第三章 二節
2 一九九九年 四月 十七日 (土)
昨日の夜から僕は放心状態のままだった。
あれほど信頼していてたstrangerが突然消えてしまった。無論、今も尚連絡はつかない。
…どうして…… …どうして……?
そんな疑問があの後眠るまでぐるぐると頭を巡っていたが、今はもはや考える気がでない。体を動かす力さえなくなってしまった。
そうして僕は母親に嘘をついて、学校を休んでしまった。
その母親は随分前にパートに出ていてしまって、家にはもう誰もいない。
一人きりの部屋。一人きりの空間。
この静かな空気に僕はなんだか打ち負かされてしまいそうで、ベッドの中に身を縮込ませる。布団の中の暗闇をぼんやりと眺めながら、僕は自分の今の状況の惨めさについて少しずつ思考し始めた。
別にこんなこと前にもあったことじゃないか。そう、前にも……
確かにあったかもしれない。でも、あんなに、あんなに人を信用したことなんてなかった。僕は結局、人に騙され、捨てられる人生なのだろうか……?
誰でもいい。誰でもいいから違うといって欲しかった。でも、本当にいってほしい一番の人物とは僕はもう連絡は取れない。
…strangerはどんなつもりで、あのデマを流そうとしたのだろう?
僕は目を瞬く。目を瞑っても、開いても、あるのは光のない世界。しかし、僕はその世界にもどうにか明かりを灯したかった。
僕は布団を除けて、天井を見上げる。
そう、僕はあのとき、デマに信憑性を出すこともあって、その怪電波がどのようにして受信されたかにばかり目を向けていた。
しかしおそらくstrangerの主眼は、その流された怪電波の内容にあったのだ。
確かstrangerはこんな内容を書いていた。
『1999年七月一日、午前九時、バーサーカーが次々とこの世に現れ、人々を殺戮の彼方へ誘う……』
…このバーサーカーとは何だろう?
僕はベッドから起き上がると机の上の鞄を開く。英和辞書で根気良く探してみると、berserkerという思ったよりも簡単なスペルで、それらしき単語を見つけた。
1.<北欧伝説>猛戦士
2.狂暴な人
『狂暴な人が街などに次々現われて、人々を殺戮の彼方に誘う……』
なんてことはない。誰かの殺人の犯行予告になる。
誰かといえば……それはstrangerのになるだろう。複数いるような記述なのは……僕もそれに当てはまるということだろうか。
それとももともといたstrangerの仲間達のことか。まあ、こっちだよなあ。
だが待てよ? 噂を流したのはstrangerである。本当に予告したければ、strangerが自分で噂で流そうとしたこと、つまり怪電波を飛ばすということをstranger自身がやってしまえばよかったのではないのか? それは確かに気の遠くなるような作業かもしれないが、少なくともstrangerが住所を知っている僕には、「このラジオ面白いよ」などといって薦めるなりして聴いているであろう時間に電波を流すことは不可能ではない。
ん?
またちょっと引っ掛かる部分があったが、ああ、それは自分がラジオを持っていないことだとすぐに気がついた。
まあ、今のご時世CDラジカセの一つも持ってない若者を連想する人間はあまりいないだろう。僕はパソコンを持っているから尚のことそう思われて当然だ。strangerがそんなことをいったら多分自分も親にねだったことだろう。
そうしてそのデマを聞かせて、一人でも信じ込ませられれば、あとは噂を流すにしても楽に作業を進められるだろうに。
だがstrangerはそれはしなかった。まあ、すぐに自分の仕業だと僕にばれるかもしれないと判断したからだろうが。
しかし、そもそも、何故strangerは自分の犯行予告を自分で自分で怖がる振りをしてまで流そうと思ったのだ?
そこまできて僕はあることに気がついた。これはデマだと知っている僕だからstrangerの犯行予告だと思ったわけだが、何も知らない第三者が見たら一体誰の予告だと思うのだろう?
どこの誰かもわからない、得体の知れない謎の人物の犯行予告になるのではないか?
しかも、そいつらは青いワゴン車を乗り回し、東京地方で少なくとも三カ所、デマを送っていた。まして法定内の電波範囲内で無作為にデマを飛ばし続け、偶然にもチャット上の三人が聞き取ったということになっている。そう、不特定多数で更に限られた条件の重なった中で、三人もが同じものを聴き取れているのだ。これは個人の仕業ではない。どこかの人間が組織的にやっているという風に考えられなくもないのではないか?
