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人類全てが殺し合う  作者: 熊谷次郎
49/60

第八章 その二

   一九九九年 六月 九日 (水)


 


   53


 


 6/9 一、新聞記事(社会面)


 


 <東大キャンパス放火!?>


 


 『本日未明、東京大学のキャンパスで放火と見られる火事があった。火が点けられたのは、東大の文学部の講堂。火は発見が早く、大惨事は免れたが、犯人と思しき人物の特定にはまだ至っておらず、警視庁では内部犯、外部犯の両方の線で捜査を進めている』……


 


 


   一九九九年 六月 十日 (木)


 


 


   52


 


 6/10 一、パン屋ヤラセにて(その二)


 


 それは一昨日の夕方の出来事である。


 「できた!! やった、やったぞ!!」


 俺は近所中に響き渡るような声で叫んだ。その声を聞いたのか、女房だけでなく薬屋のハラダや隣の蕎麦屋の婆さんなど、商店街の連中までがすぐさま飛んできた。「よかったなあ」といいながら俺に笑いかけるハラダ。すっと横から顔を出して俺の手を握る婆さん。いっつも腰をくの字に曲げているのにどうしてこんなに早くここまでこれたのか。婆さんは反対の手でハンカチを握りながら、「よかったねえ。私達、どうしたらあなた達が仲良くなるのか悩んでいたんだよ。きっとこんなふうになったら、そのおかげでお店も繁盛して……」などと泣き声交じりに延々と呟き続ける。


 この商店街の奴ら、どうやら女房がとうとう懐妊したのかと勘違いしたらしい。ことのついでだと俺は集まったみんなに俺の一週間の努力の結晶を見せた。


 そう、これが俺がつくった人生最高の傑作パン。食材に、キャビア、トリュフ、フォアグラの最高級品を入れ、その他にもフカヒレ、燕の巣などの高価な品物を取り揃えた、極上の一品。


 その名も『死ぬまでには一度は食べておいた方がいいパン』だ!!




 それを見ていた回りの人間が一瞬にして固まった。


 


 そして昨日今日とあらかじめチラシなどを配って万全の態勢でその品を売る準備を整えた。今日は客が来る。来るはずだ。…多分。


 開店時間。俺の予想通り店の前には多くの人だかりができていた。カウンターの女房はいつにない笑顔で客を迎えた。


 「はい、押さないでください。押さないでください。まだあります。まだありますよ……」


 店は今までにないほどの大盛況。煽り文句の通り食べたほうがいいと思ったのか、それとも恐いもの見たさなのか何なのか、商店街の奴らの予想を裏切り、『死ぬ前に一度は食べておいた方がいいパン』は大人気で百個つくって即完売だった。


 「あんたあ、よかったねえ」


 「おう、やったぞ」


 久し振りに見る女房の嬉しそうな顔。


 俺の考えることも捨てたもんじゃないなとこのときはまだ思っていた……


 (続く)


 


 


   一九九九年 六月 十一日 (金)


 


   51


 


 6/11 一、中学生 山下 望美(その二)


 


 朝、私はいつものように隙あらば先輩の練習する姿を探していた。


 先輩は合いも変わらずさわやかにトラックを駆け巡る。


 先輩。ねえ、先輩。一生懸命走るあなたの目には一体何が写っているの?


 大会のこと? これからの自分の人生のこと? それとも……


 走り終わりいいタイムが出たと喜ぶ先輩。その先輩の隣、一緒に笑っている彼女が私にはとても、とても、眩しく見えた……




 「ねえ、望美って平泉先輩のことが好きなの?」


 お弁当の時間、一緒に机を寄せて食べていた同じく陸上部の茜に、突然そんな話を切り出され、私は花形に切り取られたゆで卵を喉に詰まらせてしまった。


 「ど、どうしたの?」


 私は慌ててペットボトルのお茶を飲み込んだ。


 「いやあ、ちょっと、ご飯が……」


 「ははーん」


 茜が私の顔をいやらしい目つきで見る。


 「さては、図星なんでしょ?」


 私は、まずいなあと思いながらも、とりあえず「何のこと?」などととぼける。


 「まあ、見え透いた嘘なんか張らないでさあ、本当のこといいなよ。私達、友達でしょ?」


 …うーん、正直に話すべきだろうか? 私がまごついていると、茜はこんなことをいい出した。


 「ねえ、望美は平泉先輩の彼女のこと知っているでしょ?」


 「えっ?」


 その言葉に私は心臓が飛び出そうになるくらいびっくりする。そんなの初耳だった。先輩には彼女がいたのか。それなら私の出る幕がなくなる。どうしよう……


 口の中に入れているハンバーグがぼそぼそして味気のないものに感じてくる。うまく喉を通っていかない。


 俯いている私を指差しながら茜はにやにやと笑った。


 「どうして、関係ないっていうのにそんなに落ち込んでるの?」


 「あ」


 どうやら鎌をかけられていたらしい。


 「やっぱり、望美は平泉先輩のことを好きなわけね」


 「…うん」


 茜には適わないなと感じた。


 「先輩ね、まだ彼女いないんだって」


 「え?」


 私はまたも同じような声を上げた。自分でもすぐに感情が表に出る自分に甚だ呆れてくる。


 でも、先輩に彼女はいない? っていうことは……


 「なんで、茜が知ってるの?」


 私は疑る。


 「あ、いや、三組の子がね、先輩にコクってみたら、今片思いをしてる子がいるって断られたんだってさ」


 「へえ……」


 何だかその話を聞いて、気持ちがポワンポワンと宙を浮かんでしまう。そういえば、先輩、部活の時、澤田先輩とよく話したり、ちょっかい出し合ったりしている。多分、澤田先輩のことが好きなんだ。同じクラスだっていうし、何よりあの二人、お似合いだもんな……


