第三章 七節
7 一九九九年 五月 十九日 (水)
次の日、早速僕は学校を休んでstrangerの手紙に書いてあった住所に向かってみることにした。
その前にあらかじめ連絡をしておいたほうがいいだろうと思って、一〇四で名前と住所から電話番号を調べようとしたが、最近登録してない家庭が増えているという話の通り、案の定、登録されていなかった。
それならばもう直接出向いて話を聞くしかないと僕は腰を上げたというわけだ。
しかし、僕が知っているのは住所だけ。最寄り駅すらわからないような有様だったが、家の奥にあった東京の地図を引っ張り出して調べることで、大体の地域を搾り出した。
僕は母親に風邪だと嘘をつき、学校を休みにしてもらい、母親がパートに出た頃を見計らって、ナップザックを背負って九時頃家を出る。
他人に「この子、何で学校に行かないんだろう?」などという冷ややかな視線を浴びつつ電車に揺られること二十分、その目的の駅に到着。少し躊いつつも警察で道を教えてもらい、僕はそれから十五分歩いて、何とかその付近の住宅街にまで辿り着いた。
僕の手には今、strangerの手紙を握り締めている。
昨日、もう一度読み返して、これもまた嘘なのかもしれない、などという思考が不意に僕の胸に湧き上がった。
彼は女だった、そして彼は死んでしまった。
その全てが人を騙すことが大好きな彼のいたずらじゃないかって。
そうなのかもしれない。彼はきっと照れ屋なんだ。そうでもしないと恥ずかしくて、「僕は君に会いたい、君が僕のところへ来てくれ」だなんていえないんだ。
そうなんだ、そうに違いない。そう、そうに決まっている。
考えれば考えるほど自分が空しくなってくる。
彼は自分の置かれたの状況下でそんなジョークをいえるのだろうか?
いえない。いえやしない。
いったとしたら僕は彼を本気で殴るしかなくなる。
でも、でも……
それでもやっぱり生きていてもらいたい。死んだなんて嘘をいわないでもらいたい。
そんなことをずっと頭の中に巡らせながら、僕は遂に目的の建物を発見した。しかし、そこで僕は大層驚き、もう一度そこが本当に彼の手紙に書かれたものと一緒なのか確認した。
その行動に結びついたのはおそらく僕の中で彼に対する敬意がとても強いものだったからであろう。それ故に彼は何でもできる優秀な人間で、僕なんかと違って何不自由なく暮らしている人間だと勝手に決めつけていたのだ。きっとお金持ちのおぼっちゃまかなんかじゃないかとさえ考えていた。だから、この手紙の住所のマンションもさぞかし立派なものではないかと。
しかし、strangerが住んでいたという家は名前こそマンションのように立派だが、実物はそんなイメージとは程遠い壁にひびが入っているようなとてもこじんまりとしたアパートだったのだ。これによって僕の崩れかけていた彼への信頼はより一層傾いたものとなる。僕はこのときこんな風にがっかりした自分が卑しいとさえも思えないぐらい気持ちがぐらついてきていたのだ。
その気持ちも彼の心情を知ることができればいくらか納まるだろうか。僕は手紙に書かれた部屋の番号を探す。
足を踏み出すとカンカンと響く階段を昇り、コンクリート剥き出しの廊下を突き当たりまで歩いた203号室が目的の場所である。しかし、何号室と表記してあるプラスチックのケースに入れるべき住人の名字はない。本当にここがstrangerの住んでいる場所なのだろうか……
僕の胸に緊張が走る。
僕は単に呼び鈴としての効果しかない簡素な作りのインターフォンに手を近づける。
これを押せば全てがわかる。それがなんだか怖いような気がする。しかし、そうでなければここに来た意味がなくなる。僕は深く息を吐くと、恐る恐るボタンを押してみた。
しばしの間、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
だが、何の手応えはない。もう一度押してみても結果は同じ。その後幾度も繰り返してはみたが反応がない。誰もいないのだろうか? 時間を変えてまた来たほうがいいだろうか?
