表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人類全てが殺し合う  作者: 熊谷次郎
5/60

第二章 三節

   3 一九九九年 三月 十二日 (金)




 今日は『彼氏彼女の事情』の放送日である。


 この日の朝、僕は半分何かを期待するような、もう半分僕の要望に応えてくれるのか不安という、二つの感情が絡み合った複雑な心持ちで目が覚めた。そして、その期待はどんどん不安に浸食されていく。そんな下らない思考が頭を掠めると、僕の体の中で何かが萎縮して、朝起きたばかりだというのに全身に疲れがどっと押し寄せた。


 何故自分は、一度好きになったものの粗を探し、いつの間にやらその粗を自分の中で肥大化させ、嫌いになってしまうのだろう? 好きなものをなくすことで一番ガッカリするのは自分なのに……


 そんなことを考えつつも僕は、夕方にやる放送のビデオ予約を今のうちにセットしておいた。


 そういえば今日は塾では数学の講師が出張研修で他の講師も受験に受からなかった者の二時募集に向けての学習や新学期の準備とやらで忙しいらしく、二コマ講義をやらずその分開始時間を遅らせるとかいっていた。勿論これは、講義がなくなったというわけではなく、後日その分の授業を受けることになるので結果的にはその数は変わらない。しかし、この結果、僕は久し振りに六時半からのリアルタイムで放送を見ることができる可能性も出てきた。


 僕はそれこそ、内容に期待してそれまでの日常生活を送ろうと思った。どうせ学校でいいことなんて一つもありやしないことはわかっているのだから。こうして万一家で見れなかったときのことも思って録画の準備もしている。たとえ期待していたアニメが僕の希望にあったものではなくても、ちゃんと見れたということで満足する。


 そうでないと僕は生きてはいけない。


 


 重い体を引き摺って僕はどうにか学校へと辿り着く。


 教室に入り、僕は自分の席に歩み寄る。すると、早速連中は目敏く僕に声をかけてきた。


 「よお、河原ぁ、おはよう」


 これは嫌がらせでも何でもなく単なる挨拶である。しかしそんな言葉のやりとりを強要させられるだけで腹立たしい。しかも、厭なことにこの三人はいつも僕の席の近くを牛耳っているのだ。おそらく奴らは「こいつと俺達とはこんなに仲がいいんだぞ」と、周囲にアピールしているのだろう。


 「…おはよう……」


 僕は少し俯き小さな声で返事をする。


 「え、聞こえねえなあ」


 山岸が悪意のこもった声を返す。


 「もっとシャキッとしろシャキッと!」


 そんなことをいいつつ羽島は僕を容赦なくバシバシ叩く。頭を守りながら教室を横目で見ると、朝だというのにガリガリと勉強している奴や、寝ているのか、体を重そうに机に突っ伏している奴、死んだような目でどこともわからないところをボッーと眺めている奴ばかりで、僕のほうに関心を示そうとしている奴は一人たりともいない。しかし、前の僕も同じように周囲を気にしたことなんてなかったのだから悪くいうこともできない。


 「ところでさあ」


 山岸がいつものようにニマニマ笑って僕にこう訊いてきた。


 「昨日、お前何回シコッたぁ?」


 僕は聞き飽きた科白に眉毛をピクンと動かす。


 僕は女が嫌いだ。だからそんなことはしない。


 僕の口に気持ち悪いものが込み上げる。


 しかし、以前に本当のことをいって、「嘘つくんじゃねえよ!」と変ないい掛かりをつけられ制服の上からその部分を行為が済むまで揉まれたことがあるので、それ以来決まってこう嘘をつくようにしていた。


 「……一回…」


 答えるとき、自然と首と言葉尻が下がる。


 「お前、本当に毎日シコッてるんだなあ。頭ん中まで精子詰まってんじゃねえか?」


 羽島と山岸は大声をあげてゲラゲラと笑った。


 一方、風間は一人鼻笑いをした。


 そして僕が視線を送っていることを知ると、しばらく睨むとも蔑むともいえない目で僕を見た後、もう一度鼻で笑ってそっぽを向いた。僕には、もはや悔しいという感情も湧かないでいた。