 「どうしたの、望美? 元気なくした?」


 気がつくと茜の手が私の目の前に伸びていた。机を見るとウインナーが弁当箱の外に転がっていた。どこか話が上の空になっていた自分にはっとする。


 「いや、大丈夫、大丈夫よ」


 どうやってでも茜には自分の迷っている姿を隠さねばならない。


でないと……


 「ねえ、望美は告白しないの?」


 …こんなふうに余計なお節介をかけられてしまう。


 茜の興味津々な眼差しが、私を追いつめる。私はあわてて手を振った。


 「別にいいよ。多分先輩が好きなのは、澤田先輩だって。絶対そうだよ」


 茜の視線はまだ私を捕えたままである。茜は調子の上がった声でいった。


 「わからないよー。あの二人、あんなに仲がいいのに付き合ってないっていうのはどう考えたって変じゃん。平泉先輩、案外望美のこと好きなのかもよ?」


 そうまでいわれて私はちょっと迷う。


 本心からいえば、そうなってほしいことは確かだけど、そんなことはない……んじゃないかなと思う。……多分。


 「いっそのこと、コクっちゃえば。そうよ。告白、告白。意外といけるかもよ。だって最後の大会で先輩達引退だよ? もう会える場所なくなっちゃうよ? だから、いっちゃえ、いっちゃえ!」


 …そう、そうかなあ……


 


 その後、私は茜に無理矢理告白のセッティングをされた。そして、放課後、今や物置きでしかない部室の裏で先輩が来るのを待つ。


 ああ、やっぱり茜の口車になんか乗るんじゃなかった。土壇場になってドキドキしている。どうしよう。心臓が口から飛び出そうだ。


 この件の当事者の茜は近くの草むらに隠れている。余計なことにばかり関心を持ってこっちの迷惑も考えないで……


 でも、このまま時が過ぎるのを待てば、私は一生先輩への思いを告げられないような気がする。


 そうだ、臆病になっちゃ駄目だ。私は一年と二カ月の間、先輩のことをずっと好きだった。その思いなら誰にも負けない。晴れてその気持ちを伝えるときがやってきたのだ。とりあえず、心を落ち着かせて……


 しかし、深呼吸をしようと胸を膨らませた直後、その中途半端なタイミングに先輩はいきなりやってきてしまった。


 「何だ? 山下、こんなところに呼び出して」


 うわ、まだ心の準備ができてないのに先輩来ちゃった……


 私は慌てふためきつつも、とりあえず苦笑いを浮かべてみる。駄目だ。いつもは気さくに声をかけられるのに、今日はまともに顔も合わせられないよ……


 「せ、先輩……」


 口から出る言葉も強張る。やっぱり無理だ。そんなこといえないよお。


 草むらの方を横目チラリと眺めると、茜は無言で「イケェ、イケェ」といった感じのポーズをとっている。


 先輩をそっち退けで私は茜に首を振る。できない。私にはできないってば。


 先輩が「どうした」という言葉をかけてくれるけど、私はそんな先輩に何もできない。 ごめんなさい。やっぱり、私は先輩に自分の気持ちを伝える資格もないんです……


 私が黙り込んでいると、周囲が張りつめた雰囲気に包まれる。私が恥ずかしくってずっと下を向いたまま。そんな気まずい時間がどんどん過ぎ行く。


 ここはもう、どんな状況になろうと仕方ない。謝れば先輩は笑って済ませてくれるかもしれない。


 そう思って、頭を上げようとしたその時だった。


 「なあ、山下、あれからどれくらいの月日が経ったんだろうね?」先輩が急にそんなことを話し始めたのは。


 「山下はさ、グラウンドを回っているとき、いっつも一人周回遅れでさ、目も当てられない状態だった」


 私は体がビクンと動いて、そのまま先輩のほうに顔を向けた。


 「それで、なんだか山下が思いつめたような感じがしたから、俺声かけたら、山下、陸上部に入ってから初めて笑ってくれた。


 そして、そのあと、山下は本当に少しずつ少しずつ、みんなに追いつけるようになって、今じゃ立派なレギュラーの仲間だ。そりゃあ、時間が経つのも早いはずだよな。あんなにトロいと思っていた山下が、こんなに早くなるんだもんなあ。もうびっくりだよ。


 次の大会で俺の中学時代の部活動も最後になるのか……」


 この空気、私はどう受けとめればいいのだろう? なんだか、体の中がとっても暖かい……


 「なあ、山下。今度の大会でさ、俺今まで培ってきた全ての力ぶつける気持ちで頑張るから。


 …だから、しっかりと見ててくれよな」


 先輩がにこりと笑う。


 先輩が私にそんなことを……


 これは夢なんかではない。予想外の展開に私はちょっとまごつく。


 しかし、私はこんなときどうすればいいのかわかっているはずだ。


 「ハイ!!」


 私は笑顔を返し、大きな返事をした。


 


 結局、告白はできなかったけど、私の中ではかなり満足だった。


 お節介だと思っていた茜にもとりあえず感謝せねばなるまい。


 大会まであと十日余り。それまで私は先輩の背中を追いかけ続けますーー






   50




 6/11 二、とある中学校の体育館裏にて


 


 今日、俺の机にラブレターが入ってたよ。しかも、相手はクラスで一番のブス。こんなとこに呼び出しやがって、さて一体どうやって断ってやっかな。


 とそのとき、俺は腕を羽交い締めにされ、首筋にナイフを突きつけられた。


 「私と付き合え!!」


 


 


   一九九九年 六月 十二日 (土)


 


   49


 


 6/12 一、自動販売機


 


 私は街中のちょっとした路地に設置された自動販売機。昼間は、ショッピングに疲れた人達がやってきてくれて、私のジュースを買っておいしいおいしいって飲んでくれるわ。でも、夜になると誰も私の前を通ってくれない。こんなに光って自己主張してるのに。今日も一緒、蟻の子一匹近づいてくる様子もないわ。寂しいったらありゃしない。どなたか、いらっしゃってくれないかしら……


 あ、誰か来た。それもたくさんの人。つめた~いお飲み物はいかが?