仕方なく帰ろうと廊下をとぼとぼ歩き始めたところ先ほどは緊張していたためか目に入らなかった隣の部屋の小さな張紙が目に写る。
「ご用のある方はノックしてください」
もしやと思ってまた203号室の部屋まで戻る。
僕は自分の襟を正すと、二、三度手の甲でドアを叩いた。何の音沙汰もなかったが、僕は何度も何度も叩いてみる。
ここもインターフォンが壊れているんじゃないかと思ったのだけれどもやっぱり留守なのだろうか。いや、まだだ。僕は最後の手段として普段殆ど用いることのないのない喉を使ってみることにした。
僕は顎の下の出っ張りを指で摘む。
「すみませーん。真咲さんのことでお訊きしたいことがあるんですけど、どなたかいらっしゃりませんでしょうか?」
久しぶりの大声はやっぱり声が掠れる。しかし、それも何もわからない今の状態から次に繋げるためだ。仕方ない。
やっぱり無反応かと思ったその時、突然ドアが開き、化粧を全くしていないためか、とても顔色が悪いように見える女の人が僕の目の前に現れた。
「あのお、どちら様でしょう……」
重苦しい雰囲気のともなった声。このとき僕は、「ああ、本当にstrangerは自殺してしまったんだ」とはっきりと認識した。
僕は自分の素性を話すとstrangerのお母さんに部屋の中へと案内された。玄関に上がるとそこはすでに居間のようである。冬は多分コタツになるのであろうテーブルの傍らに置かれた、たった今押入から出されたと思しききれいな座蒲団に僕はstrangerのお母さんから「座ってください」と薦められた。僕が「すみません」といって腰掛けると彼女は同じ部屋にある流しでお茶を組み始めた。
おそらく四畳半だと思われるこの部屋で腰を下ろしていると、背中や横に大きいタンスや食器棚がドンと置かれていて、さらにその周囲少々のスペースでもフルに利用して色々なものがうまく敷きつめられてるので、それらの存在に妙な圧迫感を感じる。タンスの上に詰み重ねられている小さな段ボールは天井すれすれまでに及んでいるし、これらは地震があったらすぐさま倒れてくるのではないかと人事ながら心配になった。
この部屋にテレビや電話はあったが、パソコンはなかった。となると、あるのはあの襖の向こうだろうか……
そんなことを考えていたところ、僕の前にお茶が置かれた。
strangerのお母さんは僕が来る前からテーブルにあった湯飲みに自分の分であろうお茶を急須で汲むとその席に座った。
すぐに話しかけてくるのかなとは思っていたのだけれども、彼女は宙の一点見つめるだけで何もいってこない。何となく声を掛けづらく、僕はお茶を口に含ませてゴクンと飲み込んだ。
しばしの沈黙のうち、彼女は突然ぽつりとこんな質問をした。
「あなた、パソコンであの子とメールをよく交換してたんですよね。あなた、あの子に対してどんな風に思っていましたか?」
やっぱり、死んでしまった娘のことは気になるのだろう。僕はゆっくりと本心を話し始めた。
「実は彼女は、僕とのメールのやりとりでは男として接していたんです。この手紙が来るまではてっきり男の人だと思っていました」
彼女は持ったりとした声で「他には?」と訪ねる。
「とても頭が良くて、僕なんかとは比べものにならないくらいいろんなことを知ってて、僕はいろんなことを相談してもらいました。僕は兄弟がいなかったから頼れる兄貴みたいだって、ずっと彼……あ、いや、彼女ですね……彼女のことを他の誰より一番に信頼していました」
strangerのお母さんの目はまだ僕を見ている。その視線からはもっと何かあるだろうという意味があるように思える。
まさか、デマの件で彼女は何かを知っているんじゃ……
僕が口を出そうと思った瞬間にstrangerのお母さんはこう切り出した。
「とても、裕福な家の子だと思った。…少なくとも、こんなボロボロなアパートに家族で暮らしてるなんて思わなかったんじゃない?」
僕は思わず「あっ」と口にしてしまった。strangerのお母さんは言葉を続ける。
