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アルプスのおでん屋

おでんと熱燗

作者: 井川林檎

絶望したときにこそ、おでんを食べたい。

おでんと熱燗  


 バイトを辞めてきた。

 心身ともに疲れ果てている。重たい体をひきずるようにして自転車にまたがり、気に入りの自販機までこぐ。

 坂道がのろのろと続いている。

 今日は昼間から曇天だった。曇りの日の夜空は暗い。町がどんなに明るくても、どんよりしている。

 件の銭湯前の自販機コーナーで、今日もやっぱりプリンシェイクを飲む。

 じわじわ効く甘みじゃねえか、くーっ、もう一杯。

 …と、いきたいところだったが、財布の中身と、ここのところ不摂生でたるんできた己の体のことを思うと断念する。

 おとなしく帰るか、幽霊下宿に。

 

 わたしの住むアパートはだだっ広い2DK、台所も広々としておりテーブルと食器棚が余裕で置けるほどだ。学生アパートとしては贅沢なほうだと言えよう。

 にもかかわらず、この貧乏学生なわたしが住んでいる。

 それは、この部屋が事故物件だから。

 アンド、ルームメイトのハイジとシェアしているから半額になって、相当お得なのだ。

 とはいえ、次のバイトをすぐに探さないと、幽霊下宿どころか大学の講座に住みつくほか、なくなる。

 心細い預金額について思うと、病気になりそうだ。

 ボロボロになりながら自転車をとめ、コンクリの階段を上る。

 今日は同居人のハイジがいないはずだ。友達と一緒に温泉に行ってくるとかで、今朝、真っ赤なほっぺをつやつやさせて出て行った。

 それで、今晩は幽霊下宿に一人きりである。

 (一晩中、あらゆる明かりをつけて過ごす)

 (一晩中、テレビとラジオをつけて過ごす)

 (鏡は絶対見ない)

 (酒飲んで正体なくして寝ちまう)

 等々、ハイジがいない夜のための対策は立ててある。

 がちゃりと重く陰気な音を立ててドアを開く。真っ暗な部屋はどことなく湿っぽい。寒いのは冬だから仕方ないが、「ひょひょひょひょー」と、うっすら聞こえてくる女性の声みたいなのは何だ。

 まず玄関の明かりをパチンとつけ、次は洗面台、トイレ、風呂場、がたんと扉を開いて台所の明かり、そして居間件わたしの部屋の明かりをつける。

 次に、まるで黒い鏡のような窓を、極力見ないようにしてカーテンを引いてゆく。

 テレビのリモコンをONにすると、深夜アニメが流れ出す。

 台所のラジオも大音響で流しておく。

 がっちゃがっちゃと煩い上に、めちゃくちゃに明るい。

 ほふう、とテーブル席に座り込む。気が休まらないかわりに、幽霊が出る隙もなくなった。

 ふと見ると、テーブルにメモ書きがあった。ハイジの字である。

 「コンロにおでんが作ってあります。あと、部屋に日本酒があるからのんでいいよ」

 うは、と喜びながらコンロの鍋を覗く。ハイジは料理がうまい。ことに、おでんとか、ちょっとした居酒屋メニューみたいなものが、最高にうまい。ちょちょいのちょいと作ってしまう上に、心に浸みこむ旨さ。若い女子のすることじゃない。まるでオカアサンあるいはオバアチャンの仕事だ。

 コンロに火をかけ、居間とふすまで隔てられているハイジの部屋に入る。

 当然、暗い。

 いそいで明かりをつける。

 入るたび、おとめちっくな薄ピンクやら薄むらさきやらのコーディネイトが信じられなくなる。うちのハイジはマイメロディーとキキララが好きらしい。件の酒瓶も、おそらく「し●むら」で購入したマイメロのぬいぐるみの横に、どかんと置かれていた。

 おとめちっくルームなのに、日本酒(笑)。

 とか思いながら部屋を出ようとしたら、ふりかえったそこに男がぬーんと立っていたので、比喩的な意味でだが、腰を抜かした。

 (あかん、無視だ)

 数か月前に風呂場で手首を切ったやつかどうかは分からん。

 いろいろ出るから、もう、どいつがどうだか。

 かちんこちんになりながら、とりあえず電気はつけたまま、ハイジの部屋を出る。ふすまをしめて、急ぎ足で台所に戻る。昔の熱血バレーアニメの主題歌を声を張り上げて歌いながら振り向くと、奴はついてきていた。