 やった、私の目の前で止まってくれたわ。


 ……え? どういうこと!? ちょっと、何をするのよ!!


 あれ~~~~~~~~~~~~~~~。




 「……お、……ち、なんだよ。ウォン硬貨ばっかじゃねえか。…まあ、いいか、もらっとこ。別の自販機で使えばいいだけのことか。あの日までもう残り少ないんだから風俗行くんにもなんでも金が要るからな」


 「おい、早く次行こうぜ!!」


 「待ってな。指紋拭きとんなきゃ」


 ………


 


 


   一九九九年 六月 十三日 (日)


 


   48


 


 6/13 一、新宿歌舞伎町 某風俗店


 


 俺は、いつものように煙草を吸いながら、自分の店となっているこの風俗店で店の前に立ち、客の入りを確認する。いつもなら、目を合わせた客を強引に勧誘しなければならないのだが、ここ数日前からはそんなことをする必要がなく、さらには行列まででき始めているといういい状況となっている。


 俺は見かけによらず、客の裁き方が下手だ。本当に気の弱そうな男には何かの歯止めがかかって二の足を踏んでしまう。しかし、それではいけないのだ。この店だって他人に任されたものだから、そんないいわけなどしていい筈がない。だから、俺にとって今のこの状況はとても助かる。…そう、その件では助かってはいるのだけど、実は全く別の問題が出てきたのだ。


 俺は溜め息を吐きながら最後まで吸い終えた煙草を携帯の灰皿に入れようとしたところ、横から「そんなもんそこら辺に捨てちまえっていつもいってるだろ」という声がしてきた。俺の店の門番をしてくれている安藤さんだ。


 「いい客足だなあ。なあ、最近かなり儲けてるっていう話じゃねえか」


 安藤さんの凄味のある声に、俺は思わず手を後頭部に当ててペコペコする。


 「…は、はい、おかげさまで死ぬ前に一度は体験をしようという学生を中心にお客さんが集まってきてて……」


 「やっぱり人間、最後に思いつく欲望はコレってわけか。ヘッヘッヘッ」


 そういって安藤さんは二三回股間をギュッと握る。


 それに俺は「…は、はあ……」などとしか答えることができない。


 「なんだ、お前、いつにも増して浮かねえ顔だなあ」


 俺は安藤さんから目を逸らす。そこにはピカピカ光る看板の裏に隠すように誰かが吐いたのかわからないゲロが見える。


 「い、いや、駆け込みの客で売り上げが伸びているのは別に結構なんですが……」


 「他に何か不安なことでもあんのか?」


 俺のもったりとした口調に耐えられないのか、安藤さんは随分早口で間髪を入れてきた。


 「…いや、今までに売り上げの上位にあがっていた安奈ちゃんや神那ちゃんなんかが次々と辞めてっちゃってて……」


 「おい、待て、そりゃあ大問題じゃねえか。店の売り上げ、これから相当減るんじゃねえか」


 安藤さんは俺の両肩強引にを掴むと自分の顔と真正面になるようにする。


 「は、は、やっぱりそう思いますよね」俺は近づいた安藤さんの顔をじっと見る。「ところがですよ。近頃の子達がなんでも急にお金が欲しくなっているみたいで、新しく面接に来る子達が後を絶たないんです。…どう思います?」


 安藤さんも俺の顔を睨む。


 「…そん中には美人もいんのか?」


 俺達は互いに見つめ合う形になる。


 「そりゃあもう、わんさかです」


 回りから変な声が聞こえてきたためか、安藤さんが俺を自分の体から突き飛ばした。


 「なら、心配ねえじゃねえか」


 安藤さんがそっぽを向きながら腕を組む。その声を聞いて俺はちょっと安心した。


 「そうですよねえ。どうせ世界が終わるんだし、金を借りまくって、最後の日が過ぎてもそのまま返さねえぜっていう荒技をあの子達が知らない限り、ちゃんとこの店に居着いてくれますよね?」


 安藤さんが「ふーん」などといってそのまま立ち去ろうとしたところ、踵を返してすぐさま俺の腕を掴んだ。


 「おい、ちょっと待て!!」


 


 


   47


 


 6/13 二、父親 唯野 繁樹(その二)


 


 眞知佳が家から出て、もうどれくらい月日が経ったのだろう? もう既に頭の中では計算できないくらいの時間が過ぎていた。


 眞知佳とは、いつもすれ違いばかりだった。


 私は朝早くから仕事に向かい、数時間の残業を終えて、家に帰るという毎日。普通に学校を通っていた眞知佳とは、顔も合わせない日も多かった。それでも、私は深夜、家に着くと、眞知佳の寝顔を見て、その日の疲れを癒すという日常を送っていた。