「そうよね。パソコンを持っているんだもの。それなりの裕福な家を想像するわよね……」
彼女は僕に微笑みかける。僕はそれに返す言葉はなかった。
「全部私が悪いの。この狭いアパートに暮らすことになったのも、真咲がね、自殺することになったのも……」
僕は俯く。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
そう僕が言い出そうとしたときに、目の前に見慣れない女の子の横顔の写真が差し出された。ドライブに行ったときか何かに撮ったのだろう、助手席に座り、窓からの風に短めの髪のなびかせた鼻の高いその少女は笑顔を浮かべていた。その被写体の女の子が誰なのかは容易に想像できた。
「真咲よ。どう? 私がいうのも何だけど、きれいな顔してるでしょう?」
僕は頷きながら、一つの疑問が浮かんだ。彼女は「いじめられていても自分の容姿を見れば仕方がない」といった旨のことを手紙に書いていたような気がする。そのためか、strangerが僕は決して良くない容姿の女の子ではないかと推測していた。しかし、この写真に写った少女を見るとそんなにいじめられるような箇所があるようには思えなかった。
「じゃあ、こっちの写真を見たらどう思う?」
strangerのお母さんは今度は封筒に納められていた何枚かの写真を取り出して僕に見せてきた。
僕はそれを見て絶句した。そして、手紙に書かれた言葉の意味をようやく理解することができた。
他の正面のstrangerの顔が写った写真には全て左側にどんな小さなカットでも隠し切れない程の大きな切り傷があったのだ。
「全部私が悪いの……」
strangerのお母さんはさきほど呟いた科白をぽつりと繰り返した。その様子からこの傷ができた理由が充分に推測できた。そして彼女はその傷に纏わる話をぽつりぽつりと語り始めた。
この傷は、strangerが四歳の時にできたものだという。strangerのお母さんがキッチンで天ぷらを揚げているときにその悲劇は起きた。当時は今のような2Kのアパートなどではなく平屋の二階建てに彼女ら家族は住んでいたらしい。料理が一段落した頃、ふと何か胸騒ぎがして子供部屋に行ってみるとその時既に鋏が彼女の頬を貫いている状態だったという。あわてて病院に行ったが十二針も縫う大怪我で、医者にはもう一生後に残るといわれたらしい。
それまでstrangerは人懐っこくて明るい子どもだったそうだが、その事故があってから、男の子に傷のことで「お化けだー」などと詰られるようになり、その結果人見知りするようになり、だんだん笑顔を見せることもなくなっていったという。
さらに小学校に上がると、その特徴のある傷と暗い性格の所為かクラスの人間と溶け込むこともできず、挙げ句の果てにはいじめが起こるようになってしまった。
「フランケン菌が移る。近寄ってくるんじゃねえ」「わあ、あいつが盛った給食だよ。食ったらお腹壊すよなぁー」などという言葉で責めてくるものから、自分のものがなくなるというものまで日常茶飯時。先生にいっても二三言注意をしただけで終わってしまい、その後決まっていじめは前よりも酷い状況になってしまっていたという。友達もいず孤独な毎日で家に帰ると必ずstrangerのお母さんにに「もう学校に行きたくない」と洩らしていたという。しかし、彼女は厳格な家で育ったために、我が子が学校に行かないなんていう状況が起きてはいけないと本気で思っていたために「誰かに声を掛けなさい、きっとあなたの味方になってくれるわよ」という言葉を投げかけることしかできなかったそうだ。 学年が上がっていくうちに周囲のstrangerへのいじめもエスカレートした。そんな中、strangerが六年生になった頃、strangerのお母さんは父親と相談して、strangerに一つの提案をした。
私立中学に通ったらどうだというものだった。
そこでなら自分を知っている人間も少ないからやり直しも効く。多少の努力も必要だろうが、居間の状況から本当に抜け出したいのならやってみる価値はあるのではないか?
