シチューには秘密がいっぱい
地平線の彼方に消えた太陽の残滓が西の空に美しい茜色を映し、その後を追うように濃紺の闇が迫る頃。
金色のおさげをひるがえし、少女がひとり、薄暗い村道を駆け抜ける。森の木々に囲まれた村はその影に覆われ、すでに少し先の見通しも怪しいような明るさだが、通い慣れた道なのかその足に迷いはない。しかし、そのあまりの勢いに手に下げていた籠の中から葉が一枚舞い、ふわりと道端の暗がりの中に消えた。
それに気付いた少女は、これ以上飛ばないようにとあわてて中身を手で押さえつけたのだった。
ユエは自分の家の前を走って通り過ぎると、二軒となりの黒く煤けた木製の扉に飛び込んだ。
ばたばたと騒々しく扉を開け閉めしたせいか、家の主が驚いて廊下に顔を出す。
「どうしたんだい、そんなに慌てて。幽霊でも出たかい」
目を丸くしている老婆に返事をすることもできず、扉に背を預けて荒い息を吐いた。
どくどくと動悸がうるさい。思わず胸を押さえる。走ったせいもあるが、大半は森で出会った蜥蜴のせいだ。
「な、なんでも、ないです。師匠。……言われた薬草、採ってきました」
息切れしながら籠を差し出すと、師匠、と呼ばれた老婆は訝しげな顔をしながらそれを受け取る。彼女は中の根や葉をいくつか摘んで確かめると、少し表情をゆるめて頷いた。
「間違いないね。……ただしねえ、ユエ。もう少し早く帰ってこないといけないよ。森を甘くみちゃあいけない」
窓の外の薄闇を見て、老婆は最後にユエを叱った。
森から採れる薬草が主な産物となっているこの村では、毎日のように村人が森に入る。小さいうちから日が傾く前には森から出るよう口酸っぱく言われている彼らでも、何年かに一度、そこかしこにある薬草に夢中になって遭難し、何日も経ってぼろぼろの姿で発見されることがあるのだ。なかにはそのまま見つからなかったり、遺体となって帰る者もいるくらいだ。
叱られる理由もその身を心配する故と知っているからこそ、ユエは素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……まったく。あんたに何かあったらご両親に会ったときに何て言っていいかわかりゃあしない。私の方が先に逝くんだからね」
言葉尻はきつくとも、両親が死んで以来何くれと面倒をみてくれる老婆の優しさをユエはありがたく思っていた。当時十三歳の子供ひとりでは、いくら薬草の売買で潤った村とはいえ生きていく知恵も力も無かったのだから。
薬師多しと言われるこの村でも名の知れたバルバのもとで教えを請うて三年、ユエはようやく調合も教わり初めたところだった。
「それで、食事は済んだのかい」
食べていくか、と聞かないところがこの人の誘い方だ。森から帰ったばかりで夕食を食べたはずもないと知っているのに、ユエが自ら望んだときにしか振舞おうとしない。
押し付けがましくなく、さりとて素っ気なくもない、心地よい優しさだった。
「一緒にいただいていいですか」
苦笑して聞くと、バルバはおいで、と手招きひとつしてユエをダイニングへ誘った。
暖かいシチューで膨らんだ腹をさすりながら、帰途につく。
扉から扉まで、三十秒もない距離を歩くと自宅だ。ユエは真っ暗な室内に入り、明かりをつける。
「……ただいま」
一人しかいない場所で、いつものように帰宅の声をあげる。
「おかえりー」
前掛けの中からこれまたいつものように甲高い返事が返って、ユエは破顔した。
ムッカだ。
「ババのシチュー、おいしかった?」
ぴょん、とおたまは前掛けから飛び出すとダイニングテーブルに登る。バ"ル"バだ、と何度言ってもムッカはババ、と呼ぶのでユエは訂正するのを諦めていた。
「うん。おいしかった。いつも変わったスパイスが入ってるの。匂いからして薬草だろうとは思うんだけど、何かまだ分からないのよね」
ユエが感想を述べると、ムッカが悔しそうに身をよじった。
「もー!一回そのシチューに浸かれば絶対何か当てられるのにー」
ユエはころころ笑う。スプーンならまだしも、人様の家でおたまを持参するわけにもいかない。というわけで、バルバシチューのレシピは未だ謎のままなのだ。
「さあ、今日は遅いしもう寝ましょ。明日はコクチナシを干さなきゃならないし」
「ねぇ、ティハのところには、いつ行くの」
ムッカが待てない、とばかりに身を揺らす。
やっぱり聞かれるわよね、とユエはこっそり肩を落とした。
正直、今日起こったことを飲み込むだけで精一杯だったのだ。それこそ、これは夢かもしれないと思ったほど。
だから一晩寝て頭を整理しようと思っていたのに、このおたまときたらそれも許してくれないらしい。まあ、あのような珍事、忘れろという方が無理かもしれないが。
「……そうね。次の薬草摘みが三日後だから、そのときかしら」
少し考えて、無難な回答を出す。
「そっか!じゃあ、それまでに何を作るか考えなきゃね。何がいいかなー」
このまま一晩中考えていそうな様子のムッカだが、霊代の彼女に睡眠は必要ない。放っておいても問題ないだろう。
おやすみ、と声をかけてユエは寝室の寝台にもぐり込んだ。