 しかし、いつだっただろうか。眞知佳が私の帰宅時間になっても家にいないということがあった日が訪れたのは。


 その日、眞知佳の不在を知り、私はすぐさま眞知佳の通っている女子高に電話をかけると「今日は学校に来ていない」との回答。一年の時の友達に連絡を取ると「クラスが変わったから、自然と付き合う回数が少なくなって、二年の最後のほうにはもう顔すら合わせなくなった」との返事。もはや、連絡の取りようがなく、私は眞知佳が帰ってくるまでただひたすら待つしかなかった。昼間の疲れが出て、途中うとうとすることもあったが、それでもずっと起きていた。そうして眞知佳が家路に着いたのは草木も眠る丑三つ時、午前三時五分前だった。


 私は眞知佳が玄関のドアを開くなり、「何でこんな時間に帰ってくるんだ!」と叱った。眞知佳は反論しなかった。そのまま「ごめんなさい」といって自分の部屋へと消えていった。私は、腹の虫がおさまらず、そんな眞知佳のとった行動に対してただ怒鳴るだけだった。


 そのとき考えれば、何故私は、眞知佳に怒ってしまったのだろうと思う。きっと眞知佳だって私にいいたいことは山ほどあったのに。そして、何よりも、眞知佳が帰ってきて一番ほっとしたのは、私自身の筈だったのに……


 それからしばらくして、眞知佳は家に帰ってくることもほとんどなくなってしまった。 自分のとった態度を改めもしないで、私はこれが家族というものなのかもしれない、などと考えて始めていた。しかし、そうやって私は眞知佳はどんどん追いつめていっていたのだ。




 眞知佳が地元の暴走族に入っているという話を聞いたのは、ごく最近の六月の初めのことであった。


 何でも近頃、七月一日に殺し合いをしようといった、奇妙なゴシップがこの世に広まり、その内容を実行するためだけの暴走族が、各地で結成されているという。


 そんな記事を新聞で見たとき、こんな奴らがいるということに対し眉毛を顰めることがあってもも、まさか我が娘は関係のあることだとは夢にも思わなかった。眞知佳は確かに家を留守にしがちだが、そんな心許ないことを信用するような子じゃない。あの子は心優しい子どもなのだ。


 だけど、その朝、近所の人からその話を聞いた瞬間、私は膝が崩れ落ちそうになった。 もしかするとが起こってしまった。その事実を知ったとき、最初私はそんなことを考えた。


 本当にそうだったのだろうか? 眞知佳はなるべくしてそうなってしまったのではないのか?


 そう、そうだったのだ。実際はその責任の大半は私にあったのだ。


 私は頭を抱えた。私はなんて馬鹿なまねしかできなかったんだろうと、何度も思い返した。


 眞知佳がそうなってしまうを食い止めるチャンスはいくらでもあったのだ。それを全て潰してしまったのは私に原因があるのだ。


 眞知佳がいなくなって、私は家族の大切さを改めて認識した。眞知佳がいなくなって、私は自分一人の存在の脆さを確認した。眞知佳をどうにかして、また私のもとに引き留めないといけない。そのために私は会社もきっぱりと辞めた。


 今、私は眞知佳が入っているという暴走族の情報を集めている。


 彼らが出没するという道路近くの住人からは、彼らについてよくない噂しか聞くことはない。


 眞知佳もその中の一人になってしまったのだ。


 …眞知佳、お前はそんなことがしたいのかい? 本当はしたくないなんかないんだろう?


 すぐに父さんが迎えに行くよ。父さんが……


 (続く)


 


 


   一九九九年 六月 十四日 (月)




   46


 


 6/14 一、新聞記事(社会面)


 


 <東大キャンパスでまたも放火>


 


 『今日未明、東京大学のキャンパス内でまたもや放火と見られる火事が起こった。


 今回、火が点けられたのは工学科の研究棟で、現場検証の結果、五日前に起こった火事とは火元が違うことから、別の犯人が行なったものか、あるいは同一犯が別の犯人を装って手口を変えたものなのか、双方の線から捜査が進められている』


 


 


   一九九九年 六月 十五日 (火)


 


   45


 


 6/15 一、バッティングセンターにて


 


 私は、背広姿でバッティングセンターの入り口に立つ、しかし、どうしてなのか、たくさんの中年層でごった返している。実はこの直前に、ゴルフの打ちっぱなしに行ってそこも以上に込んでいたためここに来たわけなのだが、これでは何時間も待つことになってしまいそうだ。


 とそのとき、後ろから私にかかってくる声があった。


 「ん、あ、どうもこんにちは」


 男はにこにこした顔で私を見る。はて、どこかであっただろうか? 私は気になって訊ねてみた。


 「え、あ、あのう、どちら様でしたっけ?」


 すると、相手は自分の顔に指を差す。


 「えーと、以前取り引きをした相手の室井というものですが、やっぱり覚えてませんかね?」


 その名前に、何となく覚えがあるような気がする。あ、おぼろげながらどんなことをしてきたのか思い出してきた。


 「あ、ああ、ああ。室井さん。も、勿論存じ上げておりますとも。確か、二年振りで」 「いえ、半年振りです」


 相手の即答に「ああ、そうでしたっけ?」などといいながら笑って誤魔化す。


 「そうです。お久し振りですねえ、天田さん」


 「あ、いえ、天野です」


 今度は私が即座に切り返す。


 「ああ、そうでしたよね。やだなあ、私」


 「お互い年をとると物忘れが酷くなって大変ですなあ」


 「いや、全くです。恐縮です」そういったあと、私達は改めて大笑いをした。


 お互いの顔を見合わせながら笑いを終わらせると、室井さんは私にこう訊ねてきた。


 「ところで、天野さんはどうしてこんなところにやってきたんですか? 会社、どうしたんですか?」


 「へ?」


 私はとぼける。ここにいるというのは無言の答えであるような気もするが彼にとってはそうでもないのかもしれない。まあ実際私だってそうである。本当だったらこっちが先に訊きたかった質問だったが先に振られてしまったらしょうがない。私は室井さんに体をこっちに寄せてもらうと、室井さんの耳元に手で小さなメガホンをつくりながら小さな声で今の自分の状況を正直に口にした。