その申し出にstrangerは従った。といっても塾に通い始めたわけではない。だが、strangerは家から帰るとすぐさま部屋に飛び込み一分でも長い時間机に座って死に物狂いの勉強をした。
そうすること一年、strangerは苦労を実らせ、念願の女子の私立中学に進学を果たす。 しかし、それだけで彼女の苦難の根本が完全に消え去ったということにはならない。そこで入学式の当日strangerの母さんは一つの施しをした。strangerの頬にファンデーションを掛け、その傷が目立たないようにしたのだ。
学校からの了承も得てはいた。娘には小さい頃から顔に傷があってそのためにいじめを受けていた。娘はこの傷に大変コンプレックスがあり、なんとかして隠したいと思っている。そうstrangerのお母さんが学校に連絡を入れると校長は校則の例外を認めてくれた。 だが、しかしである。
周囲はその特別をよくは思わなかった。上級生に「派手な格好をしている子が一年の中にいる」と評判になり、まず最初の新入生いびり対象となってしまった。
また、傷がなければ容姿の整っていてかなり大人びていた彼女は何も上から知らされていない男性教師達の目に留まった。そして、いつの頃からかstrangerがよく授業でわからないところを質問をしに行っていた一人の若い教師とstrangerが恋仲なのではないかという噂が立つようになり、その男子教諭のことが好きだった担任の女性の教師からもいじめを受けるようになった。
そして、彼女はstrangerのファンデーションが実は顔の大きな傷を隠すものだったとわかるとそれを落とすように強要、落としてくると今度は明らかな異物扱いを始めた。この後、男性教師が別の女性と結婚をしてstrangerと教師との関係は事実無根のものと判明するのだが、担任の女教師は「私が彼と結ばれなかったのはお前の所為だ!!」と変ないい掛かりをつけ、strangerのことを詰り続けた。 strangerは回りからの救済を求めたのだが、担任がクラスメイト全員に対し、「この女と少しでも話をしたら成績を全てゼロにする」と公言してしまったが為に誰も言葉すら掛けてもらえず教室の隅に押しやられることとなった。
こんな事態に我が子が直面していると聞いてstrangerの両親も黙っているわけがなかった。学校に詰め掛け、必死の抗議をした。
何故、そんな状況でありながら見て見ぬ振りをするのか。他の教師は一体何をしているのか?
しかし、学校側は何も言葉を返すことができなかった。実はstrangerをいじめていた担任の女性教諭というのがこの学校の理事長の一人娘だったからだ。
もはや、私達どもは娘さんに何もしてあげられることはできない。もう被害を受けたくないというのであれば、ただ黙ってこの学校から立ち去っていただきたい。
校長がstrangerのお母さん達に返した言葉はただそれだけだったという。二人は娘のためにはこの理不尽な要求に従うしかなかった。
学校をやめたstrangerは、家に閉じ込もるようになった。今までの過去は捨てて普通の女の子として生活が送れる様にとたくさん勉強をして入った学校、そこでまさかその思いが脆くも崩れ去られるとは夢にも思わなかっただろう。
そんな娘の姿を見て、strangerのお母さんは、今まであまり飲まなかったお酒を飲むようになったという。「なんで、私の娘だけ、何で私の娘だけ……」そういう思いが募れば募るほど飲むお酒の量は増え、何の関係もない旦那にあたることが多くなったという。
旦那もそんな状況に耐えることはできなかったのだろう。かといって妻の心情がわからないでもない。その行為から無言で避ける為にstrangerの父親の帰宅時間は必然的に遅くなっていった。彼も毎日きっと妻がもう絶対に寝てると思った時刻に帰っていたのだろうが、それでも心配だったのか玄関に入る度に目の前にいきり立った妻の顔があった。そこからは「今まで何をしていたのか」という話を火種に近所の迷惑も顧みず壮絶な口喧嘩が毎晩のように行なわれていたという。
そんな様子をstrangerも遠くから聞いていたのではないかとstrangerのお母さんはいった。自分のことで家族が破綻しかかっている。そのことでかなり心を痛めていたのであろう。strangerのお母さんが部屋に行っても、対面を拒否することが度々あったそうだ。
そして、一年半前、この家族の崩壊が決定的になる事件が起こる。