 机に鞄を置き、制服の裾を多少整え、椅子に座る。すると、お尻にグシャッとした感触が伝わった。立ち上がって椅子を見ると、板に噛み捨てたガムがこびりついていた。


 …大丈夫、ここまでは、僕の予定調和の範囲内だ。


 そんな強がりとは裏腹に、僕の体は少しフラフラになってきていた。


 


 さて授業が始まる。


 しかし、ここは誰もが一流と呼ぶような高校だというのに、公立の学校で行なわれているような授業らしき授業がもはやここでは実施されていない。大きな理由としては、生徒各々が塾で授業として習う予定の課題を既に一通りやり終えてしまっているからであろう。そのため、生徒達は、眠ったり、塾で必要な勉強をカリカリとやったり、騒いだりと、それぞれ自分勝手に行動している。そんな生徒達を尻目に、教師は誰が見ているのかもわからない授業を眈々とこなしていく。簡単にいえばこれは学級崩壊というやつなのだろう。しかし、学校も教師も親も肝心要である成績さえよければいいという考えがあるらしく、具体的に対策をとってどうにかしようということはない。きっと、その学力中心の学校方針に逆らわなければ、いじめがあろうがなんだろうが法律的に悪いことをしなければ何をやったって許されるのだろう。そんな風に振舞う生徒や教師を見るということに僕はいい加減もう慣れた。


 僕は恐る恐る周りの様子を見る。風間達は昨日の夜何かしていたらしく、三人とも爆睡している。いつも三人でヘラヘラ笑っているだけに珍しい。


 僕はほっとして息をつく。久し振りに張り詰めた気持ちでいる必要もなく授業の時間を送れそうだ。


 目の前では一応国語の授業が行なわれているが、しかしその内容は僕の耳まで届かない。教師の方にも聞かせようという意思はないのかもしれない。


 暇になったがその時間を有意義に活用する方法がない。


 ここでふと思う。皆が好き勝手してきた時間、僕は今までどうやって時間を潰してきたのだろうと。


 まず一番記憶の近い三年の一学期のときのことから思い出してみた。


 最初の席は出席番号順だったので、僕の席は「河原」の「か」で六番目で廊下側の一番後ろであり、すぐ横の壁を何を考えることもなくただぼんやりと見つめていた覚えがある。


 二学期には、おそらく生徒のほとんどが自分の席に無頓着だったのだが、担任が「形だけでも」といってくじ引きで席替えをした。


 このとき僕はもう風間達にいじめられていたので、奴らの席の近くにだけはなりたくないとだけ願っていて、運良くそれが現実となったが、前述の通り誰もが席に執着がなかったので、席の交換があっさり成立、奴らはまんまと僕の周辺の席を手に収めた。それからあとは僕はビクビクと怯える毎日を送る羽目になったのはいうまでもない。三学期もそれの繰り返し。なんてことない、中三の半分は授業中身を縮込ませていたのだ。


 そういえば三年の一学期や一年、二年のときも、壁や景色を見ながら閉鎖的な僕の生活の中で、何か起きやしないかと念じたりした。そうやって願った結果、起きた何かというのがもっと自分が狭いところに押し込まれるようなものだとは思いもしなかったが。


 自分の不幸。


 それは普段考えないようにしているから、そうではないような気がしているだけで、よくよく考えれば、僕は他人から見れば十分その状況に値する日常を送っているのかもしれない。


 そんな気にしないでもいいようなことを気にしてしまったためか、なんだか頭が痛くなってきた。それだけじゃない。なんだかだんだん吐き気もしてきた……


 あれ?


