの上のそれ、それに指を嵌るところがあるからそこに右手の人差指と中指を置いてくれ」
その装置には変な針が四つほどあり、その装置からは変な紙が出ていて、その紙には奇妙な折れ線が四つ途切れることなく書かれていた。おいこれ、もしかして嘘発見機じゃないのか?
俺は目の前の男を睨む。
男は、「ほれどうした。他の奴らはみんな置いたんだぞ」と俺を急かすので仕方なく俺はその場所に指を差し出した。
「用意はできたか? じゃあ、これから私のいう全ての質問に『いいえ』と答えてくれ」
…やっぱり……
俺は尚もガンを飛ばし続けるも、奴に全く動じた様子はない。
「いやあ、私もいろいろ恨まれる性格の持ち主でねえ、最近おかしな噂があって命を狙われそうなんだ。そこでボディーガードを雇おうと考えたわけだが、どいつもこいつも信頼におけなくってねえ。こういう処置を取らせてもらった」
…ク、クソ!!
俺の心の中で舌打ちをした。
「…おや、もう針が動いているよ。プロのボディーガードとしてそんな程度でいいのかい?」
俺は殴りかかってやろうとも思ったがぐっと息を呑む。てめえ、この野郎、俺の実力を思い知らせてやる!!
「ほう、凄い。針が戻ったな。しかし、本当にこれから全てをクリアできるかな?
……じゃあ、早速、質問を始めるぞ」
俺は息を呑む。
「私のボディーガードをするのは厭か?」
…いきなりピンポイントの質問だ。
「………いいえ……」
針はちょっとだけ震えた。
「…ほお、そうか。
本当は私なんかの護衛なんかするより××党の××××の方を守ったほうがいいんだろう?」
私は目を瞑って息を止めた。
「………いいえ……」
「…おや、反応はないな。そういう気持ちはないのか。
ところでお前はSMは好きか?」
…全然関係ないだろうが!!
「………いいえ……」
「…ほう、動かんなあ。わしは跳びっ切りのSなんだがなあ。まあいいか、わしのことは。
次いくぞ、ほらこれ」
といって代議士はポケットから何かを取り出した。
「これなあ、女優の××××の下着だ。師かも脱ぎ経てほやほやの奴だぞ。ほーら匂いも嗅がせてやる。どうだ、欲しいかー」
いらねえよ。
「………いいえ……」
「…………うーん、まだ動かないなあ、しぶとい奴だ」
俺はぶち切れた。
しぶとい奴だと! お前は一体何をやっているのだ! ボディーガードを選ぶんじゃないのか!!
その言葉が喉から出かかっているのをぐっと押さえ、呼吸を整える。こんな奴の口車になんぞ乗ってやるもんか!!
「フンフンフン、フガフガフガ、んん? 何だか鼻が詰まってきたなあ……」
「!?」
なんだ、この男、私の目の前で鼻くそをほじくりやがった!!
「…アポロ十一号、地球の洞穴からより飛び出し~~」などといいつつこいつはその指をふらふらさせながら俺の顔に近づけてくる。「~~月面に今、三…二…一……着陸しました!! …さあ、どうだ? まだお前は俺のこときちんと信用できる人間か!?」
私の頬にその感触が残る。というよりも、そのものがそこにまだこびりついている。
野郎。調子こくんじゃねえぞ!!
「………いいえ……」
「…ふーん、そうかあ。でも、針のほうは正直だなあ。
ん、んん? あれあれ? 変だなあ。急にトイレに行きたくなったなあ……」
俺は嘘発見機から指を外し、すぐさま部屋の外に飛び出した。
背後でクソたぬきの「ちっ、逃げ出したか」という声を聞きながら。
ふざけんなよ。
こちとら信頼というのを大事にすることで仕事が成り立てんだ。端っからこちらを信用しようとすらしていない人間のことなんか守れる筈あるか!!