strangerの父親が家に、一人の女性を連れてきたのだ。そのとき父親は開口一番こういった。「彼女と結婚することにした」それを聞いてstrangerのお母さんはあまりの唐突な出来事に理解ができなかったという。
父親は次々に離婚の条件をいってきた。養育費は払う。子どもはそっちが預かってほしい。慰謝料に関してはこちらにも内緒で他の女と付き合っていたという非はあるが、そもそもお前がヒステリーを起こしさえしなければ、こちらは不倫をすることなどなかった。お互いの立場を尊重して差し引きゼロということにして欲しい。
一晩冷静に考えたstrangerのお母さんはその要件を飲むことにした。それがstrangerにとっても最善の策のように思えたからだ。そして、strangerのお母さん達は今のアパートに引っ越してきた。
しかし、養育費が出たとはいえ、それだけでは生活ができるわけなどもなく、strangerのお母さんは近くのスーパーでパートを始めた。初めはうまく暮らしていけると思っていたstrangerのお母さんだったが、すぐに壁にぶつかった。パートでの人間関係がうまくいかなかったのだ。パート仲間との会話ではよく自分たちの子どものことが話題に上がっていた。しかし、自分の娘のことをどうしても切り出すことができず、話の輪から次第に離れていくことになった。
そんな日常での孤独、今までの裕福な暮らしとは打って変わった細かいお金を切り詰める生活、そして何より夫という自分の憂さを晴らす格好の相手を失ったstrangerのお母さんは、今度はstrangerを自分のストレスを発散させる標的にしてしまった。
「お前が悪い! お前が自分の顔に傷をつけたから私はここまで悲惨な生活を送らなきゃいけなくなったんだ! お前が悪い。お前の所為だ!!」
そうやって責め立てる日々がごく最近まで延々と続き、そして、三日前の日曜日、ついにstrangerは自宅で首を吊ってしまった……
「全部、全部私が悪いんです……」
strangerのお母さんは先程僕にいった言葉を繰り返した。
「あの子ね。死ぬ一週間前、お花をくれたんです。インターネットの通信販売で。私、そのとき自分のやっていることに対してはっとしました。それなのに、私、あの子に嫌みをいってしまった。そのとき私は本当はあの子に嫌みなんかいうつもりはなかったんです。自分に、自分にいいたかった。自分に。こんな自分に。だけど弱いから、私はもう何かに責任を押しつけないと生きていけないから……それが、それがこんなことになる結果になるなんて……
何もしてあげられなかった、それどころか真咲をあそこまで追い詰めてしまった……
だけど、これだけは信じてください。私があそこまで神経質になってしまっていたのは最初は真咲のことを思ってだったんです。真咲のためを思ってだったんです。
どうしてこんなことになったんでしょうね……
きっと真咲が学校に行かなくなったときに私がきちんと真咲のことを受け入れてあげることができたなら、真咲もこんな形で死んでしまうこともなかったのに……」
strangerのお母さんは天井を仰いだ。きっと涙が零れるのを押さえているのだろう。そして、彼女は目を指で拭うと視線を落とした。
「一昨日にね、真咲のお葬式をしたんです。真咲はあの学校の時での事件以来、私が香水の匂いをさせただけで嫌がっていたんだけど、その日は真咲の頬にお化粧を塗ってあげました。天国では、こんな傷で苦しまずに安らかな時を送れるように。
そのとき、ちょっと私が驚くことがあったんです。きっと私達の親族以外あの子の死になんて関係ないんじゃないかと思っていたんですけど、どうやって知ったのか、真咲の小学生の時の同級生の女の子が来てくれたんです。
その時、あの子の顔を見て『そんな傷があったって、私達がちゃんと友達として見てあげられたなら、こんなことにならなかったのに、ごめんね、ごめんね……』って何度も謝ってくれて……
それに……」
strangerのお母さんは僕の顔をじっと見た。
「……あなたがいてくれた。死ぬ前に一人、とても大切な友達をつくることができた。きっと本当は真咲がいいたかったんだろうけど、もういえないから、私が代わりにお礼をいいます。
ありがとう……」
僕は俯いた。いや、違う。僕は何もしてあげられなかったんだ。何も、何も……
「あなたに、真咲からの手紙があったんですよね……」
その言葉を聞いてはっとした。僕はstrangerのお母さんの顔を直視した。