 もしかすると風邪をひいたのかもしれない。そういえば朝起きたときからどことなく体が重たく感じていた。そうなった原因にも思い当たる節がある。季節の変わり目だから本当は体調に気をつけなければいけなかったのだろう。しかし僕は勉強に疲れてそのまま机で寝てしまった。きっとそれが響いたのだ。休み時間になったら保健室に行くべきか…… 一度自分の中で決めかけたことを僕はあわてて否定する。


 駄目だ。休み時間になったら風間達が起きてしまう。トイレに行くときでさえ僕は監視されているのだ。今逃げ場というイメージも付加されている保健室に行くなんて絶対に許されるわけなんてないだろう。目立つことはしたくないが仕方ない。


 僕は席を立ち、教師の方へと向かった。


 


 あのとき以来、誰もいない廊下を歩くのも少し恐くなっていた。各教室から聞こえてくる教師の声がまるで僕だけを無視しているかのように偉く遠く感じる。ときおり混ざってくる笑い声がまた僕を侮辱しているかのようで口元を歪める。ひとりぼっちのまましばらく歩き、そんな声も次第に遠ざかって一番静かになったところが保健室だった。


 「すみません」


 僕は、肩をすくませつつドアを開ける。


 「いらっしゃい」


 濁声の女が僕に返事をする。


 その声の主は保健の先生であるが、中年太りの体型や、もったりとした口調からも、保健室のオバさんといった方がしっくりとくる。さしずめ世間からの絶縁地帯の番人、といったところか。


 オバさんは僕の顔を見て目をパチパチさせた。


 「あらあら、どこかで見たような顔ねえ」


 そう、僕がここに来たのは今回が初めてではない。今までに二度ほど風間達から逃れようとここへ一時身を隠しにきたことがあるのだ。しかし、その両方ともすぐにその“逃亡”は発覚し、僕は風間達に教室に置いてあったままだった鞄を焼却炉の中に投げ込まれたり、放課後、奴らがもういなくなったなと思った頃に帰りの支度を始めたところ、実は近くの路地で待ち伏せされててボコボコにされたりしたのでその後は行ってない。ちなみに捨てられた鞄はダイオキシンが出るという理由で、一年前から各学校で自分たちが出したゴミを燃やして処理をすることはなくなったのでなんとか事無きを得たが。


 二度も散々な目に遭い、それに懲りたからもうここに来なかったわけだが、今日は病気が出たので仕方がない。奴が起きているときであれば、本当に具合が悪いときにもここに入れなくなってしまうだろう。来れるときに来て、治療をしておく。このことでまず間違えなく一発は殴られるだろうが、そうした後で教室に戻るのが自分に襲いかかる被害を一番少なくする方法に思えた。


 オバさんは贅肉のついた腕を組む。


 「さては、またいじめられたのね」


 決めつけられている。僕は今までの恨みもあって「違う!」と叫びたかったがある一点に視線がいってその言葉を飲み込んだ。ベッドに先客がいたのだ。


 「あ、彼? あなたの仲間よ」


 一瞬目を合わせた僕らだったが、おばさんの声によってぼっちゃん刈りの“彼”は急に背中を向けてしまった。


 …仲間……ねえ。


 「あらあら、恥ずかしいのね」


 彼は返事をしない。関わりたくないのだろう。誰にも。


 「この子、春日君ていうのよ。君が来なくなったときぐらいからいつもここに来るんだけど、自分から積極的に話しかけたりしないのよ。ホント私困っててねえ」


 オバさんは滲んだ眉尻を下げ、右手をてかった頬に当てる。


 「あ、そういえば、あなた、何年生?」


 オバさんの短い指が僕に向けられる。僕はとりあえず自分の学年を答える。


 「あらそう、じゃあ春日君と一緒ねえ。


 それだったらもしかすると高校生に上がったら同じクラスになるかもしれないわね」


 そのとき、春日君とやらの肩がピクンと動いた。この驚き方は……多分彼には何か胸のうちがあるのだろう。その後、おばさんは 「同じクラスになったら彼と仲良くしてね」と続けたが、そんなことはありえないのかもしれない。