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6/24 二、警視庁
「うちの子がレイプの被害を受けたんです。ところが、今警察では、そのような被害者が多いらしく、まともに話を聞いてくれないないんですよ。一体どうしてなんですか!!」 「東京大学が今や廃虚と化しているらしいですが、警察は何で取り締まりを厳しくしないんですか!!」
「強盗ですよ! 強盗。三日前に強盗が来たと思ったら今日もまたやってきたんです。今、治安はどうなっているんですか!!」
「新宿に行ったら靖国通りで白昼堂々と覚醒剤を打っている集団がいましたよ。何でまともに注意しないんですか? 逮捕するべきでしょう。どうなんですか!!」
最近になって、このような一一〇番の電話が増えた。係の者達が総動員しても間に合わず、今や電話回線がパンクしそうなくらいになってしまった。今の世の中はどうなっているんだという苦情もさることながら、それ以上に本当の事件が急増し、問い合わせても繋がらないという異常事態に日本中が巻き込まれ、ここは一端マスコミのほうへ事件を減らす意味でも会見を開くべきではという声が警視庁の中でも広がってきて、ついに上の者達が重い腰を上げてその準備に取りかかることになった。
昨日極秘で話し合いが行なわれ、そして今日、警視庁長官らが会議室に長いテーブルを用意してカメラの前へと登場する段となる。
そして、約束の時間を二分ほど過ぎた後、警視庁長官らはその場に姿を現した。お辞儀をして椅子へと座ると彼らは早速本題に差し掛かる。その声にマスコミが今にも前に乗り出さんという態勢で聞き入ろうとする。
「えー、このような不都合な事態が起きて人々が暴走し始めるなどといったことは前代未聞のことであり、私どもも大変困惑しております」
「困っているだけなのか!! きちんと対処するのが警察の役目だろ!!」
すかさずマスコミがヤジを跳ばす。
「あの、ご質問は最後にお願いします」
私は声を張り上げる。
多少会場が静かになった後、長官が言葉を続ける。
「私どもも総力を挙げて取り締まっておりますが、何せ国民の約六分の一が何らかの犯罪を引き起こしているとの専門家の見方もありまして、そうそうに解決できるような物ではないということを皆さんに念頭に置いていただきたい」
「人数が足りないから取り締まれないとでもいうのか!!」
「それでもなんとか解決するのが警察じゃないのか!! 俺達は税金を払ってるんだ。その国民を守るの警察の義務なんじゃないのか!!」
一度終わったと思ったマスコミの暴言も、長官が何かをいう度にまた再び沸き返る。
「…質問は最後にお願いします!!」
私はこのお決まりの科白を繰り返すしかない。
「まあ、幸い、他の職業の離職率が急激に上がっている中で、警官達は市民達の平和を守るんだという意識が高く、警察という業務を投げ捨てる人間は少ないことが唯一の救いだと私どもは思っております」
「嘘だ!! 警官は拳銃を持てるからみんな辞めないんだ。
拳銃使って人を殺そうと思っているから誰も辞めないんだ!!」
誰かの叫び声に周りが一瞬にして凍りつく。
「私語はお慎み下さい」
私の声でも、その空気は拭い去れない。
「……………」
長官ももうすっかり黙ってしまった。
「どうしたんだ。早くいえ!!」
「早く続けろよ!!」
「もう何もいえないのか!!」
「静かに、席を立たないで!!」
「何やってんだ、そんなんが警察なのかよ!!」
「今ここにいる人間の不満も押さえられないで、よく警察のトップなんかやってられんな!!」
次々と浴びせられる罵詈雑言。もはや私の注意も何の抑止の効果も発揮しないだろう。長官は下を向いたまま震える。
…一体どんな気持ちでいるのだろう? 私は皆の感情を沈めることをもはや諦め、じっと長官のことを眺めていた。
すると、しばらくした後に、長官は急に立ち上がった。
「うるさい!!」
警視庁長官が叫ぶ。そしてその次に口にした言葉に誰もが戦慄を覚えた。
「おい、てめえら、今はやんな!!
どうせやるんだったら七月一日の午後九時過ぎてからやれ!!」
「はいそちら編集部ですか? 大変だ! 警察が認めたぞ!! 警察が殺し合いを認めちまった!!」
ざわめき出す会場。マスコミの記者達が一斉に携帯電話片手に状況説明に慌て始める。 私はもう後戻りできないと、深く目を瞑った。
一九九九年 六月 二十五日 (金)
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6/25 一、下校途中の三人組(その二)
放課後、俺達はいつものように、三人一緒で帰り道を行く。俺は、本を読みながら歩いていると、チョンボとテツの奴がこんな会話をし始めた。
「なあ、テツ、なんかさ、俺らが考えていたこと、本当に世間に広まったな」
「ああ、××のDJしてるラジオに突然『××ちゃんとやりたい男の子、七月一日武器持って××××に集合膚』とかいう怪電波が流れたらしいからな」
「それってさあ、あいつらの仕業かなあ」
「まあ、多分あいつらだろうなあ」
「なあなあ、どうやったらあの××××に近づける?」
「お前まだ、本気でそんなのに参加するつもりだったのか!?」
「ああ、だから訊いてんだろ? どうすればいい?」