 上目でこっちを見ている。

 大学生くらいか。だとしたら、やっぱりこいつは、自殺した前の入居者かもしれん。

 とりあえず無視して、銚子に酒をそそぎ、燗をつける。

 おでんはぐつぐつ煮えてきたから火を切った。意識して頭の中を、古いバレーアニメ一色にした。

 「レシーブう、スパイクッ」

 大根、ちくわ、こんにゃく。

 「行くわよー」

 アタック、でおでんの皿と一緒に振り向いたら、彼はテーブル席について、アンニュイな顔で頬杖をついていた。

 しょうがなかった。

 燗のついた銚子を、とっすとテーブルに置き、手酌で飲み始める。

 幽霊と無言で向き合いながら。

 「…ブルマは正義だよね」

 ぼそっと幽霊が言った。

 喋ったことに驚いたが、無視するしかない。とりつかれたくないから。

 大根をしみじみと噛みしめ、ちょうどよく温まった酒を飲む。

 うまい。実にうまい。

 「赤いブルマとか、ほんとうにイイ。俺はね、ブルマが好きなんだ」

 勝手に語っている。

 ラジオの深夜放送とか、深夜アニメとかうるさく流れているのに、妙に耳障りなんだよ幽霊の語りは。

 酔いも手伝ってわたしは大胆になる。

 「うまい。実にうまい。おでんは大根に限る」

 「ブルマはね、世の中のためになるんだよ」

 無視されているのに、彼は語り続けた。ペーターは…いつしかわたしは奴を心の中でそう呼んでいた…ペーターは、自分がいかにブルマを愛好しているか、女子中学のグラウンドを覗くことをどんなに楽しみにしていたかを語っていた。

 しかし世の中はブルマを捨てた。

 今や小学校から高校にいたるまで、ブルマを着用している女子はほとんどいない。皆無といってよい。

 「ダメなんだよ、ショートパンツじゃ」

 血の涙を流しながらペーターは言った。

 「かわりにならないんだよ。俺は認めない。こんな世の中を、俺は」

 たまごとゴボウ巻き、大根を皿にもり、燗をもう一本つけてから、わたしはテーブルに戻る。

 さすがはおでんだ。

 どうでもいいことをブツブツ言い続ける幽霊と向かい合っていても、うまいものはうまい。

 「あああ、実にいい。実にうまい。そうだ、次は居酒屋でバイトしよう」

 いつの間にか前向きになっているではないか。おでんと熱燗のパワーは凄まじい。

 一方ペーターは相変わらずである。

 「赤のブルマなんか滅多にないんだ。紺か黒かがスタンダードだけど、俺はぜひとも赤を推したい。いっそ、ブルマをはいて繁華街を闊歩してほしい、世の中の女子に。というか、ブルマが正装ファッションになる日がくることを俺は待ち望む。その日まで俺は成仏できな」

 い、と言わずに、ペーターはぱっと消えた。

 がちゃと台所のドアが開き、きょとんとした顔のハイジが帰ってきていた。

 「なーに…ぜんぶ明かりつけちゃって。それにテレビとラジオまで」

 真っ赤な頬っぺたを、外気でさらに赤くほてらせながら、ハイジが帰ってきた。

 「こっちこそ何でだよ。今日はお泊りするんじゃなかったの」

 わたしが、ややろれつが回らなくなった舌で言うと、さばさばとハイジは席に座った。さっきまでペーターがいた場所である。すると、薄暗かったそこが、ぱっとオレンジ色の光に包まれたように明るくなった。疲れちゃったよ、と言いながら、とても元気にハイジは言った。

 「クララがねー、もう帰りたいっていったから帰ってきちゃった」

 クララというのはハイジの友達だ。もちろんあだ名である。

 前々から聞いていたが、虚弱体質で、ちょっとわがままなところがあるらしく、美人なのにイマイチまわりに溶け込めない感じの子らしい。ハイジの友達だからクララである。

 はい、お土産、と、バッグから箱を出して、とんとテーブルに置いた。

 どこの温泉にいってきたんだか、ぷりん饅頭と印刷されている。

 「温泉卵がね、美味しかったの」

 あ、わたしもおでん。あと熱燗。

 言いながら席を立って、てきぱきとハイジは動き始める。

 わたしは黙ってラジオを切り、テレビを消し、玄関までいってつけっ放しの明かりを次々と消してきた。

 「そうそう、省エネしないとー」

 ハイジはぱっと笑い、おでんの卵に噛みついた。

 あのさ、ハイジ、さっきまでそこにペーターがいたんだよ。

 そして、ブルマについて熱弁していたんだけど、そのおでんを食べていたら、幽霊がいてもどうでも良くなったんだよ。

 心の中でそう話しかけた。

 実際に喋ったわけじゃないのに、まるで聞こえたみたいにハイジは笑った。

 「うん、おでんは前向きになれる食べ物だねー。生きててよかったって思うねえ」

 心地よい眠気が襲ってきて、わたしはテーブルにつっぷした。

 明日は豆カレーを作ろうかな、というハイジの声が遠くで聞こえ、そして朝が近づいた。

今日、おでんをしこんだので、明日つまむのが楽しみだ。by主婦

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― 新着の感想 ―
[良い点] 幽霊がブルマを語りだした時、驚愕しました。 [一言] 読みやすかったです。 文章が私の波長にぴったりで、嬉しかったです。 おもしろかった。
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