 「じゃあ、あなた、気の済むまでここにいてがいいから」


 自分の告げるべき言葉を終えるとおばさんは自分の仕事のほうに取りかかってしまったので、僕は自分のここに来た理由を話すタイミングを失った。


 僕は机で何か書き物をするおばさんの背後に近づいて、おそるおそるしゃべりかけた。 「あのう、僕、なんだか風邪っぽいんですけど……」


 「えっ…!? ……あらやだ…」


 おばさんはその後その言葉を連発した。


 このおばさんにはどこかで自分はそうだからという理由か何かで、他人はこうこうだと決めつけ、それを他人も望んでいると思い込む癖がある。そして、その行為をすれば自分も受け入れてもらえるなんて考えているようだ。それは、ときに他人に自分を無理矢理押しつける様なことになっていることになんておばさんは気づいてないようだ。…春日君とやらも心を開かない筈だ。


 授業終了のチャイムが鳴る。本当はいつまでもここにいたかったが、薬ももらって少しばかり調子も良くなったし、何より風間達に見つかるといけないので、保健室から出ることにしてベッドから身を起こす。


 するとそのとき、扉から見たことのない教師が入ってきた。


 「おい、春日、いるかーっ」


 どうやらこの教師、春日君の担任らしい。他には目もくれず真っ直ぐ春日君のベッドに近づいて、彼が向いている方向にわざわざ回り込んで立ち止まるとすぐさまここに来た用件を口にし出した。


 「春日、きちんと授業に出ろ!」


 春日君は固まったままだ。そうだろう、何か冷たい口調だ。担任は腕組みをし、タンタンタンタンと速いテンポでつま先を鳴らす。教師はイライラしたような口調でまたこういい放つ。


 「春日、つべこべいわず教室に出ろよな。出ないと単位やらないからな!」


 春日君は今度は肩をいからせ小刻みに体を震わせ始めた。そして最悪なことにその担任と思しき教師はそれだけを告げるとスタスタとこの場を立ち去った。


 …おそらく、少し歯車が違えば、あの科白は彼じゃなく僕がいわれていたのだろう。


 春日君はいじめによって教室から逃げ、僕は逃げ切れずに教室に留まった。その分、春日君は教師から見逃され、僕はまだ教師の信頼は保たれている。


 さて、どちらがいいのだろう?


 僕は彼に声をかけようかと迷ったが、かける言葉が見つからず、そのまま保健室を後にした。口の中に何か酸っぱいものが込み上げたが、それはただ単に風邪の所為だとは思えなかった。


 


 ーーその後の高校への編入一日目、僕はこのときを思い出しつつ、貼り出されたクラス分けの表を見たのだが、「春日」という名字の人間はいくら探しても確認できなかった。彼はおそらく他の高校に移ったのだろう。


 僕はそのとき、「うらやましい」という正直な言葉と、「意気地無し、僕はそれでもこうして続けているぞ」という歪んだ感情が同時に湧き上がった。


 いつの間にかに、僕も風間達に近づいているのかもしれない。


 


 保健室から戻ってくると、案の定奴らが僕の帰りを待っていた。


 「おいおい、どうしたんだよ。保健室に行ってたんだってぇ? なんだお前、また逃げる気かよ」


 羽島がヘラヘラ笑いながらいう。


 「いやあ、熱が出たもんで……」


 僕は声のトーンを下げて本当のことを話す。しかし、彼らの強気な態度は変わらなかった。


 「マジかよ。嘘臭えなあ、演技なんじゃねえのか?」


 三人ともそういう方向で相槌を打つ。こうなるのはわかっていたことだ。後は奴らがどんな方法をとるかだ。僕は殴られるときのことを考え、身を構えようと思ったがそれはまだ僕がとるべき行動ではない。


 僕はずっと俯いて待っていたが、会話が途切れた後何の反応もなかったので僕は恐々と顔を上げると、奴らはニタリと笑っていた。風間はいった。


 「まあとりあえず、放課後俺達についてきてもらおうかな……」


 僕は生唾を飲み込んだ。『彼氏彼女の事情』をリアルタイムで見ること、そのささやかな僕の楽しみは早くも潰れた。それだけではない。きっとその先で殴られる以上のことをやられるのであろう。倒れ込みそうになりつつある身体を必死になって支えながら僕は深々と目を瞑った。


 何テコトハナイ。全テハ許容範囲内ノコトデアル。


 何テコトハナイ。コレガ僕ノ日常ダ。


 


 その後、風間達は最後まで病気を無視して僕のことをいつも通り、いやそれがわかっているからこそいつもよりもぞんざいに扱い、そしてあくまで奴らの目から逃れようとしたという理由で放課後僕を学校の最寄り駅から三つほどのところにある繁華街へと連れ出した。 僕は普段一直線に家に帰るのでこんなところにはまったく来ない。奴らの方はしょっちゅう足を運んでいるようで、慣れた感じで街中を歩いていく。


 こんな所で一体何をさせられるのだろう?