 「あ、いや、最近辞めちゃいましてねえ。


 ほら、殺し合いがどうのこうのっていうのがあったでしょ? 近頃なんだか会社の中に異様な空気が流れていましてねえ。五月の中旬ぐらいですか? うちの会社宛にやたら『殺してやる!!』っていってくる脅迫まがいの電話がかかって来るようになりまして。誰かと思って警察に連絡して逆探知して調べてもらったら、今年四月に課長が一度怒っただけですぐに会社を辞めていった新入社員だったんですよ。その辺りからなんだか社内の雰囲気がずんと暗くなってしまいました。


 いえ、以前から、リストラ、リストラって、私の同期の人間が次々辞めさせられてって、結構陰湿な雰囲気がそこら中に張り巡らされてたんですが、その空気とはまた別のものなんですよ。


 なーんていうんでしょうかねえ。とにかく、背中にぞくぞくっとするような視線を常に感じるわけですよ。本当に息の詰まる、ここにいるのも躊われるような感覚が私を常に襲ってくるんです。怖いでしょう?


 まだリストラだって騒いでいるだけだった頃には、私もリストラの候補に入っているっていう噂だったから、私も『家に妻と子どもが二人いるんだ、家族を路頭に迷わせてたまるか!!』って、意地でも会社にしがみつこうと思っていたんですけど、今はあの噂にあの空気でしょ? 人気のある場所は何だか危ないんじゃないかなって思い切って辞表を提出してしまいました。


 そしたらまあ、案の定、カミさんに怒られてしまいまして、再就職口を探せと街に繰り出させられたわけなんですが、もし万が一、万が一ですよ? あれが本当になるかもしれないかな……なんて考えてしまって、それなら七月一日に何事もなかったのを見届けてからでも遅くはないかなって甘い意識が芽生えまして、それまでやることもないので、こんなところで時間を潰そうとしているという有り様です。いやあ、お恥ずかしい」


 「…!?……」


 私が長々とした言葉をいい終えた後も、室井さんは動こうとはしない。やっぱり他人に話すようなことではなかったのだろうか?


 「そうですよね、やっぱり私、駄目ですよね。こんなときこそ頑張って仕事探したほうがいいですよね。ハハハハ」


 私が首に、手を当てて笑っていると、室井さんは突然その腕を掴んできた。「へ?」と思い、室井さんの顔を見ると、彼は金魚のように口をパクパク動かしている。私が首を傾げると、ようやく室井さんは出なかったのであろうその声を発した。


 「………まさか、あなたもそうでしたか」


 「え、お宅もそうだったんですか?」


 「いやはや奇遇ですなあ」


 そういいながら、私達は再び大きな声で笑った。


 そして、またお互いの顔を見合わせながら、その声を止める。さらには、一緒に周囲をキョロキョロと確認する。


 たくさんの中年が私達を変な顔で見る。そう、私達みたいな感じの人々がとても大勢。 私達が行き着いた答えはやはり同じようだ。


 「もしかして、ここに集まってきている人たち、みんなそんな感じなのでしょうか?」 「ハハハ、そうかもしれませんねえ……」


 


 


   44


 


 6/15 三、システムエンジニア 茂村 建(その三)


 


 うるせえ。うるせえ。新聞配達のバイクの音がうるせえ。登校しようとしてか、奇声を上げてはしゃぎ回るガキどもがうるせえ。俺のアパートのドアをガンガン叩きながら「茂村さーん、今日はゴミの日じゃないわよー」とか叫ぶ大家の声がうるせえ。「いくらゴミの日でも部屋の真下がその場所だからって二階の窓から袋を投げないでっていつもいってるでしょー」とか喚くババアの存在自体がうるせえ。


 お前ら殺されたいのか。何の前触れもなく、木端微塵に吹き飛ばされたいのか!!


 計画がうまくいっていない。どこがどう間違ったのか、回路がうまく作動しない。時間がない。俺にはもう時間がないんだ。


 俺が汗を拭って顔を上げたところと、突然部屋中に呼び鈴が鳴り響いた。時計を目にすると、もはやそれは会社に着いているべき時刻だった。


 ここのところ俺は毎日遅刻をしているが、決まって催促の電話がかかってくる。あんなに「クビにする、クビにする」といっておきながら、なんだかんだいって課長のハゲも会社のほうもエリート社員である俺のことを手放したくないらしい。しかし、計画がうまく進んでいない以上俺は会社になど出ている暇はない。


 カレンダーを一瞥すると俺は奴らをからかってやる方法を思いついた。俺はパッと受話器をとる。


 「おい、茂村、聞こえているだろ? 頼む、会社に出てきてくれ。若い奴らが次々辞めて今お前しか残っていないんだ。A社に頼まれた、あのシステムのプログラミング、明後日が納期なんだ。だから、怒らないから黙って出てきてくれ。おい」


 「今日、六月十五日は千葉県民の日なので、県民の僕はお休みになります」


 「…おい、何いってんだ。下手に出ればつけ上がりやがって!! てめえ、コラ……」


 俺は受話器を置いた。


 まあ、このまま会社に遅刻続き、無断欠勤ってのも悪いよな。


 ちょっと遅れたけどあと二三日ぐらいでプログラミングも爆弾の配盤の製作のほうがうまくいってる予定だから、その後ぐらいには会社にまともに行ってやろうか。いや、もっと早く行って真面目ぶって社内の掃除なんかもしてやろうかな。まあ、本当は爆弾のセティングのためなんだけどね。ハッハッハッ。


 (続く)


 




   43


 


 6/15 四、宗教法人養成セミナー(その二)


 


 一週間前のあの、宗教法人セミナー、あれは一体何だったのだろう? 俺は気になって、もう一度十万円を持って無駄な税金をたくさん使ったであろう巨大なビルの中の会場まで足を運んだ。


 また十万円もかかるのだから、会場には客も減るんじゃないかと思ったが、減るどころか若干増えているような感じすらあった。


 先週、前のほうの端に座ってたあのヤクザはどうなったのだろう? そう思ってそちらを向いてみると、作務衣を着た坊主頭が座っている。どうやら、あのヤクザは来ていないようだ……って、あいつがそうなんじゃないのか!?