「い、いえ。見せてほしいなんてことはいいません。あなたと真咲との間でしかわからない言葉があるのでしょうから。私には、そんなものを見る資格もありません……」
どうやら、僕の行動がstrangerの手紙の閲覧を拒否するものに思えたらしい。勿論、見せろといわれたら断るという事実には変わりはないのだが……
「いえ、そうじゃないんです。ちょっと、一つだけお願いがあるんです。あの、真咲さんのパソコンを見せてもらえないでしょうか?」
そう、僕にはまだstrangerのためにやってあげられることがある。 この世の混乱を食い止めること。そのためにはどんな些細な情報でも得る必要がある。
strangerのお母さんは一瞬口籠る。何かいってはいけないことでもいったのだろうか? strangerのお母さんは頬を撫でた。
「…真咲の手紙に書いてあったんですか? パソコンの中身を見て欲しい、と」
「………はい」
僕は嘘をついた。こういえばいくらか見せてもらいやすくなるだろうと思ったからだ。 strangerのお母さんは目を泳がせる。
もしかして、電源を抜いてしまったとか……
僕はたまらず質問をした。
「あの、どうしたのでしょうか?」
strangerのお母さんはやっと僕の方に視点を戻す。
「あ、いやですね、大樹が昨日いじったみたいなんです。
あの子に私は連絡もできなくって、真咲の通夜にも告別式にも出なかったんです。
玄関を上がると、すぐに奥の部屋……あ、この襖の向こうの寝室のことです……そこに入ったのであとをおいかけてみるとそこには今まで見慣れない黒い仏壇があったはずなのにそれを無視してパソコンのほうに向かったんです。『借りる』って一言いうとそこからカタカタ作業を始めて。『真咲が死んだのよ。悲しくないの!?』って訊いたら、こっちもむかずに『どうせいつか死ぬだろうと思ってたから』なんて口にするものだから思わず服を引っ張って立たせて平手打ちを喰らわせましたよ」
「………!?」
それを聞いて僕の胸から何か変なものが湧き上がる。
タイキ、タイキというのは誰だ?
「あのう、タイキさんというのは真咲さんのお兄さんか何かでしょうか?」
strangerのお母さんは目を瞬きさせた。
「あれ、私、話してなかったでしょうか?」
僕は首を振る。
「そうでしたか。真咲と大樹は最近までとても仲の良い兄妹だったんです。
真咲が小さい頃につけた傷のことでいじめられていると、大樹は率先して助けに行ってくれたし、私がこのアパートで暮らしを始め、真咲にストレスを当たり散らそうとしたときも、大樹は私を食い止めようとしたりした。それくらい、真咲にとって妹思いのいいお兄さんでした。
だけどですね。高校三年になって、あと一年で卒業っていうときに大樹は突然高校をやめるっていい出したんです。理由は家計の問題でした。私が苦労して稼いでいるのを見て……いえ、違いますね。私が働いてストレスを貯めて帰ってきて真咲でうっぷんを晴らしているのを見ているのが堪らなく苦しくなってそんなことをいい出したんでしょう。私は勿論、学校のほうも大樹は優秀な生徒だったので引き留めたんですけど、大樹はいい出したら聞かなかった。
でも、やっぱり今の世の中、最低高校ぐらい出とかないといけないみたいですね。こんな不況の世の中で、アルバイトなんかじゃなくて正社員として雇われたい、高校中退の大樹の希望がすんなりと通るわけがない。
大樹は途方に暮れましてね。必死に探していたんですが、途中で何故自分がこんな苦労をしなくちゃいけないんだって思ったんじゃないですかね。変な友達を作ると真咲のことを殆ど構わなくなって、家にもあまり帰らなくなってしまいました」
僕は生唾を飲む。
多分、strangerのお母さんのいった通りなのだろう。
strangerのお兄さんは始めこそ、頑張ってstrangerのことを思っていたけど、そのことで家族が喧嘩して、両親が離婚するまでに至って、しかも自分がどれだけ努力を重ねたところで妹が変わる様子がない。徒労で終わってしまう。それに学校をやめて働こうとしたがそれができない、自分の妹のためというきれいごとだけでは動かない現実社会の厳しさに触れるにつれて、それまで自分が培って来たものは何だったんだろうという疑問に晒され、今まで歩んできた道から足を踏み外すこととなった。そこで新しい自分を見つけると、もはや、妹の死すら関係なく思うようになってしまった……
誰がいけないんだろう?