 これから行なわれる要求のプレッレシャーと朝からの熱によって周りの景色がうねって見える。やたらとキンキン響く、人々の明るい声に僕は耳が腐ってしまいそうだ。


 「よし着いたぞ」


 風間の声に僕は顔を上げる。奴は5メートル先の店を指している。詳しくは知らないがブランドもの洋服屋である。店舗としては割と大きめだ。


 ここで何をすればいいというのだろう?


 嫌な予感が的中した。


 「あそこで一番高いジーンズを万引きしてきな。俺達は待ってから」


 クソッ、そんなこと自分でしろよ!!


 その言葉が口から出かかって止まる。


 普通の状態で一対一でも歯が立たないところにさらに三対一。おまけに今日は熱まで出てるときた。刃向かったら袋叩きは確実だ。


 僕は渋々店内へと足を運んだ。


 店頭にはSALEという札の貼られた商品が所狭しと並び、それを物色している他校の制服姿の人間達がちらほらと見かけられる。僕は高いジーンズとやらを目指して奥へと進もうとは思うものの、僕の足がそれを拒んでいる。


 これから僕のやることは犯罪だ。


 そう思うと腰の力が抜け、額から変な汗も出てくる。思考さえもだんだん定まらなくなってきた。ただやたらと人目が気になって、僕はいつも以上に耳をそばだてる。人々は僕の制服を見て「スゲェ」だの、顔を見て「うわコイツなんかイッチャッてるー」だの、好き勝手放題抜かしている。


 何故こいつらは、人の姿形をあっさりと眺められ、しかもパッと見だけの印象を本人に構わずズバズバということができるのだろう? 僕は今まで生きてきて、人混みの中で一人の人間の顔をマジマジと見たことなんて一度たりともないというのに……


 「なんなのコイツー、邪魔だよねー」


 その声でハッと我に返る。入り口でただ呆然と立ち尽くしているのだからそういわれても無理はない。僕はすぐさま隅に寄る。


 今僕に罵倒を浴びせた女は僕の横を通るとき、僕の顔を見て一体どんなことを考えたのだろう。差し詰め万引きを考えている中学生とでも思ったのだろうか?


 僕は自虐的に笑った。


 僕の持つ雰囲気というものは店内で品定めしている客達に比べて明らかに異質である。おそらく店員にも怪しいと訝られているに違いない。こんなんじゃ、駄目だ。普通に買い物をしに来ている客を演じなければ……


 とはいっても、そんな経験なんてこれまでの人生で一度たりともないし、そういう買い物を日常的に行っている人間とは今までの生き方が違うので、その場ですぐにできるわけなんてなかった。


 だるい体に重い空気が伸し掛かってきて、熱っぽい僕の体を押し潰す。


 下手すれば捕まる。僕は手錠をかけられる。でもやらなきゃ、奴らは決して僕を許さないだろうし……


 どうすればいい?


 そんな絶体絶命の最中、僕の頭にふと、妙案が思いつく。


 何も万引きなんかしなくても、商品さえ買えばいいんではないんだろうか?


 ……そうだ、それがいい。たとえ、一番高い物じゃなくったって高値の品物を手に入れさえすれば奴らも見逃してくれるのではないか?