………
時計の音がやけに耳に残る。
…そういえば、本当だったら学校に行くべき時間なんだなと、ふと思い出す。だけど体は気怠いままだ。
とりあえず僕はゆっくりと椅子から立ち上がり、ベッドへと飛び乗った。
僕はそこまで考えて馬鹿らしくなってきた。
あそこのチャットに参加した奴だってよくよく考えれば、あんなの単なるゴシップだってわかるだろう。ここまで深読みしようとする馬鹿なんているわけがない。大体、今までのデマだって、その時どんなに盛り上がったところでその場が過ぎれば忘れ去られてしまっていた。これだってそうに決まっている。こんなのをいつまでもしつこく考えるような奴は、世界を終わらせたい、とか思っている愚かな人間ぐらいなものだ。
そこまで考えて僕は胸が詰まる。
学校で熱が出て、風間達に万引きを強要されて、しかも『彼氏彼女の事情』のビデオも録れていずに、最悪な気分で一日を締め括ることになったあの日、僕は確かにそんなことを考えたことがあった。
でも、それはその時にそういう嫌なことが日常的に起きていたからで、その後は、友達もできたし、そんなこと頭に浮かびもしなかった。自分のことがうまくいっていて考えるまでもなかったのだ。
しかし今となっては、その唯一の友達と思っていた男に逃げられて、僕は絶望的な気持ちになっている。僕にはもう生活を支えてくれるものがないのだ……
………
…怖い。
この広い空間そのものが怖い。この静かな空間が怖い。
やがてこの空間と僕は同化して消えていってしまったりはしないだろうか……?
…誰も答えない。そりゃそうだ。
眠ろう。寝て起きれば多少は気が紛れるさ。
あんなどうでもいい嘘ももうみんな忘れているさ。それこそ夢から覚めたみたいにパッとさ。
…だから眠ろう。眠るしかない……
…何もない……
ただ一面真っ暗だ。
僕はその真っ暗な空間を何の支えもなくただ浮いている。
そこを風間達が通り過ぎていく。風間達は不適な笑みを浮かべて、羽島は大きな笑い声を、山岸は嫌みに口元を緩ませて。
別にお前らなんかどこかにいってもいいさ。お前らは僕をいじめてきたんだ。誰が関わってやるもんか。
しばらくそこを漂っていると、今度は小学生の頃の同級生達が現れた。その中には僕の初恋の女の子もいる。
だけど、彼らも僕の横を通り過ぎてしまった。
いいんだ。彼らも僕を虚仮にした。いるだけ無駄だって僕を邪険にした。彼らとも離れてしまってもかまわない。
それから大分時間が経つと、今度は両親と邦生が僕に近づいてきた。
母親が僕を抱きしめる素振りを見せたが、結局その体は僕を擦り抜けてしまった。僕が眉毛を下げると、母親は、「こんな成績の悪い子はうちの子ではありません」といった。 じゃあなんでお兄ちゃんはお母さんの傍にいるの? お父さんはここに来てくれないの?
僕の返事に答えてくれもせずに三人は遠くに消え去っていってしまった。
お母さんは僕じゃなくて、僕の出す成績だけが本当の息子なんだ。そんなお母さんに、お父さんは何もいってくれない。お兄ちゃんは僕のものをたくさん奪うだけだ。いいさいいさ、みんなどっか行っちゃえばいいさ。
僕は尚も空間の中を浮遊し続ける。その後も見たことのあるような顔が次々と僕の顔に現れては消えていく。
いいんだ、どうせ僕のことなんかちっともわかってくれない。わかってくれようともしない。
そんな中で一度も見たことのない顔の人物が現われた。
でも、なんとなくわかる。strangerだ。彼が僕に会いに来てくれたんだ!
僕は嬉しくなってstrangerのところへ歩いてみようとする。
だけど何故だろう? 不思議にも体が動かないのだ。
え、どうして、なんで歩けないの!?
僕は必死にもがくのだけれど全然身体がいうことを効かない。僕が前に進むことに気をとられていると、strangerが僕に背を向けて、どこかに行ってしまおうとしている。
待って! 置いてかないで!!
僕は懸命に叫ぼうとするも、どうしたことか声も出ないのだ。
…なんで、なんでみんな行っちゃうんだよ……
僕は独りぼっちだ。ずっとずっと独りぼっちのまんまなんだ。
僕は心底悲しかった。
もう誰も僕を相手にしてくれない……
僕は涙を流す。わんわんと泣く。もう訳が分からないけどとりあえず顔は水によってグジョグジョだった。
ふと頭を上げてみた。すると僕に向かって真っ白に光る何かが近づいてくることに気づいた。
その光は更に接近してきて、僕のところに届いたかと思うと、僕の周りを包み始めた。一面に広がる白い光、その中にいるとなんだか体がぽかぽかと温かくなってきた。
「…道生君……」
優しい声が僕の名前を呼んでくれた。
…誰? 誰なの……?