誰がいけなくてこの家族はここまで崩れ去らなければならなかったのだろう?
僕にはその答えが見つからなかった。
そう、strangerのことを思うなら、まず僕は先に進まないといけないんだ。
だけど、昨日の夜になって何故strangerのパソコンなんかをいじり回したのだろう? まさか……
僕の心拍数が急速に上がる。僕はすぐさまこう質問した。
「あの、すみません。その…大樹さんでしたっけ?
家から出てくときに何かいっていませんでしたか?」
襖の向こうからは何も聞こえない。彼はもう向こうの家のほうに帰ってしまったのではないかと思った。
するとstrangerのお母さんは座った目になってこんなことを語った。
「ああ、大樹ですか?
『あのパソコン、俺んところに持ち込んでいいか?』とか訊いてきたんで、『妹の葬式にも出ないで何ですか!!』って怒鳴ってやりりましたよ」
僕は口を噤む。
きっとstrangerの兄貴にもいろんなことがあったのであろう。しかし、どうしてそこまで変わってしまったのだろうか? 僕にはどうしても理解できなかった。
そうだ、肝心のパソコンは?
「ああ、大丈夫です。ちゃんと向こうの部屋にありますよ。でも……」
でも?
「その前に真咲にお線香をあげてやってもらえませんか?」
僕は重要な情報がなくなっていないことに対してほっとするとともに、strangerが死んだという事実を改めて認識することになった。
襖の向こうは二段ベッドとパソコンと仏壇だけでその殆どを占領する狭い部屋であった。この部屋がstrangerの住む空間だったのだろう。彼女が生きている頃には仏壇はなかった筈だが、それでも彼女が生活をするにはとても窮屈だったろうと思えた。ここに押し込まれた彼女は何を夢見て生きていたのだろう? 僕は何か胸が苦しくなるものがあった。 strangerの遺影を見る。彼女のその写真には……顔に傷があるままだった。strangerのお母さんは、どうしようか迷ったんだけど、この写真のほうが私が侵した過ちを毎日認識できることになるといった。彼女は死ぬまで、strangerの死を胸に刻み込んで生きていくみたいだ。
僕は線香に煙が立つようにしてそれを捧げると、鐘を鳴らして手を合わせる。
僕がこの世の混乱を食い止めて見せるよ
そのことを彼女に誓って。
焼香が終わると、僕はいよいよstrangerのパソコンと向かい合うこととなる。彼女がデマを流すきっかけとなった深い理由がこの中に眠っているかもしれない。僕は唾をごくんと飲み込んだ。
ちゃぶ台ほどの高さのテーブルにパソコンが一式置いてある。どうやら、この前にある座蒲団に正座してやるものらしい。
僕はとりあえずこの部屋に一人っきりにしてもらえるようにstrangerのお母さんに頼む。そして襖が閉まったのをこの目で見てから僕はstrangerが僕とメールをする度に腰掛けていたであろう座蒲団に足を乗せて、パソコンのモニターと画面の距離の具合を調整する。
機種はウィンドウズ。僕と一緒である。
以前、メールでいろいろと教えてもらったことがあったが、その記憶も遠く霞む。
彼女がここでどんな世界を見ていたというのか。その答えがこの中にある筈だ。
まず僕は、strangerがインターネットでどんなサイトに接続したのか履歴を見てみることにした。もしstrangerの兄によって荒らされているものがあるとすれば、この部分だったと思ったからだ。
案の定、履歴にはインターネットのアダルトページの名前がずらずらと並んでいた。
しかし、その全てが昨日の日付であり、strangerが生きているうちに見たと思われるページは何一つなかった。
何故死んだ妹のパソコンでこんなものを見れるのだ?