 財布の中身は……二万円と小銭が少々。風間達は家が裕福なので僕のお金を盗んだりしない。このお金でジーンズを買えば……


 僕は喜び勇んで二万円相当のジーンズを買って、奴らの所へと急ぐ。


 「割と早かったなあ……」


 風間がいう。


 「じゃあ、見せてみな」


 僕は既に紙袋から取り出してあるそれを奴らに見せた。


 「一万八千八百円…… どう考えても店の一番高い商品じゃあなねえなあ」


 僕はドキッとする。


 「おい、河原、このシールはなんなんだよ。これてめえが買ったんだろ。俺達は万引きしてこいといったんだけどなあ……」


 残りの二人が「ガハハハ」と笑う。


 ……駄目なのかよ…


 「まあいいや、次の店行こうか。これはお前が持ちな。俺達はいらねえから」


 そういって、風間は僕にジーンズを渡す。そして奴らはまた僕に向かって高笑いをした。


 畜生、まだ地獄の途中かよ!


 なんだか僕は今、地面に立っていることが奇跡ではないかと思うほど頭の中がグラついていた。いっそのこと倒れてしまいたいさえと思った。でも倒れたらどうなる? 奴らが助けてくれるのか? そんなことはまずありえないだろう。そのまま放り出される? そしたら、僕は入院して、一定期間とはいえ、風間達から隔離してもらえる。でもそうなるとは限らない。意識があるときでさえこんな有様なのだ。無意識になったとき、僕は一体どんなことをされるというのだ?


 もはや、ここは万引きするしかない。するしかないんだ……


 「おい、次はあそこだ。俺達はここで待っているからちゃんとやれよ!」


 今度は前とは違う通りにある、似たような洋服屋だ。


 僕は三人の姿を確認する。


 「何だよ、その目は……」


 その言葉を無視し、僕はここの目印を探す。目的の場所から見て、通路を挟んで左斜め向かい、コカコーラの自動販売機の前辺りか。


 僕は位置をしっかりと把握してその店に向かった。


 もう体力も限界だ。どうせさっきみたいに躊ったって、よけいな体力を消費するだけだ。ここは、店員に見つかるのを覚悟して高そうな商品をパッととって、最後の気力を振り絞って走り去るしかない。


 横断歩道を早足で渡り、僕は店内へと侵入する。


 そこには人がたくさんいるが構ってなどいられない。目的の商品だけを探し出す。


 ……あった! これだ。


 僕は一応手にとってみたりなんかする。しかし、高い物はやはりレジの店員の目に付く場所にあるようだ。これはちょっとマークされているかもしれないな……


 と、そのとき誰かが商品を精算しようとレジに向かった。


 今だ。今しかない。


 僕は手の中にあるものをそのまま小脇に抱えて、店内を全速力で抜け出す。無論、外へと出ても僕は足を止めることはない。今までにかつてないんじゃないかと思うくらいのスピードで猛ダッシュを続ける。心臓はバクバク鳴り始め、喉はカラカラに渇き、しかも胃酸が逆流までしてくる。そしてその胃酸は気管に詰まって酷い咳が出る。手や額には変な汗がダラダラと流れるし、腰はどんどん力が抜けていき、もう少し踏ん張れなかったら地面にゴロンと転がってしまいそうだ。


 だが、そんな状況の中、不思議と頭の痛みは少し楽になっていた。


 …もう少しで奴らから解放される!!


 そんな感情が僕の脳をを支配したからなのだろうか?


 しかしそんなことに構っている暇はない。僕は急いで奴らの方へ向かう。確か横断歩道を渡ったところの、コカコーラの赤い自販機の近くに奴らはいた筈だ。


 「おーーい」


 僕はガラガラの声を振り絞る。


 「おーーい」


 ……おかしい。返事がない。


 「おーーい!」


 嘘だ! そんなことはない。奴らはここで待っているといっていたのだ。絶対、絶対この付近にいる筈なんだ。よく探さないと……


 そのとき、ポンポンと肩を叩かれた。


 よかった。風間達だ。


 そう思って後ろを振り向くと、さっきの店の従業員がいた。


 そうか、奴らは最初から僕を嵌めるつもりだったんだ……


 