「…どうだろうなあ。難しいんじゃねえの? …格闘技でも身に付けてみるしかねえんじゃねえの?」
「…今からかよ。あと一週間ねえんだから昔っからやってる奴に敵うわけねえだろ」
俺は、その言葉にピクリとする。
「んじゃあ、あらかじめ灯油でも巻いて火ぃ放てば?」
「馬鹿! それじゃあ××××も死んじゃうよ!!」
チョンボがテツの奴を押したらしく、テツの奴が俺の方に倒れてきた。俺はその拍子に本を道端に落とす。俺は舌打ちをしながらその本を拾うと外れかけた書店名の入った紙のカバーを本にかけ直した。
「わかった、わかった。今度こそいい作戦だ。他の奴らが殺し合いをしている最中はどっかに隠れてて、一人生き残るのを見守るんだ。そして、そいつが××××とまぐわっている瞬間に後ろから刺す、とか」
「お、それいいねえ!」
チョンボの奴がパンパン手を叩く。俺はうるさくて本を読むどころじゃないと、黙って本を閉じて奴らの会話に入る。
「でもさ、隠れ切れればの話だろ? 見つかったらアウトじゃないかよ」
二人は残念そうな顔をする。
「…ああ、それもそうだなあ」
俺は空を一瞥する。
「まあいいや、黙っておこうと思ってたんだけど、まあ、お前らだからいいか。いうことにするよ。
実はさ、生き残るってまではいかないんだけどさ、確実に敵を二、三人は倒せるとっておきの裏技があるんだよ」俺は手に持っていた本のカバーをとって、バラバラと捲る。『完全殺人マニュアル』というタイトルがおそらく二人に見えただろう。「こんな本には書いていない。とっておきの方法だ」
「…なんだそれ?」
俺の声に二人は興味あり気に顔を近づけてきた。
俺はニヤリと笑う。
「……フライングだよ。七月一日の午前九時になる前、みんなスタンバっているときに、ブシュブシュ刺しちゃえばいいのさ」
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6/25 二、CPPEEホームページ勧誘用掲示板
>あなた方の考え、私はいたく感動しました。是非入会させてください。
>君たちたちこそ俺の希望だ。なんとしても俺をこの怪に入会させてくれ。
>人生に悲観しました。私は死ぬまであなた達にこの身を捧げます。
>ブッ壊そうぜ! この世の全てをブッ壊そうぜ!!
>あなた達は人の命をなんだと思っているんですか!
神様はきっと泣いています。本当の神の思し召しを知るために、あなた方は自分たちのなした過ちを改め、神のために尽くしなさい。
(この書き込み発着から六秒で削除)
>小さい頃から震え上がっていたノストラダムスの大予言が実はこんなんだったなんて!
何だかちょっとだけホッとしています(笑)
>神様は俺達を見捨ててなかった! 俺やります! 七月一日に人殺します!
>何なんだお前らは! 俺は二十八歳でいまだに童貞だが必死こいて生きているんだぞ! 勝手なマネぬかすんじゃねえーーー!
(この書き込み七秒で削除)
> ^0^/ ^0^/ ^0^/ (注、この顔文字はバンザイをしている)
>七月一日、僕は両親を殺します。見ていてください!
>うちらの周りでは、青い服を着るのが流行ってまーーす☆ この会サイコーでーす膚
>アンタらエライねえ。
アンタらのところに赤ん坊でも人殺せるような道具を持たないと自分は凄いんだ、とか思い込めないような能無し甲斐性なしどもがうようよ集まってますよ。
(この書き込み三秒で削除)
>地球滅亡の日まであと六日。楽しみですねーー
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1999年 六月 二十六日 (土)
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6/26 一、成田空港にて
私はカメラを直視すると、言葉を途切れることなく吐き出す。
「ここ、成田空港では一昨日の警察の発言から一気に七月一日人類滅亡説を信じる人々が増え、何としてでも日本から少しでも人口の少ない国へと逃げ出そうと飛行機の搭乗率が軒並み上昇、キャンセル待ちが相次いでいます。
ロビーで待っている人々に話を伺いましょう」私は周りをキョロキョロと見回す。「えーっと、あなた、どこへ行くつもりですか?」
私は近くにいたトランクを傍らに膝を屈めているカジュアルな格好の男性にマイクを向けた。
「え? …えーっと、とりあえず南米のほうに」
「南米のほうはここよりも安全ですか?」
男性は頭に手を当てる。
「はあ、欧米は人気だし、チベットのほうへ行こうかとも思ったんですけど、中国とのごたごたもあるようだし、インドもパキスタンとの問題があるでしょう? アフリカは内戦が各地で勃発してるし、南米はなんとなく大丈夫なんじゃないかなと思ったんですけど、どうでしょう?」
「いや、私はそこまでわからないですけど、チケットの方は……」
男性は少し首を傾げながら答えた。
「いえ、取れてないんです。なかなか取れなくって。とりあえずこうしてキャンセル待ちをしているんですが……」
「…そうですか。ありがとうございました」そういうと私は、男性からマイクを離しまた自分のほうへ持ってきた。
「この動きは六月三十日まで更に高まる可能性があり、チケットの高騰が懸念されています。
以上、現場からお送りしました」