もはやその大樹とかいう人物について怒りの感情すら湧かない。
しかし今彼に腹を立てても何が変わるというわけでない。僕は気を取り直して受け取られた電子メールの閲覧に取りかかる。
ところが、やはりすんなりと見られない構造になっていた。プロテクターが掛かっていて、パスワードを入力しないと見ることができない状態になっていたのだ。
パスワード。
これを必要とすることはstrangerにとって知られたくない情報が入っているということである。
それは多分、僕と行ったデマ流しのことが書いてあるに違いない。ということは、もしかすると、今までの彼女とのやりとりの中でそのヒントがあるかもしれない。
僕はまずとりあえずこの単語を入れてみた。
stranger。
結果はエラー。
そこまで簡単なものではないらしい。
僕はstrangerとの会話を思いだし、パスワードとなりそうなものを入力していく。
彼氏彼女の事情。
エラー。
新世紀エヴァンゲリオン。
エラー。
ドラえもんの最終回。
エラー。
これではどうだろう?
Lord。
…やっぱりエラー。
そんなことをいくらか繰り返したであろうか?
何度やってもパスワードを解明することはできず僕は途方に暮れた。
僕はふうっと息をついてstrangerの部屋を見てみる。
鏡もない。横に自分の存在できる場所を覆い被せるベッドがあるだけの部屋。僅かに日常と繋ぎ止める接線があるとすればがその大きな物体からわずかに顔を出している窓から見える外の景色があるくらい。
この部屋で彼女はどんな気持ちで過ごしていたのだろう?
頬の傷。
これによって彼女はいじめられるに至った。
stranger。
その名前には、たった一つの違いで疎遠にされてしまった自分の存在の居た堪れない気持ちが隠されていたのじゃないのだろうか? ものすごく近くにいるのに、彼女はそれだけでもはや誰にも相手にされず、もうこの世では永遠に独りぼっちなのかもしれないという懸念に苛まれていたのだ……
憂鬱。
そんな言葉ではいい表わせない思いだっただろう。
僕は狭いガラスの向こうの景色をぼんやりと眺める。
そのとき僕の頭に一つの単語がパッと思い浮かんだ。
僕は急いで僕はキーボードに向かってその文字を打った。
blue
考えてみればstrangerがくれた手紙は全て青い色で包まれていたじゃないか。もしかすると、それが彼女の欝積した心を遠回しに僕に伝えようとしていたのかもしれない。
パスワードは……それで当たっていた。
遂にstrangerのメールボックスが開く。
そこには、今まで僕が送ったメールが全て保存されていた。
その一つ一つを読み返して、僕は「ああ、strangerはちゃんと僕との対話を大事にしておいてくれていたんだ」と感謝の感情が湧いた。
一度捨てられたと諦めかけていたことがあっただけに、その反動で目から涙がボロボロと溢れた。
泣いてばかりもいられない。僕は一通り探してみたが、僕とのやりとりとダイレクトメール以外strangerのメールボックスにはそれらしきメールは入っていなかった。
他には何かないだろうか?
例えば日記とか……
いろいろとファイルをいじくっているうちにもう一度パスワードを問われる画面になった。
もしかすると、これが日記に通じているのかもしれない。
僕はさっきと同じようにblueと入力するとやはりそのファイルは開いた。
その中身は、思った通り日記であった。
そこには、手紙には書いていない、あのデマを流すまでの背景と、そして、彼女の僕への想いの文章が連ねてあった……