 「どうして君は万引きなんてしたんだね?」


 先程の店員とは違う、店長らしき人物に僕は店の裏側へと案内された。僕は簡素なテーブルセットの丸椅子に座らさせられる。


 このとき僕は自分の人生がすべて終わったような気になっていた。でも、とても意識ははっきりしていて、何故か心地よい感じを受けないでもなかった。


 「どうなんだね!?」


 店長はだんまりを決め込んでいる僕を強く怒鳴る。僕は頭を上げて店長の顔を見た。


 ここなら風間達もいない。きっと僕が捕まったところを見てスタスタと帰ってしまったことだろう。


 今なら本当のことを話せる……


 そう思うと自然とボロボロ涙がこぼれてきた。


 「…すみません…… …僕…いじめられていて……それで…そいつらに万引きを要求されて……」


 涙で視界が白っぽく光る。一度涙がで出すと、それはもはや自分の意思とは無関係にとめどなく流れ出てくる。目から溢れて溢れてもうどうしようもなかった。


 「そうか…… それは大変だったなあ……」


 店長はさっきとは打って変わった優しい声を僕にかける。その手が僕の頭をそっと撫でた。


 「すまねえな、一応取り決めなんで学校か家族に連絡しなくちゃなんねえんだ。


 ところであんたの家族はそのいじめを知ってるのか?」


 僕は首を振る。


 「じゃあ、そのことも伝えてやるから電話番号を教えてくれないか?」


 僕は胸ポケットの生徒手帳を渡した。


 その後も店長は僕にとてもよくしてくれた。電話には母親が出て、これからこちらへ向かうという。僕はそれまで、この場所で眠らせてもらった。こんなに気持ち良く眠れたのは本当に久し振りだった。 


 肩を揺すられたので目を開けると、そこには既に母親が立っていた。母親は何故か機嫌が悪いときの顔をしていた。


 「道生、いじめられて、その上万引きまでさせられたんだってねえ」


 優しい口調を保とうとしつつも口元はどう見ても歪んでいる母を見て、僕は何か恐ろしいものを感じた。


 「道生、なんであなたは、いじめなんか受けて黙っているの! 黙っていたらそのままやられ続けることぐらいわかっているでしょ!! だったら黙っていないできっちりやり返しなさい!!」


 いきなりの説教である。それができれば僕だってそんなに苦労してないよ。


 母親は溜め息を吐いた後、何かを思いつめたようにこういった。


 「ま、いいわ。あなたがいじめられていてどうしてもやり返せないっていうんなら少しぐらい学校に行かなくても」


 僕は驚いて母親の顔を窺った。


 「家できちんと勉強してくれればね」


 …どうせそんなことだろうとは思ったけど。


 「ところでそのいじめっ子っていうのはあなたのクラスの子なのよね? 同じクラスなら成績もわかっているんでしょ? あなた、確か学年で九十番台だったはよね? その子達はどうなの? あなたより上なの? 下なの?」


 母親がいわんとしていることが何だかわかってきた。


 「どっちなの?」


 母親がガンッとテーブルを叩いた。


 「…う、上……」


 僕は咄嗟に答えた。


 「そう、上なの。…呆れた。結局、あなたはそのいじめっ子より、何もかもしたなわけね」


 母親は実の息子に向かって物凄い刺のある言葉を放つ。僕はただ震えることしかできない。


 「どうなの? あなたはずっとそんないじめっ子達の下にいたいわけ? 何も勝てずにそのまま学校生活を終わらせようって気なの? 負けたら負けたでずっと家に引き籠もろうってつもりなの? どうなの? それが嫌だったら、いじめでは負けても、その子達に成績では勝ちなさい!!」


 体裁だ。この人は自分の体裁のために僕を利用しているだけなんだ。ただ単に周囲の人間に自分の息子はどこどこの高校でどのくらいの成績ですだのと自慢したいだけなんだ。 だけど、この人の行っている言葉も一理ある。僕は奴らの下なのか? ずっと下のままでいいのか!? 違うと証明できる方法があるだろ? 今それを見せないでどうするんだよ!!