 この一週間の間に何があったっていうんだ? 詳しいことを知りたいような、知りたくないような……


 定刻の十分過ぎに先週と同じく青い背広を来た眼鏡の男、青井がやってきた。


 今週は何を話すんだ?


 俺は思わず裸剥き出しの十万円札を握り締めた。


 


 壇上につくと奴はすぐに頭を下げた。


 「皆さん、すみませんね。ちょっとサイドビジネスのほうに行っていたら遅くなってしまいました。えーっと、一週間のご無沙汰です。宗教法人セミナー、講師の青井です。よろしくお願いします。」


 サイドビジネス? 奴は他にまだ何かをやっているのか? …って奴の言葉にいちいち気にしているのは俺だけなのだろうか? 俺はすぐさま奴の話に耳を傾ける。


 「ではさて、今回は宗教を根付かせるにはどのようにすればいいのかの説明です。


 先週私は宗教とは、弱っている人間を掬うこと。弱っている人間の弱点ーーこれはイコール欲望ですねーーそれを攻める詐欺的な行為だと申しました。


 …ところが、です」ここで奴は急に大きな声を出したので一番前の真中の席の奴がビビッていた。「かのキリスト教を私のように欺瞞だなどと口走る人間はそこら辺を探してみてもまずいません。


 仏教にしたって、イスラム教にしたってそうですね?


 何故、誰もそんなことをいわないか?


 それは勿論、与える側が得られる得と、騙される側の奪われるもののバランスがいいから、騙されている側が自分たちは騙されたとすら気づかないような、きちんと信じ込めるものがその宗教の中に存在しているからですね。


 キリスト教もイスラム教も仏教も、ほとんどは無償でやっているようなものですものね。とりあえず、人が死んだり、結婚したときに『こいつは生きてたよん、生きてるよんって認めてやっから、その代わり金払いな!』っていう搾取の方法を行なって、今となってはそれが定着してしまって、もはや誰もが疑わないくらいです。


 こんなんじゃあ、みんなその宗教を信じ込むのに何の疑いも持ちません。何で本当にみんな訝らないんでしょうかねえ?


 宗教には必ず決まって神様の存在というものがあります。悪いことをすると、神様が見ていて、罰を与えるんだ、死後に地獄に行くことになるんだっていいますが実際そうなんでしょうか?


 それじゃあ、一体神様はいくつの目があるというんでしょう? いつ起きるかもしれないようなことを見ているなんて、神様も相当暇なんですねえ。


 …まあ、こんなところからもわかる通り、神様なんてのは残念ながらいません。地獄や天国、死後の世界なんてのも無論ありません。


 もしあるとしたら、人の観念の中に存在するだけです。


 考えてもみてくださいよ。全知全能、優しい心を持った神様が、何故に戦争を見過ごすんですか? 例えば、とある場所で、戦争が起こっているとしましょう。『ここはもともと俺の先祖様が住んでいたところだ!』っていながら一つの都市を占領しました。それの対し、もう一方の占領された側もまた似たようなことをいっている。


 そんな子どもみたいな理由でたくさんの人々が戦いに駆り出され、ジャンジャン死者が現れています。まあ、宗教戦争や民族紛争なんかでよく聞く話ですね」俺は歴史の授業をよく出てたわけでもないのでよくはわからないが、奴がいっている分にはそうなのだろう。


 「こういうとき、神様に本当に慈悲の心があって戦争を食い止めたいというのなら、この世の中にパーッと現れて、一言こういってしまえばいいんです。


 『そこは聖地じゃねえし、お前らの民族も特別じゃねえよ!!』って。


 そうすれば、平和になるんじゃないですか? どうですか?」


 奴の言葉に周囲がざわめき始めた。確かに、そういう戦争はなくなるのかもしれない。なくなるかもしれないが、なあ。


 奴はコホンと咳をすると、また語り始めた。


 「どうです? そういう真理も教えてくれない、そんな神や業に従うなんて、宗教に入っている皆さんは一体どういう神経をしているんでしょう?


 まあ、信じるだけなら、タダだからですかね?」


 俺は「ちげえよ」といいたかったが、それのあとに続くうまい言葉をうまくみつけられることはできなかった。無論奴は俺の思考に関係なく話し続けている。


 「…えーっと、宗教法人をつくりたい人を養成しましょうっていうこのセミナーでは、これではお金を儲けられそうにありませんよね?


 そこで、私は、『何でこんなアホなことが広まったんだろう?』という例を取り上げて一つ一つ検証してみましょう」そういうと奴はホワイトボードの前に、大きく引き伸ばされた写真のフィリップを二つ掲げた。


 「はい、この写真、誰ですか?」奴は訊ねる。その写真の写された二人の主を知らない奴はどうやらこのセミナー会場にはいない様子である。それぐらいの有名な奴だ。…悪い意味で。


 「はい、このチョビ髭、この髪型を見れば、皆さんもうおわかりですね。そう、アドルフ=ヒトラーです。


 はい、もう一つこの写真、もはや訊かなくてもいいですよね?