僕がそう口にしようとしたとき、大きな音が辺りに響き渡った……
トゥルルルルルル…… トゥルルルルルル……
僕は電話の音で目が覚めた。
咄嗟に時計を見る。十一時四十分、僕は三時間眠っていたらしい。
こんな昼間に誰が電話をかけてくるというのだ? まあ、どうせ間違い電話かセールスの類だろう。
僕はそのままやり過ごすと何度目のコールかで呼び出し音がピタリと止まった。僕はまた安心して寝ようと布団を体にかけるとまた鳴り始めたので、あまりのしつこさに実際に受話器をとって苦情を申し立てることにした。
「はい、もしもし河原ですけど」
自然と投げやりな口調にもなる。まあ、どうせお前にもデリカシーはないだろう。そんなことを思っていたのだが、聞こえてきた声のは予想外のものだった。
「河原君? 河原君でしょ?」
僕を君付けする女の声。ここに僕へ電話をしてきて馴れ馴れしく名前を呼ぶ様な奴は一人しかいない。岡崎、お節介好きの岡崎教師だ。
「私、君の副担任の岡崎だけど、わかるわよねえ」
僕は反応なんか示さない。しかし、これが岡崎にとっては僕の返事のようなものだろう。
「そうして無断で休むの! みんな心配してるわよ……」
一体誰がこの僕を気にかけるというのだ? 馬鹿も休み休みいえよ。
畜生、あんな夢の直後の電話が何故よりによってこいつなんだ。お前なんかだったらセールスのほうが怒鳴れるからまだマシだよ。
僕はこの電話の最中、終始黙りを決め込むことにした。
「もしかして誰も心配してないと思っているの?」
余計なお世話だよ。
「そういえばあなた前、教室に行かれない理由があるとかいっていなかった?」
それは、お前の所為だという意味だったのだが。
「もしあなたがいじめられているとしたら私あなたに絶対協力するから」
嘘をつけ!! 今お前だっていじめられてるんじゃないのか? それも僕がいじめを受けていた僕のクラスの生徒達にさ!!
まあいいや、ずっとしゃべらないでおこうと思ってたけど、ちょっとからかってやろう。
「協力ってどんなですか?」
受話器の向こうで岡崎の絶句する顔が目に見えるようである。
しばらくしてからその回答が来る。
「みんながあなたと仲良くなるように私、声をかけるから」
無駄だと思う。
僕はさらに岡崎に問いかける。
「どんな風に?」
「………」
今度は全くしゃべらない。そりゃあ思いつく筈もなかろう。
もはや何の応答もなく一分ぐらいの時間が経ったので、岡崎ももう諦めただろうと電話を置こうと思ったら、受話器の向こうから微かにすすり泣く声が聞こえたので僕は正直驚いた。
「………ごめんね…………ごめんね………
……私……本当は何もしてあげられないの………
……何かしてあげなきゃ、って思うんだけど、だけど本当に何にもしてあげられないの………
……ごめんね………ごめんね………」
そう岡崎がいい終えても受話器からはまた嗚咽が漏れ続ける。
僕は、その状況にどう対処していいのかわからなかった。
謝らなきゃいけないような気がしたけどその言葉もうまく出てこない。僕は口を噤むことしかできない。
岡崎の嗚咽がやむ。その後彼女は呼吸を整えた後こんなのとをいった。
「河原君、さっき私が自分を誰も心配していないって思ってるんじゃないかっていったとき、河原君は何にも答えられなかったけど私はあなたのこと心配してるから。
…だから、明日、絶対に学校に来てよね。それじゃあ……」
…電話は切れた。
僕はその後、ただただ頭の中がポーッとしていて何も考えられなくなっていた。
とりあえず僕はまたベッドに横になることにした。
目を瞑ると、さっきよりもいい夢が必ず見れそうな予感がした。
しかしそんな頃にも確かに僕の前には、いまだかつてないほどの悪夢が刻一刻と近づいてきていた。何故さっきまであんなに悩んでいたことを僕は忘れてしまったのか。どうしてそのことについて今よく考えておかなかったのか。僕はこの後、その後悔に体を打ち震わせることになるーー