 「…わかったわね?」


 そういって母親がそこら辺に置いてあった僕の鞄を僕に渡す。


 「今、七時四十五分だから塾はまだ始まったばかりよ」


 寝て起きて、突然母親に声をかけられたからか、この時点で僕は今日、自分が風邪で熱があったことをすっかりと忘れていた。




 鼻水をすすりながらも塾の講義を聴き終えると、僕は喜び勇んで帰宅をする。電車に揺られ、僕は目的の駅の到着を待つ。


 今日は嫌なことがたくさんあったが、家に帰れば最後に楽しみにしていた『彼氏彼女の事情』をきちんと観れる。これが僕の望む、しっかりと面白い内容だったなら今日のこと全て帳消しだ。そう、面白かったならば。


 ふと、僕の頭の中に不安が過る。


 …もし面白くない内容だったらどうしよう……


 吊革を持つ手が急に重たく感じてくる。


 そんなわけがない。あれだけの苦労をした後に観るビデオだ。つまらないわけがないじゃないか。


 今までこんなに眩しかったのかと思うくらい車内が突然白く見える。自分の暗い影が全て明るみに出るような錯覚を覚えた。


 そうだ。面白い。面白いに決まっている。何を考えているんだ僕は。


 僕は信じることにした。


 自宅の最寄り駅に着き、マンションまでを辿る間もそんなことを思う。勿論、オートロックのドアを開けているときもエレベーターに乗っているときもそのことだけを考えた。 …面白くないわけがない……


 玄関を開けると真っ直ぐ自分の部屋へと向かう。そして、そのドアノブを握った瞬間、嫌な予感が僕の体の中を走った。


 僕の部屋は何者かに荒らされ、何かを食べた容器やら、食べ残しそのものやら、使い古したティッシュやらが床中いたるところに散乱していた。


 あいつだ。邦生の野郎だ! 奴が僕の部屋をこんなにしたんだ。自分の部屋がちゃんとあるのに、さては汚過ぎて友達が入るスペースもなかったのか!!


 僕はあわててビデオデッキの傍まで駆け寄る。デッキの近くには、ビデオに取り込まれている筈の『彼氏彼女の事情5 第弐拾壱話~第 話』が放っぽり出されている。このテープ残量、どう見ても朝予約したときのままだ。


 ……録れてない…!!


 しかし、よく見るとデッキの中にビデオテープが取り込まれている様だ。もしかすると、このテープの中に録画されているかもしれない。僕は、デッキの取り出しボタンを押した。


 


 ……『巨乳刑事 犯人縛り込み中膚』……


 


 僕はそのテープを地面に叩きつけた。


 僕はとりあえず気分を落ち着かせ鞄を机の上に置く。するとそこには次のような走り書きがあった。


 『明日までに返しておけ』


 僕はそのメモを握り潰し、ゴミ箱へと投げ捨てた。


 そこら中に転がったゴミ屑を僕は一人黙々と片付ける。部屋の中の掃除が済むと、僕は母親がいっていたように風間達を見返すために勉強に励む。


 ただひたすら。ただひたすら……


 ………


 何なんだよ! 確かに僕は自分が悪い、自分が悪いと思って生きてきた。でも、僕は少しも悪くないじゃないか。悪いのはほとんどお前らじゃないか! ただ自分の私利私欲のために僕を利用しようとしていざそれがいざ使えないとわかったら、なんで僕を責めてこれるんだよ!! 自分の悪さを棚に上げて、自分の中でいいように正当化して、僕だけを悪者にできるんだよ!! こんなののどこが日常なんだってんだ! どこが日常だってんだよ!! みんなみんな自分勝手に振舞やがって! クソッ!!


 僕の平穏は奴らに削がれた。楽しみは奴らに破壊された。


 僕には何もない。何もない……


 『巨乳刑事 犯人縛り込み中❤』


 僕はさっき投げつけたビデオテープを手に取った。


 『明日までに返しとけ』。その邦生の書き置きを思い出す。


 そのラベルを見るだけで嫌悪の念が湧いてくる。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない。


 くだらない……


 


 僕は洗面所で手を洗う。


 石鹸を指にグイグイと押しつけて。


 何度も、何度も。


 手の汚いもの全てを取り除くかのように。


 特に自分のものに触れた部分を入念に。


 僕はボソリと呟いた。


 


 「この世なんて終わってしまえばいいんだ……」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