四年前、世間を騒がせたあの人です」


 いうまでもないことだろうが、とりあえず説明しておこう。今年は一九九九年である。…って、一体誰にいってんだか。


 「はい、そうです。オXム真理教の教祖、麻原彰晃、本名、松本千津夫ですね。


 この二人の人物をクローズアップして、そうしてこの人たちがカリスマ性を身につけたかをご説明しましょう」奴はニヤリと笑う。「ま、説明というほど大したことではないですね。早い話がこの人たちはただの人、凡人です。特別な血を引いて……といったことは一切ございません」


 セミナー全体がまた騒々しくなる。奴はそれを沈めるため、今度はパンパンと手を叩いた。


 「えーっ、皆さん、お前は何をいうんだ、実際ヒトラーの所為でホロゴーストは起きたじゃないか、地下鉄サリン事件は麻原を信仰していた奴らが現実に遂行されたんだろ、などと思われるでしょうが、やっぱりこの人たちは私達と同じ凡人でしかないのです。


 よく見ればわかることでしょう。


 例えば、アドルフ=ヒトラー。あんな髪であんな髭の人間のどこがいいっていうんです? あんなのギャグでしかないでしょう?


 麻原彰晃だって、あんなモジャモジャのブタ、写真を見るだけでうっとうしいでしょう?」


 その言葉に俺は思わず吹き出したが、周りの野郎達はそんな様子は微塵も見せない。それどころか、俺の声に一斉に後ろを向いてきたので、俺は少し冷や汗を掻いた。奴らはすぐに顔をホワイトボードのほうに戻したが、俺の心臓はバクバク動いている。


 教壇の前の奴は「いいですか?」などと訊ねる。いけいけ、早くいけ。


 「そう、私達には彼らをどう見たって凄い人だとは認識できない。でも、崇拝する人たちは確かにいる。


 その違いは何か?


 まあ、今までさんざ申し上げてきたからわかるでしょう。信じる人たちが弱っていたというだけです。弱者が、勝手に偶像をつくり出して、聖なる存在として祀り上げてしまったというのが、真実です。ヒトラー、麻原云々よりも、信じ込んだ人たちの背景ありき、ですね。


 しかし、です。弱者と一言でいってもよくわかりませんよね。ここでいう弱者とは何か? どんな状況の人間をそう呼ぶのか? それを皆さんに、わかりやすいようにご説明しましょう」そういうと奴は胸元から万年筆とメモ帳を出した。「まず、このように紙とペンを用意してください」


 その言葉を皮切りにセミナー受講者全員が鞄の中をゴソゴソ、掻き回し始めた。俺の前に座っている先程俺のことを白い目で見やがった頭と体のバランスがあっていない中年男が俺に筆記用具の要求をしてきたので、俺はそいつを睨みつつ、余っていた矢印ボールペンと手帳の切れ端をくれてやった。


 「はい、みなさん用意できましたか?


 では、その紙に、自分がこれがあるから生きていられる。これがあるから自分は自分の平静を保っていられるというものを書いてください。勿論、普通は一個じゃ終わりませんよね。思いつく限りたくさん書いてください」


 みながその声を聞いた途端にペンを走らせ出す。…おい、そんな大事なこと奴の一言だけで単純に書いてしまっていいのか? 何に使うかわからないんだぞ?


 俺がキョロキョロと見回していると、教壇の前の奴と偶然目が合ってしまったので俺はぎくっとした。しかし、奴は俺の心境を察したらしく、大声でいった。


 「えーっ、別にこの紙は集めません。あなたがた書いた本人がちょっと見るだけのものです。見る、というより整理するものですかね? 天井に隠しカメラなんかを仕掛けるお金があるのなら、もっと別のことに使っています。安心して書いてください」


 その声を聞いて、前席のデフォルメ中年はビクッと肩を動かして腕を止めたが、俺はその声を聞いて舌打ちをしながらシャーペンの頭をノックした。まあ、このままだと内容が進行しないようだからな。考えてやるとするか。


 ええと、まず金、かな。次に友人のタカハシ。恋人のナオミはもう別れてから半月経ってるから関係ないか。会社ももういってないしなあ。…まあ、一応、両親も入れておくか。


 ええと他に何があるかな? うーん、うーーん。


 そんな風に俺が頭を捻らせていたところ、奇妙な視線が近づいてきたことに気付く。前の席の男が振り向きながら俺のほうをちらちらと見るのだ。


 ん? なんだよ、デフォルメ中年。人のを見んなよ。それとも、もう俺の上げた銀行のボールペンもう書けなくしたってのか? もうやらねえよ。二本になるんだぞ。二本。二本。二本。二本。


 ちっ、やっと前の方に顔を戻したよ。気を取り直して自分はこれがあるから生きていられるっていうものを考えなきゃな。さっき書いたやつ以外でとなると……


 ………まあ、もうないな。うん、ない。あるわけねえじゃねえか。ねえねえ。絶対にねえ。ああ、本当にない。


 なんなんだ。これを一体どうしようってんだ? …えーと、さっきの説明は弱者の心境についての続きだったよな。これとそれがどういう風に繋がるんだ?


 「はい、ずいぶん時間を持たせました。皆さん書けましたね。


 じゃあ、今度はそれを全部否定してあなたが生きている、このまま永久に生きていなければならない姿を想像してみてください」


 奴のほざいた科白に、会場が声にならない声を発した。


 「思い浮かびますか? まあ、ろくでもない状況であるのは間違いありませんね。……あ、もうそのメモをした紙は捨ててしまって結構ですよ」


 俺はその声を聞く前からもう既にその紙を握り締めていた。こんなことがいいたかったのかよ。俺は口を歪ませる。奴のほうは少しも顔色を変えることなどなく説明を続けている。




 「実は弱者というのは多かれ少なかれこのような事態に追い込まれた人達のことなんです。先ほどの例に合わせて考えてみましょう。


 ドイツ軍は第一次世界対戦の敗北の後、多額の賠償金を支払いを迫られ、パンの値段が次の日に一万倍にも跳ね上がるという、凄まじいインフレが起こり、それによって人々は苦渋の生活を強いられる結果となりました。このときに現れたのがヒトラーであり、彼はこんな主張をしました。


 『俺達はこんなに苦しい生活を送らさせるような人間ではない筈だ。そうだ。そうなんだ。俺達は世界一優秀なゲルマン民族なんだ。…なら、他の奴らが俺らと同じくらい苦しんでないのはおかしい。殺しちゃえ』


 そして、自分たちが最悪な立場に置かれたのが我慢ならない、もっといい人種の筈だと実行されたのが、ユダヤ人大虐殺です。こうでもしないと、絶望的な情勢に立たされた国の誇りを守ることができず、結束も強くすることができなかったわけです。


 オXムも同じです。


 入会の背景はいろいろ違うでしょうが、わかりやすいように一例を上げましょう。オXム真理教の信者の中にたくさんの有名大学の卒業生達が混ざっていました。


 彼らは、おそらく小さい頃から親に勉強をやらされ続けて、あたかも、学業だけが自分が幸せを導き出せる活路だという先入観を植えつけられてしまった。本当だったら、世の中にはそれなりの量の生きていけるルートがいろいろある筈なのに、それらを見せなかったり、あるいはそれを潰されたりしてしまった。


 そのたった一つの残った道で、自分の満足した生活を送れたのならばなんら問題ない。だけどですね、もし、その道になんら意味を持つことができなかったら彼らはどう思うのでしょうか?


 この世界には現に、彼が選べなかった、もはや選ぶことのできなかった道で楽しく生きている人間がいたりするわけです。相当な不満が溜まり、今までの自分の生き方を再考せざるを得ないのでしょうかのではないでしょうか?


 そんな中で、彼らに新しい道をパッと示してあげたのがオXムだったわけです。それで彼らは、自分の見出してやったお前らを“救う”方法を提示する変わりに、俺を、この俺を、このチョビ髭を、このモジャモジャを、高らかに崇拝せよ、神として贖え、と主張したわけです。まあ、こういうことは一部の政治家なんかにもいえることですけどね」俺は頬杖をしながら奴の話を聞き入る。もはや、俺には間髪の入れようもない。


 「その弱者のタイプですが、普遍的なものもありますが、割と時期や世相によってその傾向が変わってきたりします。例えば、不況の時や環境が変わった四月や五月などでね。彼らを取り込むには、その時々の特に人々が悩んでいそうなことを解決する方法をちらつかせてあげればいいのです。それは前の講義にいったことでもありますし、巷の似たような宗教がたくさんある中で差をつけたいのなら、その悩んでいそうなことを解決する方法を、または解決したかのように見せかける方法を頑張って考えてみてください。いや、そこまでするセミナーではないので、皆さんがご自分で考えてください。


 えーっと、ではその肝心の弱者の見分け方ですが、それはこのご時世にそれほど重要なことではないのかもしれません。今の社会、これほど宗教に人をとり込めやすい時期はないからです。


 殺し合いの噂。そして、新聞でもちょっと話題になったでしょう、謎のラジオへの怪電波。はたまた、CPPEEなる変な会合の存在などによって、この世はかつてないほどの混乱期を迎えております。


 …私には、彼らの本当にしたいことがイマイチわからないのですが、ありとあらゆる人がこの噂によって大分弱っています。これを利用させてもらうに越したことはないでしょう。


 ちなみに、別段弱者を探そうとしなくても、もともと強いーー要するに精神的になんら問題がなかった、却って自信に満ちあふれていた人間でも、おだてたりヨイショしたりして相手に自分たちを信用させ、その後でその人物が持っていた悪いところ、弱いんだけど彼自身の中で目を瞑っていて見ない振りしていたところを、ボコボコに攻めて、相手の神経をボロボロにすることで弱者と変えることもできます。これは皆さんワイドショーなんかでもお馴染み、洗脳ですね」


 俺は口元を歪めた。セミナーの奴らは先程の弱者の思考のところからもうほとんど動かない。多分、こいつらは焦点の定まらない目でセミナーの主を見ていることだろう。


 「そう、あの会合がやっているのは、まさに洗脳なんです。洗脳した相手の叩きやすいことといったらありません。


 さて、どう相手を洗脳するか、ですが、残念ながら今週はここまでです。また今週詳しく取り上げなかった弱者と強者の見分け方、その二つの根本的な考え方の違いは来週に回すことにしましょう。 では、また来週……」そういうと奴はまたゆっくりとドアのほうへ歩くとその門を潜って消えた。


 …終わった……


 奴の話を聞いていてちょっと気分が悪くなった。


 なんであいつがあそこまでのことを知っているのかなんかが、結構疑問に上がったのだが、そんなことはどうでもいいのかもしれない。


 そういえば、奴は第一回目の時に宗教をやるお金を稼ぎたいとかいってたよなあ。一体どんな宗教なのだろう?


 ………


 まあ、いいや。俺は深く考えないことにした。


 そうだ。早く帰って眠ることにしよ……


 なんだか、自宅のベッドが妙に恋しくなっていた。


 (続く)





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